新世界

 ヤーラ君からの連絡は、報告でも応援の要請でもなかったけれど、そのか細い声音から私は心して聞かなければいけないことだとすぐに察した。


 ロキさんが助かったという話はなかったが、最悪の報告も聞いてはいないので、たぶん、助けられるかどうかの瀬戸際にいるんだと思う。

 そんな逼迫した状況を彼一人に背負わせてしまって申し訳ない気持ちになる。私が力になれることなら、なんでもやらなくてはいけない。


『あの……』


 その声だけで、言いたいことはたくさんあるのに、どう言えばいいのかわからないのだろうとわかる。


『こんなときに、言うことじゃない……と、思うんですけど……』


「いいよ」


 それだけ言って、私は続きをじっと待った。



『……僕は……弟に、死んでほしく、なかったんです』


「うん」


『弟を……ホムンクルスにしてしまったのは、たぶん……ずっと、生きていてほしかったから……だと、思うんです』


「うん」


『本当は……本当は、すごく嫌いになるときもあったんです。ずーっと泣いていて、僕ばっかりいろいろやってあげなくちゃいけなくて、全部投げ出したくなるときもあって……でも、それでも……』


「……うん」


『……死にたくなかっただろうな……僕だって、死んでほしくなかった……もう、誰も――』


 今にも泣き出しそうな声色にぎゅっと胸が締め付けられる。でも、その何倍も、彼は苦しんでいたはずだった。

 これはきっと、小さくて淡々とした、叫び声。



『……すいません。こんな話しちゃって』


「全然いいよ。……ありがとう」


 自然とお礼を口にしていた。ヤーラ君がこんなふうに自分の気持ちを話してくれるのは、初めてだったから。

 慣れないことをたどたどしくも一生懸命話してくれたことが、その相手として私を選んでくれたことが、嬉しかったから。


 どのくらいかわからない、沈黙があった。



『――人は、死んだらどうなるんでしょう』



 さっきよりもずっと落ち着いた調子で、ずっと重たい言葉が投げかけられる。


『数で言えば、1人死んだらマイナス1。負傷や病気もマイナスになるなら、腕を失ったレオ先輩はマイナス0.2くらいになるのかな。だとしたら、やっぱりマイナスはゼロなのが一番いい』


 ほとんど独り言に近い呟きだった。

 私は黙って聞く。余計な言葉で邪魔をしてはいけないような気がした。


『治療というのは、そのマイナスを「1」に戻す作業なんでしょうか。じゃあ、「1」の状態ってなんですか? 健康な状態? 生まれつき手や足のない人は、初めからマイナスですか? 身体的なものでなくとも、いろいろなことができる人とそうでない人に数値的な差はありますか?』


 私にとっては難しい話なのかもしれない。でも、感覚的にではあるが、言いたいことはなんとなくわかる。


『……違いますよね。あなたなら、そう言うと思うんです。それで、死んだ人はどうなるか……身体は朽ち果てて、大地に還って、生命を育みます。魂は――僕たちの中に残ります。いいようにも、悪いようにも作用します。錬金術みたいに……』


 ふと、お兄ちゃんのことが浮かんだ。身体は魔界に行ったまま帰ってこなくても、私の中には――



『戻るべき形なんて、あるべき姿なんて――ないんです。ただ、生まれ変わるだけだ』


 私は無言で、だけど力強く頷いた。その姿は向こうには見えなくても、しっかりと伝わったはずだ。


 不思議なほどゆったりとした静寂。自分が宮殿にいることも、ここが敵地であることも、すべて忘れてしまいそうな……。


 やがて水晶の向こうから、私たちが待ち望んでいた報告が聞こえた。



『ありがとうございます。ロキさんは助かりました』



 思わず飛び上がりそうになるのをぐっと我慢する。

 内心はらはらしていたに違いないのに、じっと私たちを見届けてくれていたトマスさんも、顔を上げてまじまじとこちらを見ている。


「ありがとう、ヤーラ君。それじゃあ――」


『僕はまだ、やることがあります。失礼します』


 拍子抜けするくらいあっさりと通話が切れてしまい、私はちょっとの間固まってしまった。



「……本当なのか? 本当にロキは助かったのか? あの少年、なんか様子おかしくなかったか?」


 トマスさんは半信半疑といった顔で冷や汗を浮かべていた。

 確かに、ヤーラ君は喋っているうちにだんだん様子が変わっていった。もしかしたら、正気を失くしてしまっているのかもしれない。それでも。


「大丈夫です。だって、ヤーラ君ですから」


 私は自信満々に笑ってみせた。



  ◆



 シグルドはその不可解な言動をした少年をじっと見つめていた。


 作為やさかしらの世界から最も遠い場所にいるであろう、素朴で飾り気のないあの少女と連絡を取ったことは、彼にとって最上の手立てだったと思う。

 しかし、少年は今さっき、こう言った。


『ありがとうございます。ロキさんは助かりました』


 彼はまだ何もしていない。ロキは相変わらず、眠っているかのように血だまりの中で動かないままでいる。



 さっきまで不安と焦燥に駆られていた少年は、今は不気味なほど平静を保っている。ゆったりとした、穏やかな呼吸。


「宇宙の仕組みと、人間の仕組みは、同じなんです」


 虚空を眺めながら、少年は呟く。それが錬金術の考え方だとはシグルドも知っていた。


「世界が生まれ変わるように、人間も生まれ変わる。その仕組みを知るには、世界を、人間を、理解しなければならない」


 シグルドは黙って傾聴する。彼の中に、余計な言葉はない。



「世界を知るのに、言葉はいらない。それが、真実の言葉だ」



 ほんの一瞬――少年の右目が、太陽のような輝きを放った。


 空気がゆらめく。

 礼拝堂という狭い一室が、世界をそのまま凝縮した空間になったように感じられる。

 その小さな世界は、今、確実に何かが変わった。新しくなった。生まれ変わった。


 そのままさっさと踵を返して歩き去ろうとする彼を追う前に、シグルドは放置されたロキの様子を確かめる。

 傷は嘘のように綺麗に塞がっている。ほんのわずかな呼吸音も聞こえる。


 ――本当に、助かったのか……。



 安心したのも束の間、岩が粉砕されるような轟音が響いて、そちらをばっと振り返る。


 礼拝堂の扉が壊されて、外に群がっていた黒い魔物たちがわらわらと中に入ろうとしている。小さな少年は、まったく動くこともなく魔物たちと対峙している。

 シグルドは急いで弓を構えたが、その必要はなかった。


 少年が手をかざすと、黒い生物たちは瞬く間に煙のように消滅していった。


 さっき「やることがある」と言っていた彼は、そのまま外に出て行ってしまう。シグルドはロキを敵に見つからなさそうな場所に隠し、その後を追っていった。

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