血の来訪者

 肩を押さえる手に生ぬるい感触を覚えつつ、ノエリアはふらふらと広い廊下を歩く。


 あの2人からは、炎魔法を煙幕にしてかろうじて逃げた。幸い追ってはこなかった。放っておいても問題ないと思われたのかもしれない。ここで敵に会ったら、確実に死ぬだろう。


 怖いというより心細かった。傷が痛む。



「あら……」


 ぽつりと聞こえたその声は、ノエリアが最も会いたかった人物のそれだった。


「お姉様……」


 気が緩んだ途端に力が抜け、その身体をロゼールに預けた。隣にいたスレインが傷の具合を確かめる。「深くはないな」とポーションを飲ませてくれた。


「ノエリア。君の傷は魔物のではないな。誰にやられた?」


「……ディートリント、と――」


 かろうじて絞り出したその名は、スレインの表情を硬くした。

 まだ言わなければならないことがある。が、疲労が言葉をせき止める。


 ノエリアはロゼールの吸い込まれるような瞳を見つめる。声を発するまでもなく、すべて伝わったと感じた。


「ああ……そういうこと。迂闊だったわね。私の間違いだったわ」


「珍しいな。君でも間違えるのか」


「間違えなかったら気持ち悪いでしょう?」


 頼もしいほど余裕たっぷりのロゼールは、耳のピアスの小さな宝石を外した。それは<EXストラテジー>には支給されない連絡道具だった。


「エステルちゃん、聞こえる?」


『ロゼールさんですか? どうしました?』


「ヘルミーナちゃんが裏切っちゃったみたい」


 向こうの声が途切れる。エステルがどんな顔をしているのか、容易に想像できる。隣のスレインですら驚いたようにロゼールの顔を見つめている。


「裏切り、っていうのは違うかしら。たぶん……そうね。あの子、初めから誰の敵でも誰の味方でもなかったのよ。そういう意識が薄かったのね。あの子が考えているのは、たった1つだけ」


 ノエリアは脱力する。ヘルミーナは完全に敵ではないが、味方でもない。


『さっき……マリオさんが、ヘルミーナさんが中庭にいるのを見たって……』


「なら、話は早いわ。エステルちゃん。あの殺し屋に伝えることは1つだけ――わかってるわよね?」


『はい』


 ノエリアの脳裏に、「殺し屋」という物騒な単語がこびりつく。



  ◆



 ヘルミーナは黙ってその光景を見ていた。


 自分の仲間――だった少女が、顔中を腫らして血と泥にまみれながら、ぐったりと倒れている。傍には満足気にニヤついている将軍、ヴコールがハンカチで手を拭いていた。


「遅いじゃありませんか。まったく、獣人というのは無駄に頑丈だから、大人しくさせるのも骨だ」


 もう1人倒れているのが、ミアの父のグラント将軍だった。さんざん暴れた跡があるが、今は意識を失っているらしい。


 思うところがないでもなかった。ミアは可愛らしくて、素直で、温かい少女だった。

 ミアだけではない。<EXストラテジー>は前のパーティと違って居心地のいい場所だった。誰も彼女に暴力を振るったり、非道な扱いをしたりはしなかった。むしろ、仲間として大切に思ってくれていたはずだ。


 嫌っているわけでも、軽んじているつもりもなかった。それでも。


 ――どうせみんな、お姉ちゃんみたいに、消えてしまうのだし……。



「さあ、あなたはうちの兵を治療してください。まだあの暗君も馬鹿皇子も生きているかもしれない。早くしないと乗り遅れてしまう……ククク」


「……」


「何をしている。早く、治療だ!」


「あ……すみません」


 ヘルミーナは負傷している兵士のもとにそろそろと歩いて行き、治癒魔術をかける。

 本当はもっと早く行動できるのだが、そうしなかった。待っていたかった。


「……もし不審な素振りを見せたら、そこに転がってるガキみたいにしてやる」


 やる気がないのを見透かされたのか、ヴコールが脅すように低い声で告げる。


 ヘルミーナは特になんとも思わない。殴られたり蹴られたりするのは、前のパーティでさんざん経験したことなので、もう慣れてしまっていた。自分で治す手間が少しかかるだけだ。


 早く治してくれ、と脚を切り裂かれた兵士が懇願する。ヘルミーナは同情もなにもしない。黙って患部に手を添えて、ゆっくりと魔力をこめる。



 噴水のように噴き出した血が、彼女に降りかかった。



 眼前の兵士が首から上を失ってごろんと倒れる。ヘルミーナの頬を生温かい液体が伝う。


「う、うわあああああああああっ!!!」


 犠牲者は1人ではなかった。兵士たちが次々と首や胴体を切断されて死んでいく。

 阿鼻叫喚の地獄に、ヴコールは顔を引きつらせるが――ヘルミーナは、うっとりと笑った。


 ――こんなことができるのは、あの人しかいない……。


 血だまりのど真ん中を平然と歩いて、彼はやって来た。



「やあ。ヴコールはヘルミーナの友達かい? ぼくとも友達になろう!」



 この結界に囲まれた空間に、外部から侵入することなど不可能だ――と、魔族側の者は皆思っていただろう。

 事実、ヴコールはそこにいるはずのない男に、そして部下たちをあっという間に惨殺してしまったことに、笑う余裕を失っていた。


 ヘルミーナはそうではない。彼なら、なんとかしてここまで来てくれると信じていた。何の根拠もなかったし、その方法も思いつかなかったのだが。


「モーリス……」


 名前を呼ぶと、彼は返り血をべったり浴びた笑顔を向けて、小さく手を振った。

 ヘルミーナは喜びのあまり自分の体温が上がるのを感じる。いつもの震えは起きなかった。



「な、何をしているのです!! 奴をどうにかしなさい!!」


 ヴコールは明らかにその異質な侵入者を恐れていた。部下たちも同様で、お互い顔を見合わせながら様子を伺っている。


「あの……ここは私が。彼のこと、知っているので……」


 ヘルミーナは小声で主張する。

 ヒーラーである彼女にヴコールは期待できるはずがなかったのだが、時間稼ぎにでもなればいいと思ったのか、反対はしなかった。


「いいでしょう。行きますよ!」


 ヴコール軍は安心したように撤退していく。


 やっと邪魔者がいなくなった、とヘルミーナは笑った。

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