エメラルドの教え
ロキは静かに眠っている。今にも止まってしまいそうな、かすかな呼吸だけを残して。
ヤーラはひとまず、その冷え切った腕に注射を刺す。どう考えても回復のスピードは間に合わないが、時間稼ぎになればいい。
止血用の布をどければ、案の定、重傷だ。魔人の爪に裂かれたであろう大きな傷を塞がなくてはならない。――それも、錬金術で。
すなわち、人体を手動で再構成しなければならないということだ。それはもはや、生命を作り変えることに等しい。
下手をすれば、死なせるより恐ろしい状況になる。
錬金術師カミルのもとで、ヤーラは人体の仕組みを学び、人間に近い魔物の死骸で練習した。結果は五分だった。
あまりに早く訪れた実践は、幼い少年には荷が重いのかもしれない。
――どこから手をつければ……? どうやって、元に戻す……?
手をこまねいている少年の傍に、すっとシグルドが寄り添う。
「深呼吸。10秒吸って、10秒吐け」
「は……はいっ」
几帳面なヤーラは、数字で指定されればきちんとその通りに実行する。心の中で数えながら、1、2、3……。
おもむろにシグルドが弓に1本の矢をつがえる。
放たれた矢が、向こうの壁にかかっている燭台の蝋燭のちょうど真ん中あたりを綺麗に割った。
見事な腕前を披露した弓の達人は、幼い少年を振り返る。
「……俺がどうやってあれを射抜いたか、わかるか」
「えーと……こう、構えて、よく狙って……撃つんじゃないんですか?」
弓など持ったことのないヤーラは、素人なりに構える素振りを交えて返答する。
シグルドは、黙って首を振る。
「違う。俺は何もしていない」
「え?」
「弓はどうすれば矢を上手く飛ばせるかを知っている。矢はどうすれば上手く的に当たるかを知っている。的はどうすれば自分が壊れるかを知っている。俺はそれを、聞いているだけだ」
「聞く……んですか」
「そうだ。そこに言葉はいらない。自分の中に余計な言葉があると、彼らの声は聞こえない。深呼吸して、集中しろ」
「……」
静かな礼拝堂に、すーっとかすかな呼吸の音だけが聞こえる。
震えは少し治まった気がした。それでも、シグルドの言う「声」は聞こえない。耳を澄ませても、集中しようとしても、ヤーラの頭にあるのは――
「じ……自分の中の余計な『言葉』は、どうすれば消えますか……」
「……。消そうとしなくていい。何が聞こえる?」
それは、少年の頭にずっとこびりついて離れない声。
「泣き声……死んだ弟が、僕を呼んで……泣き叫ぶ声が、聞こえます」
小さな身体で、必死に生きようと大声で訴えていた弟。それを裏切り、死なせてしまった罪悪感。
それを思うとたまらなくなって、爪を噛みちぎりたくなる。
シグルドはその悲痛な言葉に黙って耳を傾け、じっくり咀嚼するように目を閉じてうつむいた後――そのエメラルド色の瞳を、小さな錬金術師に向けた。
「それは、君の悲鳴だ」
はっとして、ヤーラは噛んでいた指を離す。
悲鳴。
――叫んで喚きたかったのは、僕のほうだ。ずっと弟に何かしてあげなきゃと思って、でも本当は、何かしてほしかったのは僕のほうだ……。
そのことを悟ったヤーラは胸のブローチを外した。
余計な言葉を消すには、それを外に出すしかない。それができる相手を、1人だけ知っている。
なんと話せばいいのだろう、と目を閉じてじっくり考えを巡らせているうちに、思い出すことがあった。
『――錬金術で、人間をつくり出すことはできると思う?』
協会の実験室で魔物の死骸を修復する訓練をしていたとき、煙草をふかしていたカミルがそう呟いた。
いつも通りの憂鬱そうな、疲れたような目線を宙に浮かせたまま――しかし、どこか真に迫るような声だった。
『それは、ホムンクルスのこと……ですか?』
『……ホムンクルスっていうのは、人間を生み出そうとして失敗した成れの果てなんじゃないかって思うのよね。そりゃ、本物の人間みたいなホムンクルスを作れる人だっているけれど、結局人間「みたい」なのであって、同じじゃないわ』
ヤーラは自分の弟のことを考えた。ホムンクルスになってしまったその姿は記憶に残されていないので見たことはないが、いわく「化物」のようだとは知っていた。
『ゼロから人間をつくるわけじゃないにしても、「傷を治す」っていうのも、人体を錬成するのと変わらないと思わない?』
傷を受けた身体を元に戻すというのも、確かに人体を新たにつくり出すことかもしれない。そう考えれば、ヤーラも納得した。
そうして、長いような短いような沈黙が流れた後。
『……足のない人の足をね、つくってあげたことがあるの』
唐突な打ち明けだった。
カミルは物憂げな視線を床に落とし、ゆっくりと煙草の煙を吐いた。
『綺麗な女の人でね……事故で両足を失くしちゃって。錬金術でなんとかできないかって話があったから、代わりに亡くなった人の遺体から足を貰って、上手く繋げようとして』
ふとレオニードのことを思い出した。自分が腕を奪ってしまった、だらしないところもあるが頼もしい兄貴分。
錬金術で欠損した身体を元に戻せるのなら、ぜひともその技能を習得したいところだった。だが、カミルの話しぶりから、そんな夢のような話が簡単に叶うわけがないのだろうとも察した。
『それでまあ、念入りに準備していざ実践してみたの。……どうなったと思う?』
ヤーラはその答えを浮かべたが、何も返せなかった。
『ホムンクルスになった』
無機質な実験室の中を、白い煙がゆらゆらと漂っていた。
ヤーラはカミルの横顔をじっと見つめることしかできなかった。それまでは近寄りがたいと感じていたその錬金術師の物悲しげな瞳が、ゆっくりとこちらに動いた。
『だから――……俺はずっと、彼女の喋り方を真似してるんだよ』
そう言って自嘲気味に笑ったカミルの心境が、幼いヤーラにも痛いほどわかる。
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