悪童
ロキは自分が手首を押さえている少女に、咄嗟に目をやる。
じっと目を細めている彼女を、トマスは不審そうに何度も見ている。
「カタリナじゃない……よな。いや、さっきまではカタリナだった。……――そうか。化けてる、のか。お前が、『サラ』か?」
女は笑った。
ずるずる、と昆虫が脱皮するように――カタリナの身体から魔人の女が出てきた。
「ボンクラ皇子にしてはやるじゃないの。私の正体を見破るなんて……」
『オセロみたいに白と黒がくるくる変わる』――ロゼールがカタリナをそう評していたのを、ロキは思い出す。
なんのことはない。「白」のカタリナに、「黒」のサラが憑依していたのだ。二重人格のように、時折サラが顔を出して暗躍していたのだ。
「でも、残念ね。あなたたちは私と戦う力がない。追い詰めたと思った? 追い詰められてるのは、あなたたちのほうよ」
サラは細長い人差し指をクイッと動かすと、意識を失ったカタリナの身体を磁石のように引き寄せた。
「オットリーノ、皇女様をお願い」
「かしこまりました、サラ様」
オットリーノはカタリナの身体を預かると、礼拝堂の壁に手をかざして穴を空け、そこから出て行ってしまった。穴はご丁寧に閉じられている。
トマスはそんな勝手を許したくなかっただろうが、魔人を目の前にして何もできずにいる。
「さて……どっちから殺してやろうかしら? とっとと馬鹿皇子を消したいところだけど――そっちの小汚いドブネズミ、何しでかすかわからないのよねぇ」
「いやいや、ご心配なく。ボクはもう手は尽くしたからね。これ以上やることはないよ」
「そうやって油断させようって腹にも見えるわ。ダークエルフ……――昔、お父様から聞いたわね。ハイエルフとダークエルフを国同士戦わせて、両方滅ぼしてやった、って」
「……」
珍しく、ロキが笑みを消す。銀色の髪から覗く鋭い眼差しが、真っすぐにサラに向かっている。サラのほうは気にも留めず、わざとらしい口調で話を進める。
「そのダークエルフの王っていうのが……笑っちゃうのよね。――ルーカス"悪童王"、ですって」
トマスは大きく剥いた目を、ロキの横顔に向ける。
「ロキ、お前、あの話――」
言い終わる前に、ロキはニヤリと口角を上げた。
「あはははっ!」
それは強がりでもなく、ごまかしでもなく、本当に楽しんでいるかのような――まさしく、いたずらっ子のような笑い声だった。
「トマス、プランBだ!」
「は?」
「君ならボクの考えてること、わかるでしょ? ほら」
「……ああ」
ロキが指差したドアに向かって、トマスは一心に駆け出した。
「簡単に逃がすと思う?」
サラが魔術を放つ準備をしている。――が、何かの気配を察知し、咄嗟に防御の姿勢を取った。
ギン、と金属がぶつかるような音が響く。
「簡単に追わせると思う?」
いつの間にか、ロキの手には剣が握られていた。透明化の魔法で隠し持っていたのだ。
「あら。剣の心得があったなんてね、王様?」
「ボクももっと真面目に稽古やっとけばよかったと思ってる」
「ロキ!!」
後ろのトマスに名前を叫ばれて、ロキは横目に振り返る。
「死ぬなよ」
「……誰に口利いてんのさ」
重たい扉が開いて、またバタンと閉まるのを、ロキは背中で見送った。
目の前にいるのは、魔王の娘。そうでなくとも、剣の才のないロキには一般兵士とすらまともに戦えるかは怪しかった。
ただし、それは正々堂々ぶつかり合う場合の話である。
「君のお父さん――サウルさん、だっけ? 元気?」
「お喋りで時間稼ぎしようったって無駄よ」
「またまた~。ごまかしてるのはそっちじゃないの? どうも最近、君のお父さんはやり方が変わった気がするんだよねぇ。ほんとに元気なの~?」
ロキはわざと煽るようにニタニタと笑う。
因縁の相手、現魔王サウルが今まで何をしてきたか、その動向を追い続けていた。だから、ある時期を境に何かが変わったとすぐにわかった。
ゼクに聞けば、勇者エリックと戦った後は顔を見ていないという。
「実はさ、すでに……死んでたりして」
ガギン、とこだまする音。
サラが爪で切りかかり、ロキが間一髪それを剣で防いでいた。
「どういうつもりか知らないけれど……魔王様は健在よ。方針を変えられただけ」
「へぇ、生きてたとしても、ご無事なのかなぁ? ひょっとして、勇者エリックと戦ったときに――」
ぶん、とサラが思いきり腕を振ると、大きな黒い球がロキに向かっていく。
その球は礼拝堂の椅子ごと粉々に吹き飛ばした。
そこでサラは、はっとする。煙が晴れたところには誰もいない。ロキが姿を消す術を使えることを失念していたらしい。
後方でガタッと物音が聞こえ、身体を翻す。そこにも人影はない。
物音は、壊れた椅子の破片を消して投げただけだ。
ロキは裏をかいて、サラの背後を取った――はずだった。
「ドブネズミの考えそうなことだわ」
「!!」
サラの紅玉のような目に、ロキの姿が映る。
それよりも赤黒い血が、バケツで水を撒いたようにバシャッと床に飛び散った。
細長い綺麗な指から、ポタポタと血液が滴っている。
「――これで皇子様が助かれば、美しい最期なのだけど……残念ね。あなたもあのボンクラも、ここで死ぬ。虚しい終わり方だわ」
「っ……ごほっ……」
血だまりの中に倒れたロキは、深く切り裂かれた腹部の傷を見る。
「少しくらいは憐れんであげるわ。……さようなら、"悪童王"ルーカス・トイヴォラ」
中空に出現した楕円形の空間――小さなゲートに乗り込んだサラは、去り際に憐憫の目をロキにくれてやった。
ロキはいつもの嘲るような笑いで返す。
――これで全部うまくいった。順調だ。
神聖な場所に横たわるロキは、独りほくそ笑む。あとは彼らがなんとかしてくれる。死にぞこないの自分はようやく死ねる。それでよかった。
妹に刺されたときのほうが、もっと痛かったかもしれない。あのときは、全部終わったと思った。
どうしてシグルドが助けてくれたのかはわからない。ただ、まだ普通に口を利いていた彼は、こう叫んでいた。
『この……悪ガキが!! テメェ、タダで死ねると思うなよ。ここまでやっておいて、死んで楽になれると思うなよ!!』
礼拝堂の扉が、乱暴に開かれる音。
ロキはぼやけた視界にその姿を確認する。旧友の驚いて青ざめている顔に向かって、また小さく笑った。
――どうだい。これなら、タダじゃないだろう……。
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