シグルド、言葉を嫌う

 暗く淀んだ沼地にもこんな綺麗な場所があったのか、と思わせるような場所に、彼はいた。


 ほとんど木々と同化していて、見つけるのにえらく時間がかかった彼――シグルドさんは、胡坐をかいてその上にご就寝中のミアちゃんを乗せている。


 ロキさん……自分で寝かせとくって言っておいて、結局シグルドさんに任せてるのね。

 まあ、ロキさんはときどき向こうの様子を見に行ってくれてるみたいだし、私もそのほうが安心できるんだけど。



 先ほどから遠巻きに様子を眺めているが、シグルドさんは目を開けたまま寝てるんじゃないかというくらい、ぴくりとも動かない。丸くなってるミアちゃんの背中に手だけそっと置いて、目線は空中に浮かんだままだ。


 物言わぬ植物。そんなイメージがぴったり似合う。


 ロキさんいわく、シグルドさんは数百年間誰とも口を利いていないという。1600歳という途方もない年齢を考えるとそれは最近のことなのかもしれないが、それでも「喋らない」というのは風変りな性質だ。



「あのう、シグルドさん」


 慎重に話しかけてみると、彼はゆっくりとこちらに目を向ける。エメラルドグリーンの、綺麗な瞳。


「すいません、ミアちゃんお任せしちゃって」


 彼は小さく首を振る。「気にするな」と言いたいのかな。


「ミアちゃん、ずっと寝てるんですね。どのくらいここにいるんですか?」


 骨ばった細長い5本の指が、私の前に開かれる。


「50分?」


 彼は「違う」と言わんばかりに手を振る。


「……5時間?」


 こくりと頷く。ご、5時間!? 膝痛くならないの!?


 ただでさえ長命なエルフよりも、さらに寿命が長いと言われるハイエルフにとって、たったの5時間猫ちゃんを膝にのせてぼーっとするくらい何でもないんだろうか。



 私が話題に困っていると、シグルドさんはよじよじと身体をずらして私が座るスペースを空けてくれた。


 大きな木の根元に腰掛ける私に、シグルドさんは向かいの木の枝を指差してみせる。


 そこには鳥の巣があって、雛鳥が1羽だけ残っていた。雛鳥は羽をばたつかせているが、よろよろ足踏みをするだけで飛ぼうとはしない。巣立つのをためらっているようだった。


「5時間ずっと見守ってたんですか?」


 シグルドさんは雛鳥から目を離さずに頷く。せっかくだから、私も隣で応援することにする。


 雛鳥は巣の中のほうに戻ってしまい、じっとしている。ときどき、助けを求めているようにピィピィ鳴いている。お母さんや他の兄弟たちは飛んで行ってしまったのかな。


 と、別の雛鳥が飛んで巣に戻ってきた。まだ来ない兄弟を心配して来たのかもしれない。その雛鳥は残っている兄弟の目の前で、慣れた飛び方を披露して別の枝にとまってみせた。やり方を教えてあげているんだ。


 まだ飛べないほうの雛鳥は、巣の端まで出てきて様子を伺っている。


「頑張れ」


 私は無意識に手をぐっと握っていた。

 雛鳥は羽をぱたぱた動かしている。そうそう、その調子。大丈夫、飛べるよ。


 やがて、雛鳥は意を決したように飛び立った。


 ふらふらぎこちない飛び方で、落ちてしまうんじゃないかとはらはらする。だけど、やがて要領を掴んだようで兄弟の待っている枝に辿り着いた。


「やった!」


 そこに、他の兄弟やお母さんらしき鳥が集まってくる。一家はそのまま仲良く空へ旅立っていった。


「あの子、飛べましたよ! よかったですね、シグルドさん!」


 彼は黙ったまま、不思議そうな顔で私を見ている。


「あ……すいません、私だけ盛り上がっちゃって」


「……」


 シグルドさんは何も言わない。あの雛鳥が飛べたことを喜ぶこともなく、かといって無視するわけでもなく、ただ見守っているだけ。失敗して地面に落ちてしまっても、助けることはしないだろう。


 おそらく彼はそういう人なのだ。自然を自然のままに、ほどよい距離をとって関わっている。人間もまた自然の一部なのだと悟っているかのように。



 私も一緒になってぼーっとしてみる。先ほどの沈黙の気まずさは、風に乗って消えていった。


 鳥が高い声で歌う。木々の葉っぱがこすれて伴奏を奏でる。ミアちゃんがすーすー寝息を立てている。


 静かだ。


 さっきはほとんど動かないと思っていたシグルドさんの、かすかで深い呼吸が聞こえる。


 生命の声と、大地の息遣いに合わせて、ゆっくり、静かに、深く――



「――昔、ハイエルフの国とダークエルフの国で戦争があった」



 はっとして、彼を見る。

 ささやくような、それでいて透き通った声。


「争いは激しくなり、双方の国が疲弊したころ、魔族が襲来して両国とも滅びた」


「……」


「今も皇帝の子女同士が争っている。同じことが起こるんじゃないかと、ルーカスは危惧している」


 ルーカスというのは確かロキさんのことだ。人間同士が争っている間に魔族がそれを潰す。恐ろしいシナリオだ。


「その滅びた国っていうのが、シグルドさんやロキさんの――」


 言い終わる前に、彼は強く頷いた。


 シグルドさんは元は将軍だったと聞いている。ロキさんも、あの能力なら諜報員か何かを務めていたのかもしれない。納得できる話だ。


「……ありがとうございます。大切な話を教えてくれて。喋らせちゃったの、悪かったですかね?」


 何しろ彼は数百年も口を開かなかったのだ。それを破るほどの重要な話を、私にしてくれた。


「――言葉は、自分と世界を切り離す。それがなければ世界は認識できないが、言葉に頼るとますます世界は遠のいて見えなくなる。だから俺はあまり使いたくない。だが、君はあまり離れていない。それで話した」


「ど、どうも……」


 私は頭が悪いのですぐに彼の論理を理解できなかったけど、とりあえず褒めてくれているのはわかった。


 世界と自分が離れる。


 たとえば、嘘やお世辞みたいなものだろうか。言葉ではいくらでも言えるけれど、それは自分の本心とは食い違ってしまう。


 私はそういうのは得意じゃない。シグルドさんにとって、それは言葉を正しく使えているということになるのかな。



「あと……ルーカスは俺が数百年喋っていないと言ったかもしれないが、あれは嘘だ。本当は4か月ぶりだ」


「え!? 意外と喋ってますね。4か月前は、なんて?」


「『カプチーノ1つください』と言った」


「注文!!」


「だが、ルーカスと500年くらい話していないのは事実だ」


「それは、なんでですか?」


「あいつとは喋りたくない。うぜぇから」


 一気に口調が俗っぽくなってちょっとびっくりする。シグルドさんは露骨に嫌そうに顔をしかめているけど、2人は本気で仲が悪いというわけではなさそう。悪友、とでもいうべきか。元々戦争していたんだし。



 4か月とはいえ、久々に喋って疲れたのか、シグルドさんは大きな木の幹にゆったりともたれかかり、空を見上げる。


 ふと何かに気づいたように目を見開き、上空を指差す。


 さっきの雛鳥が、家族と一緒に空を飛び回っていた。


 鳥たちは鳴き声を発しても言葉は使わない。それでもさっきの雛鳥の兄弟は飛び方を教え、通じ合っていた。言葉がなければわかりあえないのは、人間だけかもしれない。


 鳥たちの様子を微笑ましく眺めていると――隣から聞こえてくる寝息が、2人分に増えた。

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