氷の城

 割れた城壁の隙間から覗く空はわずかに白みがかってきたものの、まだ太陽の影は見えない。

 両手を後ろで縛られた私たちは、城の大広間のような場所に連れて来られた。両脇には大勢のオークたちが整列していて、並木道みたいになっている。


 そして、私たちの目の前にいるのは――玉座に座った、ひときわ大きいオークだった。


「なるほどねぇ……。昼間しか活動しないはずのオークが夜襲をかけてくるなんて、おかしいと思ったのよ。頭のいい王様がいたのねぇ、オークにしては」


 ロゼールさんは皮肉を言う余裕まで保っている。私はこれからどうなるかわからない不安で押し潰されてしまいそうなのに。


 王らしきオークが重々しく手を出すと、2体の部下が私たちのもとに寄ってきた。おぞましい怪物の圧迫感に、身体が震え出す。


「大丈夫よ」


 ロゼールさんは淡々とした声で私を落ち着かせようとしてくれているが、震えは収まらない。

 オークの太い指が私の服を乱暴に掴んだとき、恐怖が頂点に達して目をぎゅっと閉じた。あの地下牢に横たわっていた亡骸が、脳裏をよぎる。


 ドゴォ、という破壊音が石造りの壁に大反響して、ぱっと目を開けた。


 振り返ると、バラバラに砕け散った扉の向こうに――彼が、いた。


「ゼクさん……!」


「ぶっ殺してやる」


 扉を開けるのではなく壊すという荒業を成した大剣を固く握りしめ、きつく吊り上がった三白眼から強烈な殺意をみなぎらせている。その恐ろしいまでの形相も、今では頼もしく映っていた。


 が、王の一声でオークたちは一斉に突然の侵入者のもとに群がっていき、そばにいた2体も私たちの逃げ道を塞ぐように取り囲んでくる。


 その瞬間、何かが上から流星のように降ってきたかと思うと、そばのオーク1体が血しぶきを上げて倒れた。それを認識したときにはすでに、もう1体も斬られて崩れ落ちていた。

 神速の剣を放った騎士は、兜の下から凛々しい眼差しを振り向けた。


「大丈夫か?」


「スレインさん!」


 すかさず剣の切っ先で私たちを縛っていた縄を切ってくれて、ようやく身体が自由になる。


「何もされていないか?」


「はい、なんとか無事です」


「臭くて汚い牢屋に閉じ込められたの。お風呂に入りたいんだけど」


「ロゼールは黙っていてくれ」


 相変わらずマイペースなロゼールさんに、スレインさんは安心を通り越して呆れてしまっているようだ。ともかく、助けが来てよかった……。


「そういうあなたこそ、怪我はもう平気なの?」


「こんなの何でもない」


 言ったそばから、ロゼールさんがスレインさんの背中をトンと叩く。


「ぐっ……!」


「嘘つき」


 どうやらオークにふっ飛ばされたときの傷はまだ癒えていないらしい。それで敵を2体も瞬時に片付けてしまったのは見事としか言いようがないけれど、手負いのまま戦って大丈夫なのかな。


 ずし、と後ろの床が軋んだ。

 振り返ると、玉座にいたオークの岩のように巨大な身体がそびえ立っていた。


「下がっていろ」


 前に出たスレインさんが、左手で私たちを庇うようにしてオークの王と対峙する。

 が、すぐにロゼールさんがその襟首を掴んで、くいっと引き戻した。


「ほらぁ、そういうところ」


 すっと右手を上げた、その直後だった。

 城がすべて、オークもろとも氷に包まれた。


 床も、壁も、天井も、おそらく外壁も――私たちのいる場所以外、大海原のように広がる透明な淡い青にそっくり覆われてしまっている。ちょうど顔を覗かせた朝日が氷の海に射し込んで、光の粒を散らしていた。


 時間まで凍ってしまったかのような、冷たく閉ざされた世界に――私は言葉を失った。

 いったいどれだけの魔力があれば、こんな芸当ができるのだろう。


「実はね、牢屋を出たときから、すぐ魔法を使えるように魔力を溜めておいたの。オークたちが一ヵ所に集まってくれた時点で、全員凍らせる用意は整っていたのよ」


「なんだ。我々の助けは必要なかったのか」


「ううん、嬉しかったわよ」


 屈託のないその笑顔は、なんだか胸に沁みるものがあった。


 敵の脅威も去ってほっとしていると、バリバリと氷が割れる音が近づいてくる。見れば、目を三角形に尖らせたゼクさんがこちらに迫っていた。


「俺まで凍らせる気か、この年増女!!」


「あなた血生臭いんだもの。凍ってたほうがちょうどいいわ」


「やってみろ、中からぶち破ってやる」


「私の氷は100年は解けないわよ」


 不意にピシッと何かが裂ける音がして、私たちは一斉にそちらに視線を注いだ。

 あのオークの王を封じていた氷に、亀裂が入っている。


「……数分で解けてんじゃねーか」


「解けてないわ。割れてるだけ」


 やがてバリンと氷の破片が弾け飛び、大木のような巨体が再び動き出す。


「ちょうどいいぜ。テメェを血祭にしてやりたかったとこだ」


 ゼクさんは大剣を抜き、「俺の獲物を横取りするな」と言わんばかりに、私たちに下がるよう目配せした。

 オークは巨大な鉄塊のような棍棒を軽々と持ち上げ、構える。


 大きな剣と棍棒は、同時に唸りを上げながら激突した。

 ガギャン、という凄まじく甲高い音が空気を揺さぶり、氷にヒビを入れる。


 その衝突は1度だけでは済まない。剛腕に振るわれる武器は細かい破片を散らしながら、何度も何度もぶつかり合う。そのたびにとてつもない衝撃に襲われているはずなのに、ゼクさんもオークも両足を踏ん張って堪えている。


「……腕力は互角か」


 スレインさんは熾烈な戦いから視線を反らさずに呟く。


「あのオーク、ゼクさんとパワーで渡り合うなんて!」


「その前に、オークと対等の力を持つ人間がいるほうがおかしい」


 冷静な指摘を入れられてしまうが、ゼクさんの力はそんな常識を遥かに超えていたらしい。

 渾身の一撃で、オークの棍棒に一等大きな亀裂が入った。


「――互角以上か」


 その隙を見逃さなかったゼクさんは、剣を振り上げるようにして下から棍棒を叩く。オークの武器はついに音を立てて砕け散り、その衝撃で大きな身体がのけぞった。


「オラァ!!」


 その無防備な腹を、巨大な刃が横一文字に切り裂いていく。

 オークは膝をつき、パックリ開いた腹から中身がボトボトこぼれ落ちて、私は思わず手で口元を覆った。


「……テメェ、ただで死ねると思うなよ」


 彼は乱暴に剣を放り捨て、オークに近づいていったかと思うと――傷口に手を突っ込み、中のものを引っ張り出した。


「うっ……!」


 私はたまらず顔を背ける。それでもブチブチと何かが千切れる音や、オークの断末魔のような呻き声が耳に入って吐き気がこみあげる。


「苦しめ、クソデブが!! テメェは苦しんで死ねェ!!」


 その惨たらしい音は、パキパキと何かが凍りつく音によって終わりを迎えた。

 おそるおそる瞼を開けると、オークの死体が薄い氷の膜に包み込まれていた。


「もういいでしょ、勝ったんだから。ホンット野蛮で嫌になっちゃうわ」


「……邪魔すんじゃねぇ、年増女が」


「馬鹿ね。ほら見なさいよ。エステルちゃん、あんなに怯えちゃってるわ。可哀想に」


「チッ……」


 ゼクさんは黙って剣を拾い、鞘に収めた。


「確認しておくが、まだ捕まっている生存者はいたか?」


 スレインさんの言葉で、あの牢屋に積み上げられた死体が蘇る。


「……私が見た中では、全員、もう――」


「あら? 地下にもう1つ、別の部屋がなかったかしら」


「え?」


 ロゼールさんは私よりはるかに冷静に周りを見ていたらしい。


「私たちが連れていかれるときに見たわよ。通路の奥に、扉があるの」

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