Getting Better

 ルーシーが床と同じ目線に転がって何日経ったものか、はたまたどれが「み空」なのかわからなくなってしまった晩夏に、ルツはまたやってきた。コツ、コツ、と、あれほど待ち望んでいた窓を叩く音がする。だがルーシーは身体を起こせない。

 ふと窓外に影が見えた。ルツが自力で這い上ったのか窓枠に懸垂のように張り付いていた。黒くてまるい瞳が室内を見ている。ルーシーと、ルツの目が合った。床にころがっているタブレットの殻も、殴られた時に散った鼻血も、丸見えだ。それでもなお漆黒の瞳はこわいほどにかわりがなかった。次の瞬間、くりくりの瞳とボーイッシュなショートヘアは、すとんと窓下に見えなくなってしまった。見捨てられた、そうルーシーは思った。見捨てる、見た上で捨てると決める、というのは、読んで字のとおり、こういうことなのだろう、とぼんやりおもう。そうしていると再び、小さな手が現れて、窓の隙間に紙片をはさむと、今度ははっきりと遠ざかる足音がした。


 起き上がれるまで、紙片が風に飛ばされてしまえば、しょせんそれまでの縁、と、ルーシーはしばらく冷たい床に頬をつけたままでいたが、胸の中で何かがもそりと蠢きはじめたようでじっと転がってもおられず、やっと身体を起こして窓辺に寄った。

 紙片は、そのまま挟まっていた。


 親愛なる縷糸へ。

 夏休み中は、お母さんが不調で見張らなきゃいけなくて来れませんでした。

 たぶん、同じような思いをしている人がたくさんいます。

 明日13時、聖ベネディクト教会にきてください。

 わたしも、お母さんの付き添いで居ます。

 山川ルツより。



 腫れ散らかした顔で、初めて買った本をカバンに入れ、13時にルーシーは聖ベネディクト教会に現れた。

 そこにいたのは女性ばかりだった。40代ぐらいの疲れて髪染めを忘れてしまったような女性や、身ぎれいにして眼を落ち着かなくさせている30代ぐらいの女性、責任者らしくさばけた感じの50代ぐらいの女性——10人弱の女たちの中に、連れられた子どもという風情の小学生のルツがいた。


「ルーシー、来てくれてありがとう」

 ルツは瞳を輝かせて、にこにこしている。初めて見る表情だ。

「ルツのおともだち?」

 大ぶりのアクセサリーをジャラジャラとつけた女性がルツに問う。この人が、お母さんだろうか。「そう、おともだち」ルツの迷いのない答えぶりにルーシーは急に据わりが悪くなる。だっておともだちは非対称で「み空」にしかいないから。「ルーシーが、そう思ってくれてたら、だけど」聡いルツは遠慮がちに付け加える。

「なんでもいいわ。よく来てくださった。ここは怪しげだけど変な宗教ではないし、会合参加は義務じゃないから安心して。クリスチャンじゃなくてもいい。場所が教会なのは、無料で貸してくれるからというだけ」ルツのお母さんらしき人が堂々と言う。夏休みに小さなルツが放っておけないなんて、もっとひどく頼りないお母さんをルーシーは想像していたが、アクセサリーも相まって貫禄充分といった様子で、他のメンバーからも「また来てくれて何よりだわ」などと声をかけられている。この集いはなんなのか、いったいこれから何が起こるのか、ルーシーは想像もつかなかった。

 人数分、椅子が車座に置かれている。コーヒーや茶菓子などの用意をする人がいる。別の人から、白かったであろう表紙の使い古された冊子を手渡される。そして集いは、始まった。


 使い古されたテキスト冊子を皆で開き、「平安の祈り」を唱える。


 神よお与えください

 変えられるものを変える勇気を

 変えられないものを受け入れる落ち着きを

 そして それらを見分ける賢さを


 初めて触れる祈りだった。

 変えられるものと変えられないものがあるという断言は、あるべきところにものがあると言われているようで妙に落ち着いた。変えられるものと変えられないものがあり、それらを見分けるのは賢さであり智慧である、というのも、人間にできることがまだあるような気持ちになれて、密かにルーシーは気に入った。


 続いて、12ステップと呼ばれる祈りのようなもの、それから薬物と自分のかかわりについて各人が赤裸々に語るグループセッションがはじまった。ルーシーなどは、まだまだ序の口で、養育者すらも軽く凌駕するほどの凄惨な体験談が次々と語られた。パスした人もいた。それも構わなかった。


 ルーシーが招待されたのは、薬物依存症の人々が有志で運営している自助グループであるナルコティクス アノニマス、通称NAと呼ばれる集いだった。

 たぶん、出会いの日からルツには全部わかられていた——ルーシーは消え入りたいような気持ちになった。体験談を聴きながら、乾いたスポンジが真水を得るように、嘘のない話を貪欲にルーシーは吸収した。何人かの話が終わると、孤独と依存のテーマが浮き上がってきた。ルーシーも思い出した。ルツのいる間は、ルツが来る日は、タブレットをやめることができていたことを、逆にルツが来ない日はさびしさから「み空」に耽溺したことも。

 誰かと居ることで、タブレットをしないでいられるなら、ルツの母のように毎日集うことは一つの智慧かもしれない——現にいま、会合に来ているあたしは、タブレットをしていないのだし、と少々背伸びしてルーシーなりに今日の成果を考えた。

 日の暮れるのが早くなった空が茜色を帯び始める頃、ルツとルーシーは教会を出て空を見た。飛行機雲がつつっと細く駆けのぼっている。金色に輝く雲の糸は、はやい風の流れに頼りなくぼやけだす。

「ルツ、決めたよ。あたし、クスリやめる。一切やめる。あしたも明後日も1年後も10年後も絶対やらない」

 ルーシーは不退転の決意で宣言したつもりだった。喜んでくれるかとルツを振り返ると、意に反してルツは悲しげな顔をしていた。

「遠くの約束をする人は、信じられない。信じられるのは今日だけ。ルーシー、どうか、今日一日だけやめ続けるって約束して」

「そんなの、おやすい御用だよ」

「そして、明日もここに来て。そして明日も同じ約束をして」

「わかったよ、ルツ。明日も絶対、ここに来るよ」


 ルーシーがルツの言葉のほんとうの意味を知るのに、そう時間はかからなかった。翌日は台風の接近でひさびさの眩暈をおこしてしまい、教会に行けなかった。そしてルツとの約束を破った自己嫌悪から、またタブレットに手を伸ばしてしまったのだ。

 雲の糸、縋れない、たよれない糸。それは他人じゃなくて自分自身に他ならないと、ルーシーは思った。

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