例えば君との昼下がり

 私たちが世界の動きに鈍感だから、何かが奪われても気づかない。

 無数にあったはずの季節は四季に収まっていて、それに気づいた時には晴れの日も奪われている。私たちはパニックになるべきはずなのかもしれないけれど、失ったことに気づくような警戒心が何よりも先に盗まれてしまっているので世界を「きっと元からそうだったのだ」と認識してしまう。

 世界の在り方が変わって何かがおかしいと体の感覚は訴え続けて皆が不調になるけれど、そんな不調は徐々に克服されていって「気圧のせいだよ、雨続きだからね」「風邪じゃない?」なんて感じで忘れられていく。

 だからこの世界からは大切な何かが何者かによって常に奪われている。生きるということは何かを失っていくことでもあるから、奪われたものですらそれを失ったのだと納得して誰もが生きている。

 でも、そんなの間違っていると思う。奪われて、思い出しようもないはずなのにその不在を感じるということは、奪われたはずのものをきっとそれを持っていた人はとても大切な物だと思っていたはずで、そうであるのに悲しみすら満足に感じられないのは酷すぎる。

 あっという間に奪われるものは増えていく。喫茶店でのアイスコーヒーの氷が溶ける音、書店のポップの色彩感覚、ランチタイム限定のランチメニューを頼んでみる勇気、休みの日にだけ公園にやってくるキッチンカーに気まぐれに立ち寄る思いつき、映画館のレイトショーへの憧れ、一日中映画やドラマを見続けた時の没入感。

 それでも「何も命まで奪われないんだから」と皆が言う。

「冗談じゃないと思うんだけど」

「だいぶ怒ってるなぁ」

 溝口君に学校でそう愚痴る。今の時代、『休日に人とお茶をする時間』はもう奪われてしまったけど、まだ学校のでの会話までは奪われていない。

 ほとんど私ばかりが喋っているような愚痴に始まって、今朝の目覚めがどうだったか、朝食がどうだったか、お昼の弁当は何かとかそんなことを溝口君と喋る。

「そんなくだらないことばかり話してどうするんだ、もっと時間を大切にしろ」と先生が言うけれど、散々大切だ大切だと言ってきた自分の担当教科が奪われても気づかなかった人の言う「くだらなくないこと」が私には何かわからない。

 でも私には逆に何が大切じゃないのかもわからない。私は常に何かが奪われているんじゃないかと不安で仕方がなくて、どうして皆がそんなに落ち着いていられるのかわからない。皆は本当に大切で、奪われてはいけないものが何かわかっているから奪われていることに気づいても落ち着いていられるんだろうか?

「何かを大切に思うって難しいんだよ」

「どうして?」

「奪われるかもしれないって思うから」

 溝口君の言葉はわからない。奪われて困るなら尚更意識して守ろうとしないとダメじゃないか。

「私は何も奪われたくないよ。今のこの時間も大事、通学の時間も大事、家で食べるサラダの嫌いな野菜も奪われたくない」

「そうだね」

 私は溝口君にそんな感じでどうでもいいことばかり話していて、結局大切なことを見落としている。

 ある日、溝口君は行動を起こす。それまで奪われた『喪失』そのものを奪ってしまう。世界から何かを奪っていたのは溝口君で、溝口君は奪うことしかできない様々な世界を渡る旅人だった。返すこともしないのに『喪失』が奪われた世界にはそれまで失われていたものが返ってくる。

 世界中の季節は入り混じり、ずっと雨だった世界には太陽の光が降り注ぐ。

 私の生活には余分なことが濁流のように戻ってきて、皆にはそんな余分を楽しむ気持ちもちゃんとある。

 でも、溝口君だけがいない。

 他の皆はあっという間に溝口君のことを忘れてしまって、そんな人は初めからいなかったことになっている。もしかすると溝口君は他の皆から『溝口君の記憶』を奪っていったのかもしれない。

 さて、と私は考える。『喪失』が奪われた世界だというのに私の中には溝口君の不在が横たわっていて、私は日常のちょっとした隙に溝口君のことを思い出してしまう。

 溝口君は私から何か奪ったのだろうか。それとも私からだけは何も奪わなかったんだろうか?

 そうやって私が考える時間もまた過ぎていく。

 もしかしたら溝口君に今も私の時間は奪われているのかもしれないな、なんて思いながら私は日々を過ごす。そんな溝口君の奪った物に思いを馳せる時だけ溝口君との繋がりを感じながら。

 まだある。細くて柔いけれど、きっと今も続いてる。〈了〉

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