どうせ中身はこんなもの

 夜毎に溝口君が戦う。動物の臓物と血で体を清めながら。

 この世界では人が余計なことばかり考えて鬱屈を溜めていて、空気が澱んでいるものだからそんな鬱屈を捏ねくり回して刺激を作ろうとする。始まりはちょっとした予報外れの雨、学校のブレーカーが落ちる、通学電車の大幅遅延。

 でも、そんなことも毎日続くと人々は慣れてしまうから鬱屈はどんどん過激になっていくし、人々の生命を脅かすようになる。結局のところ私たち人間はどうしようもない快楽原則でしか物事を測れなくて、自分すら巻き込んだロシアンルーレットを避けられた時の安堵以上の喜びを知らない。

 だから、誰かが夜毎に消えて死んでしまう。鬱屈の手口は毎回違っていて、そうであるのにきっちりと誰が犠牲になったのかわかるし、それでいて「その人だとわかる」のならば後はどうだって良いと言わんばかりの凄惨さを発揮する。

 ある人は屋上から吊るされて全てを地面に垂らしている。

 ある人は捻れた足でオブジェにされる。

 ある人は自分の血液で幾何学模様の図面を引かれる。

 私はその刺激をもう二度と味わいたくないと思うのに、誰もが「こんなことを繰り返してはいけない」と言いながら時にはその言葉にすら酔っている。

 誰もがそんな人間ばかりなはずじゃないはずだ。でも、そんな細やかな気持ちだけでは大きな流れとなった鬱屈に抗えずに刺激的な出来事が繰り返される。

 それでも戦う人はいる。溝口君だ。

 鬱屈の塊は人の日常に埋没した感情の累積だから、迸る生命のエネルギーを持って相対する時だけ姿形を現し、打ち倒すことが出来る。

 溝口君はその家系によって受け継がれた世界のバランサーで、その時々に顕現する世界の歪みと戦う運命にある。

 だから、溝口君は動物の臓物と血で体を清める。屠殺場でもらってきたバケツに入ったそれを頭から被る。溝口君の着ていた服には臓物が引っかかり、まるでアクセサリーのようになっている。赤に染まった溝口君はもはや人間のそれとは思えない。

 そうして実体なき刀を刀に鬱屈と戦い、そして勝つ。

 だけど人々は溝口君を感心しない。それは自分たちが無自覚で作り出した鬱屈を殺されたからでも、自分たちの刺激的な日々が消えたからでもなくて、動物の臓物と血の匂いが溝口君から抜けないからだ。

 溝口君は毎日のようにその臓物と血を被り、夜通しで戦う。溝口君の体には鬱屈の返り血すら染み込んでいく。そしてそれは一朝一夕で抜けてくれるようなものではない。

 学校に行くと溝口君の席の周りはぽっかりと空いている。誰も近くに行こうとしない。

「おはよう溝口君」

「おはよう」

 そう溝口君に寄って声をかけるとやっぱり臓物の匂いがする。でも、それは溝口君が今日も誰かを守り通したということの証明なのだ。

 ひそひそ話が時折聞こえて私を偽善者と言う人がいる。そして、それはそうだと私は思う。

 私だって、少し前までは溝口君に近づこうともしなかったのだから。

 放課後の夕暮れ時、私は校門で時間を潰している。

「やあ」

「お疲れ様、溝口君。疲れるのはこれからかもしれないけど」

「そうだね」

 溝口君はそうして屠殺場へ向かっていく。私は何も言わないし言えない。

 ただ、ついていく。

 夜になるにつれて空からは色が失われて黒く染まり、空気は冷たくなっていく。

 溝口君はそうして真夜中になるまで何度もバケツに汲まれた臓物と血を被り続ける。辺り一帯にはむせかえるような匂いが充満している。そこにいるだけで倒れそうなくらいの匂い。

「無理しないで出ていっていいんだよ」

 そう溝口君は言う。私は首を振る。

 私が鬱屈に殺されそうになった時、助けてくれたのは溝口君だった。私も溝口君を遠ざけていた一人だったのに。

「それ、やめられないの」

 自分がそうして助けられたというのにそんな言葉を溢してしまう。

「やめられないわけじゃないよ。そうした方がいいと思っていて、出来るからしているだけ」

 そして夜に溝口君は鬱屈と戦う。今日の鬱屈は強い。傷つき、体に纏った動物の血肉と溝口君の血を混ぜ、血反吐を吐きながら溝口君は鬱屈を打ち倒す。

「溝口君!」

 決着と同時に思わず駆け寄った私に一層に強くなった匂いが襲ってきて、溝口君にたどり着く前に嘔吐してしまう。

「こんなところに来ちゃダメだよ。僕も酷い匂いなんだから」

 それでも近づく。第一、今吐いて私の服も同じようなものだ。

「私も十分酷いよ」

 そう言って、溝口君を抱きしめる。迫り上がってくる吐き気は相変わらずあるけれど、私も含めてどうせこんな匂いを内側に詰め込んでいるのが人間なのだ。

 溝口君の全身は冷え切っている。匂いはどうしようもなくても、せめてこの体温ぐらい戻るといい。〈了〉

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