透明なんかじゃない私たち
溝口君の全身は透き通っていて、反射する。体育のプールの時間に溝口君の腕越しに水面がきらきらと煌めいているのを私は見る。
痛いくらいの強い日差しと息をするのも嫌になるような熱風の日々の中の束の間の心地よさ。皆は楽しそうに泳いでいるけど溝口君はそれを静かに眺めている。
プールには入れない溝口君を見ている私もプールサイドで見学だ。水には入れないけど、吹いた風が水面をかすめてわずかな冷たさがここまで届く。
「溝口君、別にそんなにプールから離れてなくてもいいんじゃない? 見ているのが好きならさ」
「うん。でもここじゃないと日差しが反射してみんな眩しいだろうからさ」
そう話す溝口君はプールサイドからは遠すぎる。直射日光による乱反射を防ぐために溝口君はこんなに暑い日に水の近くにも寄れない。
溝口君の全身は硝子みたいに透き通る風に出来ている。
生まれた時は触れただけで崩れてしまいそうなほどに脆くて、一生ベッドから離れられないとすら言われていた、らしい。
熱中症にならないように水分補給は許されていて、溝口君がペットボトルからお茶を飲む。溝口君の向こう側は透けて見えるのに体に入っていくお茶が体の中に落ちていく様子は見えることはない。
溝口君が透き通って輝く様は綺麗だ。
最初は物珍しがって色々な人がその体を検査したり、見せ物にしようとしたけれどあっという間に飽きられる。溝口君は硝子のように透明で、脆いというだけでそれ以外に何かが起きるわけでもないし、変えられるものでもないのだから。
でも、そんな単純なことを信じない人もいる。いつだって。
水泳が終わって教室に戻ってお昼休みがやってくる。溝口君をお昼に誘おうと席を立つと溝口君の席の方でクラスメイトの会話が聞こえてくる。
「溝口さ〜ちょっとこれつけてくれよ〜」「動くなって」「ほら、こうすりゃ見えるって」
そう言いながら溝口君を押さえつけて家から持ち出したのかどこかで買ったのかわからない口紅とかを無理やりつける様が飛び込んでくる。
「やめてよ」
「いーじゃんいーじゃん」「お、結構イケメンじゃーん」「いけるって溝口」
そこからは、ちゃんと覚えていない。
「見えるようにしてやってんじゃん!」
そんな声が背中にぶつけられた気がしたけれど、私は溝口君の手を引いて何も言わずに教室から逃げるように足速に去っていく。
溝口君の顔には適当に塗りたくられた口紅で唇以外も赤くなっていて、ろくに整っていない線で眉毛が引かれている。溝口君をほとんど強引に押さえつけて、落書き帳みたいに塗りたくった痕。
溝口君の体も、溝口君の顔も、見えないものでも見えるようにしなくちゃいけないものなんかでもない。
溝口君は何も言わない。
私は校舎裏に溝口君を引っ張っていく。ポケットに入っていたティッシュを濡らして溝口君の顔に添える。
「ごめんね。いきなりだったからちゃんとしたメイク落としとかなくて……」
どうして、透明でいることが許されないんだろう。
どうして、溝口君が気にするくらい他の人が溝口君を気にしないんだろう。
どうして、人の顔をこんな風におもちゃに出来るんだろう。
「仕方ないよ。慣れてるしさ」
私に溝口君が落ち着いた声で言う。でも、こんなこと慣れていいことではない。
「仕方なくないよ」
私はいつの間にか手を止めてしまっている。あんまり力強くやったら壊れてしまうかもしれなくて。でも、そんなことより余計な化粧を落として欲しいのかもしれない。
そんな私の逡巡がもしかしたら溝口君を現在進行形で傷つけているのかもしれない。
「こんなに綺麗なのにね」
結局ティッシュじゃ塗りたくられたものを落としきれなくて、でも教室にも戻れなくて私と溝口君はプールに行く。
水道で顔を洗って、私と溝口君はプールサイドに腰を下ろす。足を水につけて前後にゆらす。
「つめたいね」
「眩しくない? 何も見えないんじゃない?」
こんな時なのに溝口君は自分の体を経由した光のことなんか気にしていることが、何だか可笑しい。
「ううん、大丈夫」
眩しくて目に光が飛び込んでくるけれど、そんな光はちょうど溝口君の体の形で増幅されているようでその眩しさ自体が溝口君であるようにも思う。
きっと、午後の授業が始まればあっという間にこのプールにも人が来るんだろう。そうしてこんな騒動も見えなくなってしまう。
「見えるよ。ちゃんと」
だからせめてあと少し、こうしてこの眩しさを見ていたい。〈了〉
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