食事の時間
今日も仕事はうまくいかないまま終わる。悲しいことにそれでも人生は続いてしまう。
科学が進歩してもそれに合わせて仕事も複雑な意思判断を求めるようになって、業務の効率化は仕事を減らすためなのか増やすためなのか私にはわからない。
人に予防注射をするような感覚でナノマシンを注入して、体調管理が出来る未来にたどり着いたのに何も変わらない。
ただただ人生は続いていく。
仕事の毎日の中で私は人生に意味はないと痛感する。
人生に意味はない。でも、そんな格言のような気づきにも当然意味はなくて毎日は続いていく。
目標もやりがいもないし、一人でいることは楽しくもないけど辛くもないし、結婚だとか出産みたいな年相応な「普通の人生のイベント」にも頑張る気力なんて出てこないし。
従来の価値観にとらわれない新しい生き方がもてはやされるけど、私はその生き方も選べない。
興味を持てないそれに人生を任せたくなるくらいに生きる時間というのは長い。悲しいことだけど、私には普通じゃない人生の目標を見つけられるほどの気力も気概もない。
日々を過ごすことに意味がない。
だから、申し込むことにした。
「お疲れ様でした」
「おつかれさん。今日はいつもよりずいぶん早いね。来週はさぁ。もうちょっと気を張ってね」
そんな言葉を背中で聞く。もう帰り際の聞く上司の小言はいつものことだった。
冬の冷たい風の中を家に向かってまっすぐ歩く。頬から水分が減っていて、カラカラになっているのを感じる。いつもより、急いで私は家へ向かう。
私は少しだけ足を早くして、家のドアの前に着いた時にはもう息を切らしてる。
鍵を差し込んで、回す。誰もいないはずの扉を私は開ける。
「おかえりなさい」
溝口君が私にそう声をかけてくれる。
「うん。ただいま」
意味なんてないはずのそんなやりとりに私の心は軽くなる。溝口君が温めた料理をテーブルに広げてくれて、私は席についてお腹が空いていたことに気づく。
「いただきます」
「はい、いただきます」
そうして溝口君の用意してくれた料理を一通り食べながら会話して、食べ終えて、食器を洗って、キッチンからさっきまで二人で過ごしていたテーブルに視線を戻す。
そこには誰もいない。
私は溝口君なんていないことを思い出す。この家にいるのは、私一人だ。
今日は与えられたプログラムを初めて体験した日だ。人生に意味はなくて、そんな虚無を一人で過ごすのは辛いから。国が希望者に幸福な瞬きの間の夢をナノマシンを経由して与えてくれる。
人生の空白を、埋めてくれる夢。
自分で食事を用意して、一人で食べる間に私は私の自覚しない幸福に最適化された夢を与えられる。そうか、と思う。
私は溝口君という人が好きらしい。
瞬く間に夢が過ぎていくのは悲しいけれど、私はそんな刹那の夢を気に入ってしまう。
誰にも言わない、言う相手もいないけれど。すぐに消えてしまっても、溝口君と共に過ごす時間は私に生きる意味を与えてくれる。
世の中ではプログラムを「寂しい自己満足」とか「現実からの逃避」と言われているけれど私はそれを頼りに日々を生きる。そして自分を取り戻す。
一日のわずかな時間を溝口君と過ごす、というのは私にとって良かった。誰かとずっと過ごすことは無理でもわずかな時間なら自分にとってなりたい自分になれる。
今の自分よりも笑顔で、今の自分よりも毎日に希望を持って、今の自分よりも何かに向けて歩んでいける自分。
「お疲れ様だね」
そう溝口君に言われる時間が心地よい。すぐに消えてしまうとわかっていても私はそんな時間を頼りに毎日を生きる。
そうしてそろそろ一年になる。
「明日はどこかに食べに行こうか」
「うん、いいと思う」
溝口君はそう返事をするけれど、私はそれが叶わないとわかっている。プログラムの溝口君が姿を私に見せられるのは自宅だけで、それは外では機能しない。
でも、私が一年という節目をそう過ごしたいから、いいのだ。
普段にはいかないようなレストランを予約する。二人の席を指定して、ドレスコートに沿った服装でそこへ行く。
店には色々な人がいて、私は一人席に着く。
近くの席に同じように一人で座る人がいる。
その人は、溝口君に似ていて、私は声をかけようかと不意に思う。
目が合う。互いに何か言葉にしたいような感情を表情に浮かべるけれど、その言葉がすぐに出てこない。
だけど、声に出せばきっと同じ席で食事ができるようなそんな、感覚。
もしかすると、私は何か記念にプログラムを申し込んだのかもなと考える。自宅で会える溝口君とはまた別の何か。この時間の後には何も残らない夢。
でもいい。そうだとしても構わない。
ただ今は、それが夢でも嘘でもここで食べる食事と過ごす時間に意味がある。〈了〉
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