スケープゴートにもなりきれない

 気がつくと私は溝口君の後ろにいて、じっと溝口君の生活を見つめている。

 ハイハイをしながら部屋のあちこちを溝口君は移動して世界を見ているけれど私のことには気づかない。

 溝口君が何処かへ行くと私もそれについていく。私の意思は関係なくてどうにも溝口君についていってしまう。

 どうやら私は溝口君に取り憑いているらしい。

 だけど私に記憶にそれまでの記憶はなくて溝口君を呪いたいわけでも守りたいわけでもないようで、ただ「ふうん」と溝口君を後ろから見ている。

 溝口君はゆっくりと育っていって、小さな部屋の中だけだった世界が徐々に広がっていく。部屋の外、家の外、近所の公園、スーパー、プール教室みたいな感じで。

 私は溝口君を介して広がる世界を見て変わっていく景色を楽しむ。誰とも会話が出来ないのでそれぐらいしか楽しみがないのだ。

 ただ、そうして暮らしていると流石に情ぐらいは湧いてくる。

 溝口君が小学生になってクラスメイトと遊んでいる時に意地悪な子が溝口君に「ばーか」と言う。「あ、溝口君に聞かせたくないな」と思ったけど、溝口君は聞こえなかったようで他の子と遊んでいる。よかった。

 でも、そんなことが生きているとちょくちょくある。誰からも悪意を向けられない人生なんてありえない。繰り返していくうちに私は気づく。

 私は何も話せないし、関われないけど溝口君に向けられる悪意を肩代わりすることぐらいは出来るのだ。

 全部は代わらない。でも「どうしようもないな」とか「これはいくらなんでも酷すぎる」という時だけ代わる。

 人生はどうしようもないものだから結局そんなものを全ては防ぎきれないのだけど溝口君は「なんかいい人たちに囲まれて生きているなぁ」なんて思いながら日々を過ごす。悪意というのも適当なもので、悪意を向けた人たちですら仲良く過ごす時間があるものだから溝口君は幸せな時間を私が肩代わりした分だけ生きていく。

 私の中に悪意が溜まっていく。

 溝口君へ向けられた悪意を私に向ける。私はそれを溜め込んでいく。

 いつのまにか私は溝口君に悪意を向け始めている。そんな自分に気づく。

 ああ、こういうことはやってはいけないのだな。と私はうっすら気づくけど、肩代わりは私が世界と関わっている実感にすり替わってしまっていて私はついつい悪意を引き受ける。私の中の悪意が育っていく。

 悪意は世界に干渉する。溝口君の目の前に花瓶を落としたり、溝口君が階段を踏み外したりする。殺しはしないけど、私はすっかり悪霊になっている。

 悪意を肩代わりして、溝口君に向けて、また私が肩代わりして、繰り返して。この繰り返しになんの意味があるのだろう?

 そうして溝口君が進学し、社会に出て、仕事をするようになる。人生のステージが移り変わり、悪意は相変わらず世界にあって、悪霊として私は溝口君に不運をもたらす。

 それでも時間は過ぎていく。溝口君は何とか人生を歩んでいく。

 私はそれを見つめていて、それは退屈のしない日々でもある。悪意の絶えない日々でもある。

 時間は過ぎていく。

 溝口君がベッドに眠っている。

 もう、随分と長い間目を覚ましていない。

 ゆっくりと溝口君が瞳を開ける。私はそれが最期の時間だと気づいている。

 溝口君が命を失う間際に「楽しかった?」と呟く。

 それは死の間際のうわごとだったのかもしれないし、自分自身に向けた言葉なのかもしれないし、私に向けた言葉なのかもしれなかった。

 見えていたならもっと早く言って欲しい。悪意がなくても関われるならもっとやりようはあったのに。

 そう思ったけれど、答えは明かされないまま溝口君はこの世から去っていく。

 てっきり溝口君も私のように霊になるのかと思ったけど、溝口君は一向に現れない。葬儀が行われて、淡々と埋葬されてしまう。溝口君と私の存在は実はそんなに結びついているものでもなかったのかもしれない。

 私がその気になれば、今なら何処にでも行けるのかもしれない。

 でも、私は悪霊。

 私の悪意は消えない。溝口君のお墓の前にずっといる。〈了〉

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