人を傷つけてはいけません

 結局のところ、私たちは誰も傷つけずに関われない。

 ある日を境に私たちの生活が一変した。

 人の心のダメージが誰かの肉体のダメージになるようになるなんて誰が想像しただろう? 

 元々曖昧だった人と人の相性というものにまた属性が加わった。味の嗜好だったり思想の方向性だったり性的な相性だったり、ただでさえ面倒だった事柄に心身の傷つけ合いまで追加されてしまった。

 誰かが言葉や行為で心を傷つける。その人の心の傷つきが、誰かの肉体に傷となって現れる。

 例えば私が傷つくと海外の誰かが傷つくと聞いた。詳細はプライバシーの観点から伏せられているけれど、私はその事実に驚いてしまう。どうして、私の心の中だけの動きがそんな距離まで届いてしまうのだろう。

 それでもこの世界で生きていくには適応しなくてはいけない。皆、大なり小なり適応していく。人を傷つけないように、自分が傷つかないために。

 皆が言動に気を配るようになる。傷つけないように、不快にさせないように。

 自分の心の傷つきが誰かの体の傷つきになるように他の人の心の傷つきが自分の体の傷つきになるかもしれないのだ。結局、人間は痛い目に合わないと何も改めないのかもしれない。

 これが中々良い。

 私自身気を配らないといけないところがたくさんあると痛感したけれど、人間関係というものは案外丁寧にして損はないと実感することが多かった。気持ちを与える、という感覚。曖昧だけど人間は元々曖昧で、だから日々の関わりのそんなところが思ったより重要だと理解する。

 だけど、案外良いと言ってられないことも私は知ることになる。

 溝口君は高校二年生の時に同じクラスの隣の席になった人で、どうにも暗い表情をしているので私は二年声になったその日、クラス替えの日に早速話しかける。

「おはよう。溝口君だっけ、暗いけど、どうしたの?」

 その言葉を聞くと溝口君が面食らったような顔をする。私、そんな変なこと言ったかな?

「ありがとう。でも僕に話しかけない方がいいよ」

 そう言って溝口君がそれきり会話を断ち切って机に突っ伏して眠り始める。信じらんない!

 悲しいというより「なんなんだ!」という気持ちでプンスカしている。私は結構気性が荒いのかもしれない。

 そんな風にモヤモヤしていると私は先生に呼び出される。

「溝口さんなんだけど、あまり無理に話しかけないでいいよ」

「無理にってなんですか?」

「あ、知らないのか」

 先生は私に説明する。溝口君の心の傷つきが、途方もない数の誰かの体に影響を与えることを。

 大抵、心の傷つきが体の傷つきとしてフィードバックされるのは一人か二人、多くても五人くらいだ。なのに、溝口君は数千人単位の誰かの体を傷つけてしまうという。

 だから、誰も話しかけない。「彼は多分孤独に強いから、というか一人で過ごしたいそうだし」そう言って先生は私に溝口君と話すことを推奨しない。

 それからの日々も溝口君はずっと一人で過ごしている。誰とも話さない。誰からも話しかけられない。

「え、溝口? 一人が好きなんじゃないの」「好きでやっていることでしょ」「溝口さんと話すの、怖いじゃない」

 色々な人からそんな言葉を聞く。何度も聞く。

 だから、溝口君と話さないのは仕方ない。私の中で形容できない感情が蠢いて、熱を持つ。

 ある日の朝、溝口君が登校してきて机に座ってすぐに突っ伏す。

 私は言う。

「あのさぁ、眠りたくて学校に来てるわけじゃないでしょ」

 まさか自分に言われたと思っていないのか溝口君は反応しない。

「寝てるんじゃないよ」

 そう言って溝口君の肩を掴む。ぎょっとした表情を溝口君やクラスメイトがしている。でも気にしない。

「うじうじしてうんじゃないよ、この根暗が!」

 私が溝口君にそう言った瞬間に私の体が勢いづいて机に衝突する。ああ、溝口君の心の傷の反映は私にも来るらしい。

 でも、溝口君の表情に見えるのは傷つき以上に戸惑いだ。

「何やってるんだよ。話しかけない方がいいよ」

 溝口君が動揺して、そう言った。でも私は聞かない。

「溝口君は体よく無視されてるんだよ! 遠慮されてるんじゃないの、なかったことにされるんだよ! なんで怒らないんだよ!」

 そう叫ぶ。私は誰に何を言っているんだろう? 溝口君に話しているつもりなのに、私は視界があっちこっちに動いてしまう。

「ズルいよ全部! 何で溝口君も黙ってるんだよ!」

 何かに向けて、私が声を絞り出す。

 その時、私の鼻から血が出てくる。貧血で倒れてしまう。

 保健室で意識を取り戻す。先生たちが困った様子で保健室の外で話をしているのが聞こえてくる。

 傍では溝口君が心配そうな顔をして座っている。顔は青い。自分の傷を反映してしまったことの後悔からだろうか。

「おはよう溝口君」私はそうして声に出す。

「話しちゃダメだよ。また同じことになる」

 溝口君が本当に私を心配した顔で言う。

 私は右手を握りしめて体に力が入ることを確かめる。

 大丈夫。まだやれる。どんどん傷つけあっていこう。

 同じことでも構わない。

 無いことにするより、ずっといい。〈了〉

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