レイニーハミング
雨粒が集まって形を作り、私になる。
雨の日にだけ私は輪郭を取り戻す。意識は雨の日だけ連続しているようで、私が目を覚ます時はいつも雨だ。
晴れてしまうとまた私は消えてしまうけれど、そこには何の感慨もない。ただ、次の雨の日を待つだけだ。
夜に眠るような心地で私は雨が終わることを受け入れる。
雨が止んでしまうのは普通のことで、それが早いも遅いも、間が空くかどうかも私にとってどうでもいい。
私が意識を得る場所はその時々で違う。公園の時もあれば、誰かの家のベランダと時もあるし、校舎裏のこともあれば、川沿いの時もある。
雨の間だけが私が世の中を出歩ける時間で、鼻歌交じりに進んでいく。
色々な景色を見れる場所である時はそんな時間が充実したものになるからありがたい。
私のハミングが雨音になって辺りに響いていく。川から聞こえる濁流の音もいい伴奏だ。空から水が降り注ぐだけであったとしても、一つ一つには違いがあるものだ。
ただ誰もそれを知ろうとしないだけで。
私が歩くのは普通の道だけではない。ビルの屋上を歩くこともあれば、人の家の屋根、ベランダの手すりだって歩くことが出来る。雨が降り注ぐ場所は全て私の道なのだ。
そうして雨の日を歩んでいると私は溝口君と出会う。
誰かの家の手すりを歩いていると少年がベランダで座っている。もうすぐ雨は止む頃合いで、だから私は気まぐれを起こしてしまう。
「こんにちは」
と、私は言うけれど返事なんて期待していない。だって私は雨だから。
「こんにちは」
そう思っていたから、ベランダで座っていた溝口君がそう返事をした時に私はびっくりしてしまう。
「僕は溝口と言います」
溝口君は震えていて、上半身は服を着ていない。
どうしてベランダに出ているのか、それとも出されているのかはわからないけど、それを聞くには雨の時間は短すぎる。
だから、私は溝口君の名前を覚えることにする。
「あのね」
何か言葉を続けようとした時に私は再び意識を失ってしまう。
それから、私と溝口君は良く顔を合わせるようになる。
ある時は溝口君が傘も持たずに家へ向かって歩いている時に。
ある時は溝口君が何か物思いに耽りながらバス停で雨宿りをしている時に。
ある時は溝口君が涙を流して言葉に出来ない何かを表出している時に。
私は溝口君の何かを隠すように地面に降り注ぐけど、私が見ていることを彼は知っている。
「こんにちは」
私は後悔する。声をかけるんじゃなかったな。
それは溝口君に話しかけることが嫌だからではなくて、むしろそれが胸が締め付けられるほど嬉しいからで、誰にも気づかれなかった私に気づいてくれた喜びで満ちているからで。
「そんな顔の時に無理に雨音にまで気遣ったりしないでいいと思う」
「そうかな。でも、僕は話せると嬉しいよ」
「変なの」
「悲しさみたいなものに重ね合わされることが、友達と会える時になるっていうのは嬉しいじゃない?」
「……そうかもね」
やっぱり私はそんな言葉のやりとりで嬉しくて、このまま時間が過ぎれば良いと思ってしまう。
私が生きている時間。私が誰かに見つけてもらえるわずかな時間。
溝口君の何かを変えるには短すぎる、どうしようもなく嬉しくて、無力感を味わう時間。
少しでも長くこうして言葉を交わしていたい。私のハミングを、溝口君に気づいていて欲しい。
でもいけない。私は早く止まないと。
こんなに雨が降ったら溝口君が冷えてしまう。〈了〉
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