優先順位

 優先順位というものは大切だ。特に、溝口君の場合は。

 溝口君にとっての優先順位の一番下のものが消えてしまう。最初のうちはあまりにもどうでもいいものが消えていたらしく誰も気が付かなかったけど、どうやら溝口君が生まれてから毎日一つずつ何かの存在が消えていたらしくて私たちはそれを失って初めて有ったことに気づく。

 学校に登校して、溝口君に声をかける。

「おはよう溝口君」

「おはよう」

 溝口君と挨拶を交わす学校の朝はそれでも何も変わっていない、ように見える。溝口君にとって『日常』の優先順位が高いからだろうな、と私は思っている。

 私たちの選択している授業に世界史はないから、世界からたくさんの歴史が消えている。昨日まであったはずの人々の足跡が至るところで失われている。

 世界大戦が無かったことになって、そんな悲しく醜い歴史がなくなってよかったと私の周りの人は言うけれど、インターネットでは何を悲しんでいいのかわからないのに泣いて喚いている海外の人々の映像が流れている。

 老いた男性や女性が何かを叫んで、それでもうまく言葉に出来ない様子の一分ほどの映像だ。喚いていた男性が地面に蹲り、近くにいた人に起き上がるように促されてその映像は終わる。

 きっと失った何かがわからなくて、それを悲しんでいるのだろう。生きてきた意味も、忘れてはいけないと心に刻んだことも、いとも容易く消えていく。優先順位が低いから。

「でも俺たち溝口と同じクラスでよかったよな」「本当本当。『日常』って絶対大切だし、俺たちはまず大丈夫でしょ」「というかそれ消えちゃったら溝口も絶対困るしな」「わははは!」

 そう笑うのはクラスメイトだけではなくて日本史の先生もだ。世界史の先生はいつの間にか学校から消えている。

 それでも誰も気にしない。自分たちが大丈夫だからどうでもいいと思っている。

 私はクラスメイトと先生の会話を聞き流しながら校内を歩いて溝口君を探す。

 溝口君は、空き教室の机の裏で泣いている。

 次に何が消えるのか、溝口君だけが知っている。そして溝口君にも何かが消えることは止められない。止められなくても、何かが消える順番を決めてしまっているのは溝口君で、世界で初めにこの世から何かが消えたことを溝口君は知ってしまう。

 私の脳裏に浮かぶのは、何かが消えたことを嘆いて泣いている人々の映像だ。

「僕のせい、僕のせいなんだ。消えていいって僕が思ってしまったから」

「違うよ」

 溝口君はいつもそうやって自分を責めていて、責めるために実際と違うことを言う。私は何度でもその間違いを指摘する。

 溝口君は消えていいなんて思っていない。溝口君のせいじゃない。ただ、世界がそうなってしまっただけ。世界に残る優先順位はどんどん減っていて、溝口君にとっての大切な何かすら現在進行形で消えている。

「僕にはわかるんだ。きっともう、この『日常』もそのうち消えてしまう」

 溝口君は精一杯で、ギリギリで、私たちの過ごす日常を瀬戸際で守ろうとしている。

「いいよ、消しちゃっていい。消えたっていいよ」

「ダメだ。それは絶対ダメだよ」

 構わない。この世界にそんな価値なんて最初から存在しない。私にとって大切なことはそんなことじゃない。溝口君がこうしてここで泣いていることも気づかない人たちなんて私たちごと消えてしまっていいじゃない。

 でも次の瞬間に消えたのは私以外の全てで、何も存在しない空間に私は漂っている。

 もう名前も思い出せない誰かに対して余計なことをしてくれたな、なんて思うけれどあまり怒る気持ちも湧いてこない。

 もう時間も経過しない空間で、私は失ってしまった誰かが残してくれた何かを思って揺らめいている。私にとっての一番はきっと自分ではなかったのにな、なんて思いながら涙を流す。〈了〉

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る