船守幽霊
私の地元にとても小さな湖があって、大きさは周囲四キロメートルほど、面積は一キロちょっと。
まるで沼地のようだけど歴とした湖で、本当にたまにテレビの取材が来たりする。
テレビの取材の理由はとにかく小さな湖である、ということもあるけれどそれにまつわる怖い話もあるからだ。
夜に湖を船で渡ると船幽霊に沈められる。
船幽霊は夜中に船で渡っていると「柄杓をくれ」と声をかけてくる存在で、そのまま柄杓を渡すと無数の手が現れてその柄杓で水をどんどん汲み上げられて船に注がれて沈没させられてしまう……
と、ありがちな話が私の地元の湖にはあるけれどそんな有名な話だけでは人は来ない。結局のところ、最近そこで人が死んだからみんなそれが知りたくてやってくる。
溝口君は学校の人たちとの肝試しで湖を船で渡ることになって死んでしまった。
本当はペアで行くはずだったのに、私が体調を崩して肝試しに不参加だったから一人で行ってしまった。
地元の人も取材にやってくる人たちも好き勝手言う。悲しみの怨霊とか、船幽霊の呪いに殺された少年、とか。
溝口君が死んだのは呪いでもなんでもない。ただ、そんな企画をした私たちの愚かさが原因で死んだのだ。
みんな、その罪から逃れようとして呪いとか幽霊とか言っている。目を逸らしている。
そして、あの日一緒に行かなかった私は誰よりもそれを忘れたいと思ってしまっている。
「ごめんね、溝口君」
真っ暗闇の中で懐中電灯を照らしながら水辺まで歩いていく。街灯無い暗闇で、私の照らす光だけがあたりを見えるようにする。
ずるずると船を引っ張って、湖に押し出していく。
私はあの日、溝口君がきっと湖の底へ沈んでしまっている時に自宅で夢を見ていた。肝試しを楽しみにしていた私は、溝口君と一緒に肝試しが出来たらどんなに素敵だろうかなんて考えていた。溝口君と楽しむ未来を夢想していた。その時の溝口君のことなんて考えず。
私は船に乗る。暗闇の中に漕ぎ出していく。
呪いなんて嘘だ。
幽霊なんて嘘だ。
でも、溝口君が死んだことは本当だ。だからせめて、一緒に渡ろうと言った約束だけでも守りたい。
そうして船でゆっくりと湖を渡っていく。夜の静けさと水の冷たさで夏だというのに冷えてくる。
ばちゃあ、ぎぃご、ばちゃあ、ぎぃご、ばちゃあ、と櫂をこぐ音だけが私の耳に聞こえている。
ばちゃあ、ぎぃご、ばちゃあ、ぎぃご、ばちゃあ、ばちゃあ、じょば、じょば、ばちゃあ、ぱちゃぱちゃぱちゃ。じょば、ばじゃば。ばじゃば、ぐじゃばあ、ぼじゃえ、じゃばぁえじょばじょば、ぐじゃばあ、ぼじゃえ、じゃばぁえぐじゃばあ、ぼじゃえ、じゃばぁえぐじゃばあ、ぼじゃえ、じゃばぁえ、ぼじゃえ、ぼじゃえ、じゃぼらばじゃばあ。
え。何この音。
私の漕ぐ音とは違う音が混じっている。
ばじゃば。ばじゃば。
「冷たっ!」
私は足に水がかかったことに気づく。あたりを照らして私は悲鳴をあげそうになる。
「ぐじゃばあ、ぼじゃえ、じゃばぁえ」
球体に腕が複数本付いたようなけむくじゃらの何かが口のような場所から液体を吐いている。嘔吐された液体が船にどんどんと溜まっていて、私の船を沈めようとしている。
呪いなんて嘘だ。幽霊なんて嘘だ。そう思うけれど、確かに何かがここにいる。
目の前のけむくじゃらの何かは私に直接は何もしない。でも、このままだと船が沈んでしまう。
「ばじゃばぼじゃえ、ばじゃば」
「うううううう、ぐすっ、ぅぅううう」
「ぐじゃぼえ、じゃぼらえ、じょば、じばぁ」
「ぐすっ、うう、うう、うううううう、ぐすっ、ぅぅううう」
泣きながら船を漕いでいく。沈んでしまうとわかっていても、私は柄杓を持っていない。
こうして溝口君も死んだのかな、そんなことを思って諦めて、手を止めた時。
それでも船が進んでいることに気づく。
真っ暗闇の中で、なぜかぼんやりと明るさを纏った私のものではない手が櫂を握っている。
「誰……」
何も手は答えない。ただ船を漕ぐ。
私はそれを見て櫂をもう一度握って漕いで行く。
手が何かを持って掬い上げるように船に溜まった液体を出していく。柄杓だ。
もう少し、もう少しだけ。
謎の手が掬い出してくれたおかげで私は向こう岸にたどり着く。謎のけむくじゃらは消えている。
私はなんとか家にたどり着く。全身びしゃびしゃに濡れていた私を見て両親が激怒するけど、私は呆然としてあっという間に時間が過ぎる。
巡る日々の中で私はそんな出来事も忘れてしまう。でも、溝口君のことは忘れない。
どんどん私が歳を取っていて、やがて終わりの時に差し掛かる。
気がつくと老人であったはずの私が少女の頃に戻っていて、真っ暗であの日のような湖にいる。
何やら私は目の前の水辺を渡る必要があるようだ。
「ぐじゃぼえ、じゃぼらえ、じょば、じばぁ」
何かが私を追い立てるように脅してくるけど大丈夫。私の年季は伊達じゃない。今の私は怯えず船を漕いで行く。
向かい側で、両手のない誰かが私を待っている。
まだ待っていてくれたなんて。
あっちから忘れず手を連れて来るべきだった、なんて私は苦笑する。〈了〉
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます