歪みの修正

 台所のコンロの下の戸棚がいつの間にか開いている。

 共働きで家を開けがちな両親が開けたままにしたのかな? と最初は思っているけど、私が学校から返ってきて戸棚を閉じて、夕飯時に台所へ行くとやっぱり開いている。お母さんもお父さんもその間は帰ってきてはいない。

 おかしい。

 念の為もう一度戸棚を閉じる。しっかり閉じる。でも、夜になってお母さんが帰ってきた時にコンロの下を見るとまた開いている。

 休みの日、お昼時に戸棚を閉じて、お昼ご飯を食べた後に台所に洗い物を持っていく。

 戸棚が開いている。

「そんなわけだから何かがいる気がするんだよね」

「それって、幽霊とかってこと?」

 私は学校で友達の溝口君にそれを話す。

「うーん、でも幽霊にしては地味じゃない? ネズミとかなのかなぁ」

 幽霊。その可能性を考えなかったわけではないけど、実際一人の時になると無意識に目を逸らしてしまうもので、それまで私は呑気に「え〜ネズミ駆除の薬とかスーパーにあるのかな?」みたいな心境で構えていた。

「確かにその可能性はあるね」

「あるでしょ」

「でもね、ネズミがそんな頻繁に戸棚から出ていたとしたらそれは絶対に何か痕跡が残るんだよ。ネズミって夜行性だけど、昼間も電気を付けている時も開いているんだよね。戸棚」

 流そうとした私の言葉に割り込むように溝口君が真剣なトーンで言う。

「えっ、いや」

「些細なことの繰り返しで日常って侵食されるんだよ。劇的なことじゃない。小さな、何でもないような見過ごしてしまうことが人を歪ませる」

 何、どうしたの溝口君。いつものように雑談をしてくれる溝口君とは違う。それとも普段私が見ている溝口君は対外向けに作った物で、こっちが本来の溝口君の調子なんだろうか?

 動揺している私に溝口君が言葉を続ける。

「実際に見てみよう。家に行ってもいい?」

 そう言われてペースに飲まれて、その日の学校帰りに私は自分の家に溝口君を招くことになる。

「お邪魔します」

 私の家にいる溝口君は何でもないような顔をしているけど、私は初めて友達の男の子を家に招いて動揺している。それでも溝口君は真っ直ぐに台所へ向かう。

 私は何も言えない。溝口君がまるでこの事態に精通しているようで自分の家のことなのに「私が何も知らないのに適当なことを言えないな」と感じて黙ってしまう。

「開いているね」

 台所に踏み入れた溝口君が言う。戸棚は開いている。

 ピッ、と溝口君が指先を向ける。

「ええ〜?」

 台所におじさん立っている。それまで誰もいなかったはずなのに、私の会ったことのない、知らない中年の男性が立っている。

「ここは人の住んでいる場所ですよ」

 溝口君がおじさんに話しかける。

「いや、絶対中にあるはずなんだよ。ここに置いておいたんだって。なのにないんだよ」

「それはずっと前のことです。もうないんですよ」

「あるんだよ!」

 突然男の人が叫んで私は震え上がる。目が血走っている。

 何を言ってるのこの人。溝口君も何を言っているの。

 台所に突然現れたおじさんは完全に頭に血が上っていて「隠すな! 知ってるんだよ!」とか叫んでいて一瞬即発の状況になっている。

「ないんですよ。全部」

 そう言って、溝口君が手をかざす。

 しゅるしゅるしゅる、と音がしておじさんが溝口君の手のひらに吸い込まれるように消える。

 溝口君が「それじゃ」と言って私の家から出て行こうとする。

「あれ、何だったの」

「何だろうね」

「何だろうって……」

「ああいうことって偶にあるんだよ。色々な歪みが世界にはあって、そういうのが積もると大変なことになるかもしれなくて。僕はそれをこうして修正できる。僕のやらなくちゃいけないことみたいだからさ、こういうの。慣れているから何かあったら言ってよ」

 そう言って溝口君は帰る。それからも私は溝口君と話をするし、どうやら溝口君がそう言った不思議な話を聞くとあっちへ行ったりこっちへ行ったりして同じような修正をしていることをうっすらと知る。世界の歪みを、溝口君は修正していた。

 でも、そんなことは長く続かない。日常を侵食するのは、些細な積み重ねだから。些細な積み重ねが増え続けることに、人が慣れることなんてない。

 一年ぐらいして、溝口君が突然転校してしまう。

 転校直前、溝口君は明らかに様子がおかしくなっていた。ずっと周囲を気にしていて、神経質に扉を閉めたり、窓を急に開けたり。

 私は、何も言えなかった。出来なかった。

 思うに、私の家で起きた怪異のようなものを溝口君はひたすら背負っていたんじゃないだろうか。溝口君は、自分がそれを出来るからと多くの怪異について気になる人たちからそれを回収して背負っていたのかもしれない。自分に出来るから。出来ると言うことはやらなくてはいけないから。些細なことだから。

 そして、それが限界を迎えたのかもしれなかった。

 バカだ。溝口君はバカだ。溝口君は出来るからといってそんな余計なものを背負うべきじゃなかった。私や、他の人の日常の不思議なことを無理やり解決する必要なんてなかった。それが出来るからって、それを義務のように捉えてこなす必要なんてなかったのに。

 そんなことに気づいてももう溝口君はいない。

 相変わらず私は家で一人で過ごすことが多くて、私は台所の戸棚を開けておく。

 些細なことの積み重ねでも必ずしも人はおかしくなんてならないと、せめて私だけでも示していたいから。

 今もどこかで同じように歪みの修正をしているかもしれない、溝口君に頑張らなくても大丈夫といつか伝わるように。〈了〉

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