私は離さない

 溝口君の誤字が世界を変えていく。

 ある日溝口君の声が急に出なくなる。学校で先生の質問に答えようとした時にそうなって、病院に言って心因性失声症と診断されて何かストレス何じゃないかと推測されるけど溝口君には特に心当たりがなくて、治らない。

 溝口君がタブレットのアプリを使って筆談をするようになる。私が何かを話すと溝口君が頷いてサササーっとタイピングして返事を書く。初めはタイムラグに戸惑ったけどすぐに慣れる。

 溝口君の誤字は面白い。予測変換を使っているのか「お刺身」が「お察し身」になっていたり、「エビフライ」が「駅フライ」になったりしていて、溝口君の入力もだけどそもそも予測変換がバカだなこれは? となる。でも、私もついつい溝口君にペラペラ喋ってしまうものだから溝口君もそれに追いつこうとしてタイピングしていて、それで誤字をしているので私はちょっと申し訳ない。

「溝口君ごめんね、ついつい喋りすぎちゃって」

『気にしないでいいよ』『話すのが楽しくて急いで入力してうだけだから』

 と返ってきてやっぱり誤字をしているのが面白い。

 ただ、近頃世界が何だか変だ。

 いつも通りの通勤時間帯に駅がサックリフライになる。駅中に衣がついていてあたり一面にサラダ油の匂いが広がる。サックサクになる。

 スーパーに陳列されているお刺身が急に親身になって人々の気持ちに寄り添い出す。「このブリ、あなたの心情お察しいたします……」と喋り出すけど切り身なのであっという間にお刺身改めお察し身は息絶える。

 みんなテスト中に角煮を一心不乱に作り出す。みんな何かがおかしいと思っているけど「答案書いたら角煮しなきゃ!」という衝動にかられてテスト中なのに全員圧力鍋を取り出して思い思いの方法で教室で角煮を作る。ある人は生姜と水と醤油と酒と砂糖を使って調理中、ある人はコーラを使って調理中。教室にはトロトロになった角煮の良い匂いが充満していてテスト用紙は吹きこぼれでベシャベシャだ。

「え!?なんで俺たち角煮作ってんの?」「何言ってんだよ答案書いたら角煮作るに決まってんだろーが」「そうだぞ、お前たち。ちゃんと提出前に角煮やれよー。先生もお前たちのテスト後で角煮するの大変なんだからな〜」「あ〜この角煮食いてえ〜」

 私も一心不乱で豚バラブロックを鍋に投入している。

 私たちは狂ってる。

 違う、狂ってしまったのは世界の方だ。

 すぐに溝口君の誤字だと不思議と直感的に私にはわかる。溝口君が「確認」と打とうとして「角煮」と打ったのだ。そんなやり取りをテストの直前にしていたのだ。誰よりも溝口君と文字のやり取りをしていたのは私だから。溝口君もそれに気づく。溝口君だけはその間違いに影響されず、答案用紙をしっかり確認していたから。

 溝口君の誤字はそれからも続く。溝口君は一日中タイピングをしているので誤字をしないように慎重にタイピングするけどそれでも間違えてしまう。「学校」が「画工」になってしまってある日私たちが登校すると学校のあるはずの場所が空き地になっていてそこで絵を描いている人たちがいる。

 世界中が大パニックになって今は学校はないけどクラスメイトたちが溝口君の誤字との関係に気づく。

「溝口がしゃべるとおかしくなるから話さないでくれ」「お前が間違わなければ何にもならないんだぞ」「マジでそんな誤字すんの頭おかしいんじゃねーの」

 みんな好き勝手言う。その人たちがクラスのLINEグループで誤字を散々していたことを私は知っている。

『本当はこんな風に僕が言葉を書いたらいけないんだ』『世界がおかしくなっちゃうから』『だから、黙るよ』

 そう言って溝口君がタイピングをやめる。

「そんなことない! 溝口君が喋れないなんて絶対おかしい」

 だけど溝口君はもう返事をしない。溝口君が世界を壊したんじゃない。そもそも溝口君の誤字で狂ってしまう世界は最初から壊れている。そのために溝口君が黙る必要なんてどこにもない。溝口君は思い思いのままに誤字という間違いを孕んだままこの世界を生きるべきなのだ。誰もが間違えている世界で、歪んでぐにゃぐにゃの正しさに身を委ねて溝口君が黙る必要なんてないはずだ。

 でも、そんな憤りと同時に溝口君が誤字をしないように口を噤むのは溝口君と誰よりも会話をしている私のためで、私が誤字でおかしくなってしまわないように溝口君は私との会話を拒む。

 そうして溝口君の気持ちを踏みにじれなくて、私は溝口君と話さない。

 だからせめてもの抵抗で私は溝口君の隣にいることにする。伝わらないかもしれないけれど、隣にいる。〈了〉

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