こぼれ落ちる
溝口君の怒りが溢れ出してこぼれ落ちる。
こぼれ落ちて自由になった怒りは溝口君の知らないところで歩き出して夜な夜な人を殺す殺人鬼になる。
その怒りは少女の姿をしていて仮面を付けている。夜道を一人で歩いているとたったったったったっ、と近づいてするりとナイフを差し込んで再びたったったったったっ、と走り去る。
でも、怒りは溝口君の思っていた通りには動かない。
溝口君が学校で友達をいじめている人たちに怒りを持って、その怒りが少女の姿になったとしてもその怒りはいじめをしている人たちを襲わない。
怒りというのは歪んでまっすぐには進めないものだから、いじめられていた人を殺してしまう。溝口君の友達が殺される。
たったったったっ、するり。
そして溝口君の怒りの原因であったいじめはなくなる。
いじめの主犯格は葬式に友達として溝口君と参列する。溝口君はそんな主犯格に怒りに近い感情を持つけどそれよりも溝口君の心境にあるのは悲しみだ。
何もできなかったこと、怒ることしかできなかった情けなさ、そしてもう二度と会えない喪失感。
溝口君から分たれた怒りに悲しみが混ざってしまう。ミルクを注いだ珈琲みたいにぐるぐると混ざり合って、一つの存在として不可分なものになる。
怒りであり悲しみである少女は不安定になってナイフを夜に振り回す。
葬式の帰りにカラオケで夜中まで歌っていたいじめっ子たちに夜道で見つける。
「どうしてそんなことが出来るんだ! どうしてそんなことが出来るんだ! どうしてそんなことが出来るんだ!」
怒りと悲しみは感情に過ぎなくて、何も説明できないからナイフを振り回して追いかける。そうして彼らはいじめられっ子に呪われたと思って震え上がる。翌日には学校で自分たちから先生へ自白する。
事件の怒りも悲しみも消えずに残り続けるけれど、何も知らない溝口君はそんないじめっ子たちの自白を見て、友達が安らかに眠り続けられることを改めて祈る。
それからの日々が溝口君のそんな感情の起伏をなだらかにしてくれて溝口君はまた笑うようになる。
少女には更に喜びの感情が混ざり合う。もう少女はナイフを捨てて、仮面を付けなくても怒りと悲しみと喜びの表情を作ることが出来るようになる。
少女は学校へ通い出す。自分を作り出した溝口君がどんな人か知りたいと思う。その気持ちが一体何なのか少女はわからない。
「私、何にもわからないんだよね」
転校生として溝口君にそう話すと彼は笑って世話を焼いてくれる。何にもわからないのは学校だけじゃなくて全てなのだけど、溝口君は気にしない。溝口君の心の喪失を、怒りと悲しみと喜びの混ざり合った少女が埋めていく。
「ねえ、溝口君。最近、私学校に来るのがすごい楽しい」
「本当? よかったぁ。それは僕も嬉しいよ」
そう話す溝口君は本当に自分のことのように嬉しそうで、楽しそうだ。
「友達がいたんだけどね。色々あって学校に来れなくなっちゃって、もういないんだ」
「友達……」
「うん。いい人だったんだけどね。僕がもっと勇気があればこうならなかったのかもしれない。いや、ごめん。こう言う話をするつもりじゃなくて、最近それで楽しくなかったけど君のおかげで今は楽しい、って伝えたかっただけなんだ」
そして少女は、私は胸が苦しくなる。
溝口君の悲しみの原因は怒りであった私で、そんな私が今更溝口君を楽しませている。怒りであった時の私の行動はもう取り返しがつかなくて、私は何も言えずに溝口君と過ごす。
でも、私と過ごす日々が確実に溝口君のそんな空白を埋めていて怒りも悲しみも徐々に消えていく。私を構成する半分が消えていて、私が徐々に消えていくのがわかる。
「そろそろ夕方だね。もう帰る?」
「ううん、もう少しだけ」
溝口君の言葉にそう返して、夕暮れ時の教室で溝口君を見つめる。
私は相変わらずわからないことだらけだけど、もう少し溝口君と過ごしていたいということはわかる。
溝口君と明日も明後日もこれからも話していたいと思うけど、私が消えて無くなってしまうことが溝口君の心の平穏の証明になるのならそれはきっといいことだ。こぼれ落ちない程度の感情とともに溝口君が生きていってくれると嬉しい。元々溝口君の感情から生まれた私が消えても、きっと溝口君はそれを知らずに生きていけるだろう。忘れてしまえるのが記憶ではなく感情なのだから。
でも、私のそんな別離に感じる悲しさが、もしかしたらこぼれ落ちて溝口君に辿り着かないようにしっかり消える。〈了〉
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