殴り愛コミュニケーション
ある日世界が壊れてしまう。
朝起きると居間からドカンドカンと何かを倒したり蹴ったりする音がする。お父さんとお母さんが殴り合いをしているのだ。
「おはようあなた! おはようあなた!」
「おうおうおはようおはよう!」
と言いながらお母さんはまな板の角でお父さんを殴りつけていて、お父さんは回し蹴りでお母さんの顎を執拗に狙う。まな板がガコッとお父さんの目の横に、回し蹴りがスコーンとお母さんの顎に当たり二人とも地面に倒れる。
全くもって仲睦まじい光景で私は辟易する。
「あらおはよう!」
「おうおはよう!」
私に気づいた二人がなんとか起き上がり足がふらふらな状態で私を引っ叩こうとするけれど、二人とも脳が揺れていてまともに歩けないものだから結局また地面に倒れてしまう。
「だから私はいいから。殴ってきたら本当にこの家出るからね」
そう言って私は机の上に用意されていた朝食を食べる。半熟の目玉焼きは綺麗に整っていて近くで殴り合いが発生していたとは思えない。
「反抗期なのかしらねえ。家族のコミュニケーションなのに……」
「まぁまぁ、そういう時期もあるものだからさ」
そんな声が家の扉を閉める時に聞こえる。
私が気がついたら世界はおかしくなっていた。暴力が愛情表現で、世界で推奨されるコミュニケーションになっていたなんて。
学校に着くとあっちこっちで殴り合いが起きている。保健室は長蛇の列だというのに誰もそれをおかしいと思わない。
それまでは暴力なんて用いないでみんな交流していたはずなのにある日突然そうなってしまい、私はこの世界に適応出来なくなる。私は暴力なんて振るいたくない。
どうやら流血沙汰になるレベルの暴力ではあるものの「相手から示される暴力を受け入れてこそ親愛」と見做されるようで、誰もがオーバーな前動作があるので躱すことは比較的簡単だった。何より、みんな避けられるだなんて夢にも思っていないのだ。
「どうして、避けるの。私なんか悪いことした?」
友達だった子にもそう言われる。泣かれる。クラス中で悪者扱いになる。
そんな私に暴力を振るおうなんて人はいないから私はもっと居心地が良くなる。教室に入ると私をいないものとしてみんなは扱う。私の横で平気で殴り合っていて、私が嫌そうな顔をしても誰も気にしていない。きっと、私は世界の異物になっている。
おかしいのはもしかしたら世界じゃなくて私なのかもしれない。
でも、変わらない人もいる。溝口君だ。
溝口君はこの世界で唯一暴力を奮わない。私は前の世界と変わらずお昼休みに溝口君と過ごす。
ただ、暴力が愛情のこの世界で溝口君は恐れられている。私から見ると誰よりも優しい溝口君はこの世界で優しさが欠片もない人として畏怖されている。愛情表現が反転しているのだなぁ、としみじみ思う。
「溝口さんには近づかない方がいいよ……」「あんた溝口に洗脳されてるんだよ!」「絶対変な影響受けてるよ」「お願いだから目を覚まして!」
以前は友達だった人たちが泣きながら私に言う。周りから見ると私が急にはぐれものの溝口君に影響を受けて非暴力人間になってしまったように見えるらしい。
あまりにも切実で、嘘のないような言葉をクラスメイトに言われるから私も「この人たちは嘘を言っているわけじゃないのだな」と感心するけど、それでも私は溝口君といる。
昼下がりの穏やかな時間を溝口君と過ごしながら、この世界の溝口君について考える。
暴力が愛情で、それを一切表現しない溝口君。
誰もが殴られたいし殴りたいのにそれをしない溝口君。
泣いているクラスメイトの顔を思い出す。
もしかすると、溝口君は優しい人ではないのかもしれない。私はこの世界で異常者だけど、溝口君はこの世界で正常にひどい人なのかもしれない。
「どうしたの?」
じっと見ている私の視線に気づいた溝口君が微笑む。溝口君の笑顔は前の世界と変わらない。
「なんでもない」
気にしない。どうでもいい。そもそも、愛情の表現なんて全部自分勝手で理不尽なのだ。
それよりも、元の暴力のない世界の溝口君が本当は何かあった大切な感情や衝動を押し殺して今のように微笑んでいたかもしれないことが申し訳ない。〈了〉
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