《DAY 8月8日》

いる


 日差しはますます猛威を振るっていた。

 ここ数日間引きこもっていたぼくには過酷な夏が始まっている。


 だというのに、東雲先生は待ち合わせの場所に木漏れ日まぶしいテラス席を選んだ。一人颯爽と現れた彼は、今日も仕立てのよさそうなジャケット姿で汗ひとつない。

 呼び出されたカフェは、賑やかな駅前から坂を下り、静かな住宅街を偉そうに見下ろす立地。隣のテーブルでは露出の激しい男女グループが下世話ばなしで盛り上がっていた。

 軽薄に夏の風景に、ぼくという異物がポツンと混入していた。


「私も、君たちには申し訳ないことをしたと思っているんだよ」


 そう言いながら、東雲先生は分厚い皮のバッグに手を伸ばし、クリアファイルを引き出す。仕事の予定表か何かだろうか、何枚か中を覗き込むとテーブルに置いた。

 そのタイミングでウェイトレスがやってきて、テーブルにはアイスコーヒーも並ぶ。


「すまないと思っているなら、ぼくの目くらい見たらどうですか」


 彼だけでなく、ウェイトレスまで目を丸くした。

 東雲先生に至っては、以前会った時は金魚のフン然としていたぼくの態度とは雲泥の差だ、さぞや驚いただろう。

 ぼくとしても、あらゆる社会的な枷が外れたせいで思ったことが口に出やすくなった自覚はある。自分でいうのもなんだが、ぼくはひどく中西に影響されていた。


 ウェイトレスは気まずそうに目を泳がせながら仕事にもどっていく。

 笑顔で誤魔化そうとする東雲先生を、再度睨みつけると、彼はととうとう観念したのか深く頷き改めて謝罪を述べた。

 それをあっさりと受け入れたぼくに、東雲先生はまたも目を丸くした。


「意外だね」


「あなたが信用できそうか、試しただけです。そうじゃないと、ここからなにを聞いたって無駄じゃないですか」


 東雲先生は神妙な顔つきを見せ、そして今度こそぼくの顔色を窺い覗き込むようにして話しはじめた。


「それもそうだね。きみが私の呼び出しにきみが応じたということは、相応の覚悟があるってことだものね」


 何の話をしようとしているのかわかって、ぼくは平然を装う。

 灰皿を引き寄せ、タバコを咥えた。ライターの炎の先端が恥ずかしいほどに震える。

 東雲先生は気が付いていただろう。だからこそ、ぼくが紫煙をあげて一呼吸したところで静かに、はっきりと言った。


「燈子くんだったよ」


 ぼくは震える呼吸でタバコの煙を肺に詰め込んだ。


 鏡を壊したあの夜、アパートに地元の警察が来た。そして、三〇一号室で朽ちた遺体の山を見つけた。

 不思議なことに、その事件は地方紙でのみ取り上げられ、赤城の自殺や芹沢が起こした火災よりもはるかに細く小さく報じられた。なにかの権力が働いているとしか思えなかった。

 とはいえ、それがきっかけで脱税や違法行為も発覚し、保坂さんはアパートの取り壊しを余儀なくされた。あの場所自体、消滅するのだ。


 当然だが、地方警察は打ち砕かれた遺体の身元を調べた。

 その中に一つ、ひときわ新しい――五体が引き裂かれた若い女性の遺体があった。どういうわけか、その身元照合に呼び出されたのが東雲先生だったのだ。


 その遺体が赤の他人ならば、そもそもぼくは呼び出されなどしない。彼がなんと言うのかなんて、わかっていた。

 わかっていた、のに……。


 蝉時雨がわんわんと泣き叫ぶ。

 カラン、とアイスコーヒーの氷が鳴るまで、ぼくは木漏れ日を眺めながら煙をくゆらせていた。軽薄な夏の音が通り過ぎる。


 鏡を割った後、アパート前で出会った燈子はどうも話が噛み合わないと思っていた。

 白む空を見ていた燈子。

 ぼくが見ていたのは……。

 あのときにはもう……。

 それを悟られまいと、アパートの前までぼくを?

 それなのにぼくは、誕生日おめでとうなどと、いま思えば残酷なことを言った。たった数時間の二十歳だった。


 想像はしていた。

 覚悟もしていた。

 それでも、夏空が青すぎるし、タバコが根元まで灰になるのもずいぶんと早かった。指が震えるのも止められない。


「きみは陰謀論を信じるかい?」


 東雲先生は突然言い出し、流れるように立ち上がった。

 すでに彼のグラスの内容物は氷だけだ。それだけ黙ってぼくを見守り、いよいよ見ていられなくなったのだろう。


「存在しないものを作ろうとする者あらば、逆に存在をなかったことにする者もいる。ありもしない伝説を作ろうとする者、真実を捻じ曲げようとする者、そういった裏表を行き来しようとするのは、いつだって厄介な連中さ。しかもそういった連中に限って根が深い」


 なにを言いたいのかわからない長広舌だ。


「オカルトだよ。きみが愛する、オカルトさ。よくわからないから怖いし、よくわからないから惹かれる……だっけね?」


「……はあ?」


 間抜けな声が出た。

 それはたしか、ぼくの台詞だ。どこで言ったものだったか。

 混乱して首をかしげているうちに東雲先生はバッグも持ち上げ、ジャケットの襟元を整える。


「それじゃあ行くよ。私は忙しいのでね」


「あ……忘れ物です」


 テーブルに残っていたクリアファイルを差し出すと、彼はパチンとウインクした。腹の立つことにトレンディ俳優顔負けの容姿に気障な仕草が似合っている。


「そうだよ。忘れ物だ。私は何も知らない」


 それだけ言うと、伝票を持って出口に向かっていった。


 *


 東雲先生の忘れ物には、ぼくの知らない天神――角凝魂命つのこりについての短い記述があった。


 天照大神が天皇家の祖であるように、角凝魂命もまた神の血を引く一族としていくつかのうじを残している。

 その中に角守の名はない。


 角守燈子。

 "角"は鬼。隠され、忌むべき存在。

 "守"は古い役職名……だとしたら。


 霊能力者の間でも取り扱い注意の厄介な一族。

 存在しないのに存在しようとした、あの化け物の裏、逆。

 東雲先生はなぜわざわざぼくにこの資料を残したのか。

 陰謀説。

 よくわからないから怖いし、よくわからないから惹かれる。

 彼女こそが、ぼくにとっての。


「……オカルト」


 ぼくはまだ、一九九九年七の月に、この世に降りてきた恐怖の大王を待っている。


 *


 きらめく午後の日差しが鋭く傾きつつあった。

 並ぶビルの壁はノスタルジックなオレンジ色に染め上げられている。


 残念ながら、ぼくには外食する金もない。大人しく、あの縁起でもない寝床に帰ることにした。酒も食料は尽きているが、幸いにして塩だけはある。盛塩も必要なくなったのだから、残りは料理に役立てるとしよう。


 喫茶店のドアベルを鳴らしたところで、丁度、目の前の坂道を子どもが下ってきた。

 そのまま通り過ぎ勢いよく下り坂を駆けていくが、ぼくの開いたドアを避けようとバランスを崩したのだろう、二、三歩つんのめって頭から歩道に突っ込んだ。

 それはそれは見事な転びっぷりだった。


「きみ、大丈夫?」


 駆け寄って片足をつき、覗き込む。

 茶色のふわふわな天然パーマが可愛らしい印象だが、顔を見ても性別がはっきりしない。活発そうな服装からして男の子だろう。

 彼は目に涙をためながら、ぼくの顔を見てポカンとしていた。

 場に似つかわしくないもさもさ頭のオタクにいきなり話しかけられた子どものリアクションなんてそんなものだろう。


「立てる? 手、貸そうか?」


 このご時世、相手が男の子であっても周囲がうるさい。ぼくはまず声をかけた。

 彼はぶつけた額を両手で庇い、犬歯をむき出しにして痛がりながら、目いっぱい強がって言った。


「自分で立てるよ!」


 どうやらドアを開いたぼくを、自分が転んだ原因とみて怒っているらしい。それは悪いことをした。

 彼は怒りだけ投げつけると勢いよく立ち上がり、汚れた服もそのままにまたしても危なげな足取りで坂道を下って行った。

 ぼくは心配になって数歩追いかけ――踵を返し、賑やかな往来への道を上る。





<完>



著:澄石アラン

原案:田邊晃和

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嗤うメビウス 澄石アラン @azariyah

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