第10話

 それからしばらくして私たちは喫茶店を出て、街中のショップをうろうろと冷やかして回った。そのうち、小さなビルの二階に見たことのないレンタルギャラリーを見つけたから入ってみることにした。ちょうど、若いアーティストが個展をやっているみたいで、小さな看板が出ている。


『Color of the Tomato』。


 看板にはそんな個展のタイトルが、オレンジ色の文字で記されていた。

 中に入ってみると確かに、小さなスペースに展示されていたのはどれもトマトをモチーフにした作品だった。

 皿いっぱいに盛られたミニトマトの油絵。トマトに顔と手足が生えた少女マンガっぽいイラスト。トマトの形を模した、サッカーボールくらいの大きさのランタン。

 統一性なくとにかくトマトに関する作品が並べられているのを見て、私は唖然とした。作者はそんなにトマトが好きなんだろうか。

 その作者である青年は、私たちのほかにもう一人いたお客さんと、何かを話し込んでいる。トマトを意識しているのか、その頭髪は赤色に染められていた。服装も、赤いトレーナーに緑のズボン。その姿がツボにはまったのか、怜雄くんは私の隣で肩を震わせて笑いをこらえている。一体何者なんだと思いきや、入口に置いてあった名刺を見る限り、近所の美大の学生だそうだ。


「どう思う?」


 半分にやけた顔の怜雄くんに囁かれて、私は数秒間考える。


「……トマトだなあって思う」

「確かに」

「あと、よく見たらトマトってちょっと可愛い、かも」

「あー、確かに」


 私たちの感想は、そんなものだった。

 もう一人のお客さんが帰ってから、私はトマト風ファッションの作者である青年にそれとなく近づいて質問してみた。


「トマトが好きなんですか?」


 彼は、細い目をぱちぱちと瞬きさせてから、「いやー、」とだらだらした返事をした。


「嫌いっすねー、トマト」


 じゃあなんでトマト描いてんだよ。


「じゃあなんてトマトの個展を開いてるんですか?」


 思わず突っ込みそうになるのをせっかく耐えたのに、怜雄くんがあっさり訊いてしまう。

 青年は、心底嫌そうに顔をしかめた。


「やー、なんというか俺、小さい頃からマジでトマト嫌いで。母親が作ってくれた弁当にトマトが入ってたら絶対残すレベルで。もうほんと嫌いでー、苦手とかじゃなくてもう憎んですらいたんすよ。スーパーに並んでるトマトとか、レストランで赤の他人が食ってる料理に入ってるトマトとかを見かけるだけで睨みつける生活してたし。でも、高校生のときに、なんで俺、トマトのことこんなに嫌いなんだろうってふと思って。トマトの何が嫌いなのか考えてみたんすよ。でも全然わかんなくってー、酸っぱいのが無理ってわけでもないしー。ただとにかくトマトに対してムカつくのに、ムカつくなら見なければいいのに、なんか気になってトマトのことばっか考えてしまうっつーのはわかったんすよ。その頃から俺、トマトを描くようになったんすよ、描いて、もっとトマトのことを理解できたら、俺がトマトを嫌いな理由もわかるかなあーって。でも全然わかんないから……今もまだ描き続けてますねー」


 でも、わかんないすけどー、と青年は言うと、少しだけ顔をほころばせた。


「嫌いなのに、どっか可愛いとこもあるかなーって、最近は思ってますねー」



「なんか……変な人だったな」


 ギャラリーを出て少し歩いたところで、怜雄くんがぼそっとつぶやく。そうだね、と私はちょっと笑ってうなずいた。

 頭の中ではなぜか、さっき見たトマトの作品に重なって、未華子の笑顔が浮かんでいた。


「怜雄くん」

「ん?」

「トマトって、未華子だなって、思ったよ」


 意味不明な私の言葉に対して、怜雄くんは特に何も言わなかった。ただ、数秒間無言で歩いてから、「トマト……なるほどなあ」とわけのわからない独り言を漏らしていた。

 このとき歩きながら私は、帰ってどうするかをなんとなく決めた。私はあの部屋を出て行かない。

 一緒に戻ろうかと気遣ってくれた怜雄くんを断って別れ、一人でたらたらと歩いて部屋に帰ったのは、午後の二時を過ぎた頃だった。

 いつもの二倍の時間をかけて玄関の鍵を開ける。一歩中に入ったそこは、昨夜出ていったときとまったく同じ、私のスニーカーと未華子のパンプスが転がっていた。

 しんと静まり返った空間をそろそろと進むと、ソックスと廊下が擦れる音だけが小さく広がる。

 リビングをのぞくと、未華子が部屋の電気もつけずに、膝を抱えてソファに座り込んでいた。私に背中を向けているから、表情はわからない。

 声をかけようか迷っていると、彼女はゆっくりと振り向いた。いつもと違ってすっぴんで青白い顔が、私と向き合う。


「……お姉ちゃん」

「ただいま」


 未華子はゆらりと立ち上がると、遠慮がちに私に近づいた。それだけの短い時間があまりにも気まずいから、言うべきことは早く言ってしまおうと思った。


「未華子、ごめん。ごめんなさい。昨日は……」


 嫌いって言ってしまって。八つ当たりのようなことをしてしまって。そう言おうとしたけれど、言葉の続きは言えないまま飲み込んでしまった。

 未華子が私に抱きついてきたから。


「お姉ちゃん、ごめんなさい。しつこく動画に誘って」


 左耳の真横で囁かれるその顔は、私には見えない。けれど、声がか細く震えている。


「私、お姉ちゃんのこと大好きなの。だから、お姉ちゃんが私のことをどう思ってるとか考えたことなくて、同じように好きでいてくれると思い込んでた。嫌われるようなこと、してたならごめんなさい。お姉ちゃんが嫌なところは直すから、ごめんなさい」


 子どものように訴えてくる未華子に抱きしめられて、私は立ち尽くしていた。

 こんなときでさえ、胸の奥では彼女のことを嫌いだと叫ぶどうしようもない私が暴れまわっている。そんなしおらしい態度で近づかれたって好きになんかなってやんねえぞって。

 だけど、それだけじゃない。私はずっと、幼い頃から、未華子をただ嫌っているだけではなかったと、今さら気づく。

 さっき出会った、変な若きトマトアーティストの姿が頭の中に浮かんだ。ムカつくなら見なければいいのに、トマトのことばかり考えてしまうと言った、あの青年の姿が。

 わかる、わかるぞ、トマトの青年よ。

 ムカつくのに未華子のことばっか考えてる。気が付いたら一緒に暮らしてる。



 嫌いなのに、どっか可愛いとこもあるかなーって、最近は思ってますねー。



 私もいつか、未華子のことをそんなふうに思えるだろうか。いや、もしかしたら、もう。


「だから、ここ、出て行かないで。お姉ちゃん」

「行かないよ。ここで未華子と一緒にいるよ」


 未華子なんか大嫌いだ。私よりも幸せそうで、誰からも愛される未華子なんか。だけど。


「未華子は、大事な妹だからね」


 たぶん、私も彼女を愛している人間の一人なのだろう。

 すすり泣く彼女の背中に腕を回し、ゆっくりと手でさする。

 彼女のことなんか全然わからない。私とは全然違うし、全然理解できない。でもいつか、理解したい。

 大嫌いで愛しい妹の体温や声を体で感じ取っていると彼女の長い髪からふいに、シトラスのような柔らかい匂いがした。それは私もいつも使っている、バスルームに置いてある白いパッケージのシャンプーの匂いだった。

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Color of the girl 中村ゆい @omurice-suki

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