第9話
カラオケボックスで近隣のルームから聞こえる下手くそな歌声を子守歌にしてうとうとしながら一夜を明かした私は、朝にはそれなりに頭も冷えていた。
私が彼女にひどいことを言ってしまったことはとうに理解している。
未華子が私を姉として本当に好きでいてくれていることも、つまらない毎日にならないように前向きに仕事をして、動画投稿という楽しみを見つけたことも。彼女はお喋りだけど、仕事の愚痴はほとんど言わない。面白かったことだとか、そんなことばかり私に話して聞かせる。パソコンで動画を作っているときの目は本当に生き生きとしている。
そこまでわかっているのに。私はまだ家に帰って謝る気にはなれない。何かがまだ、未華子のことを思うと心をざらざらと乱していく。
もう、一緒に暮らすのは無理かも。
私が放った大嫌いというワードを、未華子はきっと忘れてくれないだろう。自分のことを嫌いだと言った人間と同居なんてしたくないだろうし、私としても、嫌いだと面と向かって言った相手とどう暮らせばいいのかわからない。
なんか喧嘩した同棲カップルみたいな悩みだな、あほらしい。
ふっとやる気のない笑いを吐息に乗せて吐き出しつつカラオケ店を出たところで、スマホが振動した。
ポケットから取り出して画面を見ると、怜雄くんからメッセージが来ていた。
家で三人で映画見る約束、忘れていた。
「俺は知ってたけどね。理加子さんが未華子ちゃんのこと、好きじゃないってのは」
どうでもいいことのように言いながら、怜雄くんは私の向かい側でサンドイッチを頬張っている。
適当に入った喫茶店は、彼が雑誌を返してくれたお店よりも広くて、お客さんも多い。あれから三か月ほど経ったのかと思うと、時間が過ぎる速さが恐ろしくなる。
とりあえず居場所を返信すると怜雄くんは、映画見るって言ってたのにと文句を言いながら、私が座っている席にやって来た。事情は電話ですべて未華子から聞いて知っているらしい。
彼は食欲がなくてカフェラテをちびちび飲んでいる私を横目に、かなりボリュームのあるモーニングセットを注文して吸い込むように食べている。男の人の勢いのあるこういう食べ方って、見ているこっちも気持ちがいい。
「そんなに顔に出てたかな。私は私なりに、未華子に嫌な思いはさせないように隠してたつもりなんだけどな」
「や、そこは大丈夫だろ。未華子ちゃんは良くも悪くも自信家だから。好かれてないとか夢にも思ってなかったんじゃないの」
「なんで私のことも未華子のことも、そうやって怜雄くんにはわかるわけ」
「第三者ってそういうもんでしょ」
そういうもんだろうか。私たち姉妹には見えていないものが、少し離れている彼には何か見えているのだろうか。
黙り込んでいると、怜雄くんは話は終わったつもりなのか無言で食事に戻る。私は何をするでもなく、ぼんやりと座っていた。
カラオケボックスで熟睡できるわけもなく、正直今、とても眠い。お金をケチってカラオケにしたけどカプセルホテルを探したほうが良かったかな。とにかく今、喫茶店の緩いざわめきが眠気を倍増させて心地よい。
これから家にどんな顔で帰るのかとか、そういう面倒なことを頭からシャットアウトしてぼーっと椅子にもたれて座っているうちに、怜雄くんのサンドイッチの皿は空になっていた。
「今日さあ」
「うん?」
急に話しかけられて生返事をしたら、寝た? と心配そうに訊かれる。
「眠いならもう少しここでうとうとしてたら? そんでその後さ、ちょっとぶらぶら散歩しない?」
「今日? 今から?」
それよりも早く帰って未華子に謝ったほうがいいような気がするのだが。関係が修復できるとは思えないとはいえ。だけど正直、まだあまり帰りたくないというのも本音。
行くとも行かないとも答えられず、唇をむぐむぐと動かして迷う。いつもの如く面倒くさそうな顔に見えたのかもしれない。
「まーたそんな顔して。さっきの電話、未華子ちゃんもまだ取り乱してたし、もう少し時間空けたほうがいいって。理加子さんもなんかまだ帰りたくなさそうな感じだし。そんなんで帰っても仲直りできないよ」
私が帰りたくないのも、第三者だからわかるっていうのか。心の中を見透かされているような奇妙な感覚。
取り乱してたっていう未華子のほうに行ってあげたほうがいいんじゃないの。
そう、棘のある言い方をしそうになったけれど、一瞬考えて思いとどまる。
「私と一緒にいてくれるの? 未華子じゃなくて?」
「まあね。未華子ちゃんも心配だけど、理加子さんだって平気じゃないだろ。だからいるよ」
「でも未華子だって平気じゃないんでしょ」
「未華子ちゃんは一人で色々考えたら落ち着くタイプの人だよ。理加子さんは一人になると悪い方向に思考が傾いて良くないタイプ」
ゆったりと話す彼の声に、耳を傾ける。彼の言うことは当たっている気がする。けれど、求めていた言葉とは少し違った。私はいつでも未華子と自分を比べてしまうから。本当は、私を選んでほしくて。
「あとは、俺が理加子さんを好きだから、平気じゃないときには俺が助けたいんだと思う。男として」
もどかしく思っているところに欲しかった言葉をもらえてこっそり安堵した。未華子と比べたうえで、選ばれたかった。未華子に勝ちたかった。そして更なる安堵感のために、私は念押しの質問を重ねる。
「未華子じゃなくていいの? あの子のほうが可愛いし、もてるし、今彼氏いないよ」
「何それ。理加子さんと未華子ちゃんを比べたって意味なくない?」
きょとんとした顔で見つめられ、彼が何を言っているのかわからなくて今度は急に不安になる。
「可愛いとかじゃなくて、一緒にいて沈黙が苦痛じゃなかったりとか。そういうのが大切なんじゃないの、恋愛って」
彼の一言一句を、ゆっくりと頭の中で反芻する。そうすれば理解できるんじゃないかと期待しながら。
でもやっぱりよく、わからない。私と彼のあいだに流れる無言の時間の心地よさは、確かに私も前から感じていた。それは、未華子の存在なんか無関係の、私と彼との空間の問題だ。彼はそういうことを言いたいのだろうか。
最初から彼は、私を誰とも比べていなかったのかもしれない。いつも未華子を基準にして自分の位置を探っている私には、よくわからないけれど。
けれど、もうこれ以上しつこく何かを尋ねるのはよそうと思った。
あの沈黙の時間が大切だと彼が言うなら、それでいい。
「そっか」
私は短く返事をして、目を閉じた。
「え、寝るの?」
「お言葉に甘えてちょっとだけうとうとする」
「俺一応、告白したんですけど」
慌てたような声音が珍しくて、つい口元が緩む。
「そういうことは、またあとで話し合おう。おやすみ」
「はあ~?」
そんなに困った声でため息つかなくてもいいのに。なんだかんだいって彼の誘いを断ったことのない私はきっと、彼がちゃんと付き合おうと言ってくれたら、なんだかんだ言って付き合うんだからさ。
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