第8話
美術館から数百メートル歩いたところにある駅前で別れ、電車に乗って帰宅すると、未華子はトイレに入っていた。
無人のリビングに足を踏み入れてどきっとする。
なんだこれ。
普段、食事をしたりしているテーブルに、謎の物体が置かれていた。
ヘッドフォンの外側が人の耳の形になってている、用途が意味不明なスタンド。
びびりながら恐る恐る近づくと、背後から気配がした。慌てて振り向く。
「お帰りー」
「み、未華子……ただいま。なに、これ?」
「ああ、これ?」
未華子はすべるようにテーブルに近づくと、その物体を持ち上げた。
「バイノーラルマイク。これで、ASMRの録音ができまーす」
「えーえす、えむあーる……」
聞いたことがあるようなないような言葉に首を傾げる。
「囁いたり耳かきしたりする動画とかネットで流行ってるじゃん。知らない?」
「……それを未華子がやるの?」
「そ。リスナーさんたちからリクエストあったから。これ高かったんだよね。五万円くらいした」
「うわあ……」
私なら絶対に買わない。そのお金で美味しいものを食べたり、ゲームに課金したりしてしまう。だけど未華子は大事そうにそれを抱えて笑った。
「お姉ちゃん、怜雄くんと会ってたんでしょ? もう少し遅く帰ってくるかなと思ってたから、ここで録音しようと準備してたんだけど。私の部屋よりもここの方がなーんか音響いいんだよね」
「どうぞ自由にして。私は部屋に引っ込むから」
別に邪魔する気はない。好きにしてくれればいい。私が未華子に背を向けたタイミングで、思い出したように彼女は私に話しかけた。
「そういえば、結婚するらしいよ。祥真」
「え?」
振り向き、誰だっけ? とつい訊き返しそうになる。ワンテンポ遅れて高校時代の記憶がよみがえった。南祥真。同じクラスで人気者だった、あの。
「誰と?」
そんなことを尋ねてもしょうがないのに、私の口が無意識に動く。
「大学時代の同級生だって。私と別れたあとに付き合い始めた彼女さん」
「そうなんだ」
何と返事をするのが正解かわからないまま、私は部屋に戻った。真っ暗な部屋の電気をつけると、ノートパソコンやDVD、マンガとかが無造作に置かれているいつもの光景が目の前に広がっていた。
未華子が誰からその情報を得たのかは知らないけれど、とりあえず私には初耳の話だ。それくらい、南くんを含めた高校時代の同級生とは疎遠になっていた。
ていうかもう、南くんがどんな顔だったかも思い出せない。美少年だってクラスであんなに騒がれていたのに。
そして唐突に、未華子の寂しそうに下がった眉が頭の中に再び浮かぶ。結婚するらしいよ。そう言ったときの彼女の顔。
ふふっと小さく口から笑い声がもれる。
私はちょっとだけ気分が良くなっていた。
あの未華子だって選ばれないことがあるのだ。ざまあみろ。ざまあみろ。ざまあ……。
気分はあっという間に落ちていき、嫌悪感と吐き気が喉の奥に溜まる。
なんで、妹が寂しそうだったのにざまあみろなんて心の中で唱えているんだろう。
そんなに彼女のことが嫌いなのか、私は。彼女が私よりもみんなに愛されているから? それだけの理由で?
こんなひどい姉になりたいわけじゃない。
もう一度、声にならない笑いを吐き出す。
なんで私こんな、不健康な笑い方をしているんだろう。
次の日からの未華子は、普通だった。いつも通りだった。
土日は二人で溜まっていた家事をやっつけた。
月曜になると彼女は明るく出勤していって、帰ってきたらころころと笑いを交えつつ私に話しかけて晩ごはんを食べた。それからてきぱきと動画を作って投稿していた。
私もいつも通りだった。未華子が出勤したら簡単に家事をこなして自分も出勤。書類の処理を片付けたり電話対応をしたり、ホールの利用者がいればそれに立ち会ったり。未華子よりも早く帰ってきて晩ごはんを作って、未華子がその日あったことを話すのを、相槌を打ちながら静かに聞く。夜はちょっと夜更かししてオンラインゲームにログインする。
普通で、いつも通りだった。あの変な笑いと嫌悪感とは、しばらく無縁でいられそうだった。
楽しそうに仕事の話をする未華子も美味しそうに私が作ったごはんを食べる未華子も、堂々とカメラの前で視聴者に向かって話している未華子も、相も変わらずご機嫌で、何がそんなに楽しいのかと少しいらつくときもあったけれど、それだけだ。私がたまに現れて溢れそうになる、そのざらざらした気持ちを抑え込みさえすれば、何の問題もない仲良し姉妹でいられる。
それなり二人で上手く生活できている気がしていた。
金曜の夜中、今日はもう寝ようかなとゲームをログアウトした直後に、珍しくドアをノックする音が聞こえた。
ドアを開けると、未華子が緊張を滲ませた雰囲気で立っていた。
「どうしたの」
「お姉ちゃん、今忙しい?」
「ううん。もう寝るとこ」
「じゃあさ……」
未華子がいつになく甘えた様子で私の腕を軽く引いた。
「一緒に動画、出てくれない?」
「……は?」
ワンテンポ遅れて、低い声が出る。対照的に未華子はいつもよりも高めの声音であのね、と口を開く。
「メイク動画撮るからさ、お姉ちゃんがメイクされる役になってよ」
「なんで。やだよ」
突然何を言い出すのか。笑って断る。未華子もつられたように笑う。
「ほんとに。出てよ。姉妹で出たらいつもと違う感じの動画になって、投稿にもメリハリでると思うんだよね。私、一人でやってるから毎日同じような動画になっちゃうし」
「えー。怜雄くんとかに出てもらえばいいでしょ」
「怜雄くんはカメラたまに手伝ってくれる係だし、男子だからメイク用品の紹介とか多い私の動画に出演はさすがに誘いづらいし」
「でも、私が出てもね。ブスだし」
「そんなことないよ。お姉ちゃんはさ、ちゃんとお化粧したら美人になるよ。だからさー。」
「それ、本気で言ってんの?」
え、と未華子の口と目が丸くなる。
私の中で、何かが切れた。いつもの如く、未華子は別に悪くない。ひねくれた最悪な姉である私の中の、すり切れた何かが。
「化粧しなかったらブスだって言いたいの?」
「そ、そういうつもりじゃ……ごめん」
謝る声が聞こえたような気がしたけれど、耳を素通りしていく。
「美人がそんなに偉いの? 動画に出るのがそんなにいいことなの? 誰かもわかんない人からちやほやされるのが、そんなにいいの?」
自分が声高に話す声も、耳を素通りしていく。
「嫌い。未華子なんか大嫌い。上から目線だし、自分のほうが人生楽しんでますオーラ出してるし、未華子なんか、未華子なんか……」
「嫌いなの? 私のこと」
未華子の口から凛と放たれた声に、はっと我に返った。自分が口にした言葉が、自分で言ったような気がしなくて、今の数秒間はなんだったのか自分でもよくわからない。
黙っていると、未華子が私を睨んで、怒鳴るのを我慢するように低く囁いた。
「私はお姉ちゃんを尊敬してるし、人生楽しくしてるのは私自身だし。勝手に嫌な気持ちになってんの、そっちじゃん」
そう、知っている。未華子は悪くない。私がひねくれているだけ。
数秒間睨み合い、先に視線をそらしたのは未華子だった。
「ちょっと外出て頭冷やしてくる」
「……いいよ。私が出る。ここ、元々は未華子の家だから」
出ていくべきは私だ。ショルダーバッグに必要最低限の物を入れ、外出できそうなシャツとパンツに手早く着替えてから、私は無言で玄関に向かった。
靴を履き替えているあいだ、背中に刺すような視線を感じながら、重い体を動かして玄関のドアを押し開ける。そのまま後ろを見ないで、私は部屋を出ていった。
大嫌い。
絶対に未華子本人には言わないと決めていた言葉を言ってしまった。
さーて、どこ行くかな。もう終電の時間は過ぎてるから、実家は無理。
とりあえず、近場のカラオケでオールかな。
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