あの時のイナミ


 「───佳奈美ッ!!!」


 男の声が昼間の路地に響き渡る。


 少女はその声を聞きながらも、急劇に訪れた流れる様な景色とアスファルトの冷たさを感じながら、じりじりと痛む体で手を伸ばす。


 「ぱ……ぱ……、ま……ま……」


 いつもの様に呼んだつもりだった。だが、佳奈美はいつも通りに声が出ず、途切れ途切れになってしまう。


 そんな少女の声をかき消す様に、ブンッという低い音と共に排気ガスの匂いを残して遠ざかっていく音。


 気付けば何か聞こえる様な気がするが、何を言っているのかも分からず、ただ手に感じた温かさに繋ぎ止めていた意識を手放した。



 少女が次に目を覚ました時、視界に映ったのは真っ白な部屋。首だけで辺りを見渡して見るが、物一つ無く、少しの生活感すらない部屋だった。


 ここはどこだろう。そう思った佳奈美はゆっくりと体を起こして、首を傾げる。


 「あれ……? さっきまで痛かったような……? それに………パパとママは?」


 もう一度辺りを見渡す。


 だが、見えてくるのは何処まで続いているのかも分からない真っ白な部屋で、軽い混乱すら覚えた。


 佳奈美はその場を一歩踏み出そうとして、その足を止める。

 両親に溺愛されていた佳奈美はいつも「迷子になったらその場にいて」と言われていた。動かなければ必ず見つけてあげる、そう聞かされていたのを思い出したから。


 ぐっと歯を噛み締めた佳奈美は体躯座りになって前を向く。膝に顔を埋めたくなったのだが、それでは見つけてもらえないかもしれない。そんな疑問が佳奈美に前を向かせた。


 どれくらいそうしていたのだろうか。

 時計の読み方を覚えたばかりの佳奈美だが、身に着けていたはずの腕時計は無くなっていて、不安だけが頭の中を支配していく。


 (ぱぱ……まま……)


 何度目の呟きだろうか。

 前を向いていた目はだんだんと膝に向く。その都度、ぐっとこらえて前を向く………が、前を向いた先に見えるのは真っ白な世界。いつになっても、どれだけ耐えても、両親は一向に来てくれない。


 (…………嘘つき)


 気付けば、そんな事を思う様になっていた。


 それでもしばらくは耐えていた佳奈美だが、いつになっても姿を見せない両親は………自分を捨てたのだろうか。そんな疑問さえも頭に平然と浮かび上がってくるようになった頃、佳奈美はその場から走り出した。


 はぁ、はぁ、と。

 自分の息遣いだけしか聞こえない。それでも走るのを辞めなかった。


 走って、走って、走って。


 それでも景色は何も変わらない。ただただ真っ白なだけの空間だけがその場にある。


 そこまで走り続けて、唐突に足を止めた佳奈美。

 真っ白なだけの景色では走ったところで景色が流れる事も無く、部屋の形さえ分からないその部屋では、自分が上を向いているのか下を向いているのか。それさえも分からなくなっていた。


 分かるのは大きく揺れている肩と自分の息遣い。佳奈美が自覚できる最大限のものだ。


 「そんなに走って………どうかしたのか?」


 急に背後からかかった声に弾かれる様に振り向く佳奈美だったが、背後にいた人影を見るなり振り向きざまに尻餅をついた。


 佳奈美の視界に映ったのは宝石の様な深紅の瞳と漆黒の長い髪を持った女性。佳奈美が今までに見た女性の中でも見たことの無い様な綺麗な女性。それでも佳奈美が尻餅をついてしまったのは、目の前にいる女性の下半身が火傷の跡のように赤黒くただれていて、ところどころから黄緑色のどろりとした膿を垂れ流しているからだろう。


 「い、いやっ!」


 口に出たのは拒絶の声だった。

 ずっと一人で走り続けた挙句、出会ったのは気味の悪い女性では仕方が無いのかもしれない。


 そんな佳奈美の様子を見てか、目の前の女性は困ったような表情を浮かべて頬をポリポリと人差し指で掻いた。


 「あー……なぜか皆私を見るとそういう反応をするんだが……一体何がそんなに嫌なんだ?」


 目をまん丸にした佳奈美だったが、その次の瞬間にはクスッと笑みが零れる。どうにも表情だけ見れば美しい女性が顔を歪め、困っているのだと思ったらおかしくてしょうがなかった。


 佳奈美が笑ったのを見て深紅の瞳を優し気に細めた女性は、佳奈美の横まで歩を進めるとその場に腰を落とす。


 「ぬしは何という名前なんだ?」


 ぬし? と聞き慣れない言葉に首を傾けるも、佳奈美は口を開く。なんといっても久々の会話なのだ。相手から喋ってこなくてもこちらから喋りたくなるというものだ。


 「わたしはかなみっていうの。お姉さんは?」


 「私達は名前を持たんのだよ」


 「そうなの??」


 気付いた頃には佳奈美という名を授かっていた自分では目の前の女性が名を持たないのは不思議に思えてならなかった。


 そんな不思議で他愛もない会話をきっかけに二人は談笑を始めた。

 といっても、佳奈美は気付いたらこの真っ白な場所にいただとか両親が迎えに来てくれなかったことなど、どちらかと言えば愚痴に似た様な話ばかりで、目の前の女性は飽きもせずに相槌を打つという状態で、会話と言うには少し物足りないものだろう。


 久しぶりの会話に最初は嬉しそうに話し続けた佳奈美だが、言葉を重ねれば重ねるほど、その声は徐々に小さくなっていった。


 「………どうした? 少し元気がないな」


 「………だって、だって……。ぱぱとままはかなみのこと嫌いだったのかな……」


 「それは………私には分からんよ。私に人の考えは理解できないからな」


 そう言いながらも再び困ったような表情を浮かべた女性が佳奈美の頭をそっと撫でる。


 「私には出来るのはぬしのその辛さの元を取り除くことくらい……だな」


 「そんなことできるのっ!!?」


 目を見開きながらも体を前に乗り出してきた佳奈美に動揺が隠せない女性はこくっと頷き返す。


 「あ、あぁ。そういう事はできるぞ? してみるか?」


 「うんっ!」


 目をキラキラとさせる佳奈美に終始気圧された女性だったが、その女性が自身の爪で指の表面を切り裂くのを見て佳奈美の表情が曇る。


 「私の血を少しだけ分ける。そうするとぬしと私の繋がりが強くなるんだよ。そうしたらぬしの嫌な思い出を私が受け取ろう」


 「それじゃぁ……お姉さんが辛くなっちゃうよ……」


 もっと気軽なイメージでいた佳奈美は声をしぼませていくが、女性は微笑を浮かべた。


 「これだけ長く世を見ているとぬしほどの悩みでは私は辛くならんよ。そんな心配はいらないから気にするな」


 指を差し出してきた女性の顔と指に視線を行き来させた佳奈美は、一度目をぎゅっと結ぶとそのまま差し出された指をパクっと口に含む。


 咥えた指を離すと同時に渋い表情を浮かべた佳奈美に苦笑いを返した女性が、今度は佳奈美の頬を両手で包み込むと額と額を重ねる。


 「安心しろ、嫌な思い出は全て私が引き受ける。ぬしはのんびりと時を過ごせばいい」


 女性の言葉を聞いていた佳奈美は急激な眠気が襲ってくるのを感じた。


 「これは………。そうか、今度からぬしは佳奈美じゃなくてイナミと名乗ればよいだろう。それだけでもかなり変わるはずだよ」


 「……かなみ……じゃなくて……い…なみ?」


 「そうだ。───さぁ眠るがよい。起きた頃にはぬしを苦しめるものは全て消えている」


 その言葉を最後に、佳奈美は眠りに就いた。




 


 

 


 

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死神が幼女で俺が依り代 ~神子 編~ Rn-Dr @Diva2486

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