gap story あの時のあの人達
あの時の志執 郷
見渡す限り広大な海。静寂が支配しているその海に、ばしゃっ、ばしゃっ、とリズムのとれた音が響く。その音の発信源である場所には、深夜にも関わらず水泳選手も若干引いてしまうような際どい水着一枚という格好。
普段からどんな状況にも対応できるように水泳パンツを身に着けている彼は海に飛び込んだ直後に来ていた服を脱ぎ棄て、今の格好で進み続けている。
そんな異様な男は小さな波を立てながら、魚も真っ青な速度で沖へと向かっていた。
海を掻き分けていた音が止まると、その場で手と足を器用に動かして顔だけを出している強面の男───志執 郷がふぅーっと息を吐きだした。
「総士様なら大丈夫だとは思いますが………」
男が振り返った先は既に陸からは遠く離れ、さざ波が視界を塞いだり開けたりと繰り返すだけで何も見えないのだが、泳いでいる最中に聞いた大きな爆発音の様な音が気になったからだ。
視線の先に置いてきたのは人外の力さえ自由に自身の意志で引き出せる若者なのだ。自分が心配する事など無いとは思っているのだが、若さゆえの油断と慢心が無ければよいのだが……と考えてしまう。
「………それを言ったら私も……です……ね」
意識が残してきた若者から奪われた少女へと飛ぶ。
どこか捻くれて育ってしまった少女は思春期真っ只中で、最近はボーディーガードの自分をどうにか遠ざけようとしていた。彼女の事を思えばその願いを聞いてあげたいところではあるのだが、それは彼女が一般人と同じであれば、だ。
彼女の力は世界から見ても稀有な物で、平和を謳歌してもらうには多少のプライベートは我慢して頂きたいと常々お願いしていたのだが、彼女にとって窮屈以外の何物でもないのだろう。
それでも彼女のボディーガードに任命された時、上層部と交渉して可能な限りの自由を手にできた。それから大きな問題も無く過ごしてきた日々で信用を勝ち取り、神鬼と同じ学校であるならば、と条件付きではあるが学校への通学も許可されたばかりだと言うのに………。今回の郷の失態で鳥かごの様な生活に戻らなければいいのだが……と、願うばかりである。
「………今はそんな事を考えている場合ではないですね」
そんな心配も、彼女を無事に連れ戻せればの話だ。
何度目かの不安を飲み込み、郷はイルカもびっくりの速度で泳ぎ始める事にした。
しばらく泳ぎ続けた郷はやっと目的の貨物船を視界に納める事が出来た。
郷は嬉々として速度を上げる。
視界にさえ納めてしまえば少しばっかり溜まった乳酸の事など全く気にならず、追いついた郷はそのまま先回りしてやっと泳ぐのを止める。
「では私も始めますか。───待っていてください、神蔵様」
向ってくる貨物船。その大きさたるや、既に郷の視界を埋め尽くすまで接近していた。「そろそろですね」と呟き、水球などでよく見る飛びつきの要領で水を蹴飛ばす。
貨物船の半分くらいまで飛び上がった郷が空中で腰を捻り、迫って来る貨物船目掛けて拳を振るう。
ボコッ!
船体にめり込んだ拳を見るや、今度は反対の手で拳を握りしめ───。
ボコッ!
見事に両手を船体にめり込ませた郷は、まるでロッククライミングでもしているかのように船体をよじ登る。
甲板に辿り着く手前、郷はさっきまでの豪快なスピードは落とし、慎重に船内の様子を見る。郷がぶら下がている場所からでさえ、10人以上は居るのを確認できた郷は一旦考えるために覗いていた顔を下げる。
「問題は……やはり神蔵様の居場所……ですね」
郷は総士と違ってただの人間である。さらに言えば、人質に取られてしまえば動きようがなくなるのは何処の組織も一緒である。総士や空璃の様に刹那の間に動けるほどの速度は持ち合わせていないし、ゆらりと人の意識の隙間を歩くような歩法など会得していない。郷が持ち合わせているのは鍛え上げた肉体だけである。
再びボコッ、ボコッと船体に穴を空けながら横に移動し始めた郷。こちらは1人なのだからと情報収集を優先する為、ある程度移動したら船を覗き、再び移動するという事を繰り返した。
結果としては、船員達の数がやたらと多かった中心部に目を付けた。そこはコンテナが船倉から甲板まで積み重ねられた場所で、本来ならば出航前に積荷の確認をするくらいしか用の無い場所。それにも関わらず船員が多く待機し、中にはアサルトライフルからマシンピストルを手に持ったものが複数いるのも確認できた。
「この位であれば私一人でも………平気そうですね」
ざっと覗いた限りでは50人はいるだろうか。一人でその人数を拘束する事に対しては問題ないと呟く郷だが、別の事が頭をかすめる。
一体結蔵はどこの組織とどんな取引をしたのか……と。結蔵が所属している
そうなると、この大人数を神蔵一人の為に投入している以上、神蔵の力の全容や希少性、それら全てが漏洩している可能性を疑わなくてはいけない。だとすれば、神蔵の事を知ってしまった組織自体、或いは国自体をどうにかしなければ、神蔵を助けたところで今後の生活に支障をきたすのは間違いないだろう。
そこまで至って、その考えを振り払うかのように首を左右に振る。
それは空璃に報告する事であって、ただの人間である郷には手の届かない案件。そこまでの事は解決することは出来ないのだから。
改めて現状の危うさを認識した郷は船体を足で蹴り飛ばし、めり込ませていた拳を勢いに任せて抜き空へと舞い上がる。
その光景をみた船員達は、夜空を舞う鷹のように見えたかもしれない。だがそんな誤解も一瞬。ダンッと大きな音を立てて舞い降りたその鷹は、まるでゴリラの様な体躯に鬼の様な表情をひっさげた男。わずかに上がっている口角が得物を見定めている様にすら感じたことだろう。
「全員手を上にあげてくださいっ! 反抗する者に手加減は致しませんっ!」
毅然とした態度を持って大きく重低音を響かせる。深夜に水着一枚という訳の分からない格好で。何の為に隠れて情報を集めたのか、この際、気にしてはいけないのだろう。いや、それは自信のなせる行動なのかもしれない。
郷の体躯と表情、搭乗の仕方にたじろいでいた船員が次々に口を開いているが、郷にはそれが何を言っているのかまるで分からなかった。
「多国語は苦手ですね……」
実際に船員達が発した言葉は日本語と英語なのだが、両方の言葉が飛び交う中では判断がつかなかったのだ。飽く迄も、周りの声が聞こえていないだとか、ちょっと冷静さが足りない、などの疑問を感じてはいけない。これが志執 郷という男なのだ。
「会話が出来ない以上、そちらも空璃様に対応して頂くしかありませんね……」
郷はゆっくりと船員達に向かって歩き出す。
「それでは、先に落とし前を付けさせていただきます。文句がある奴から私の前に立ちなさい」
歩み始めた郷を前に、武器を所持している船員達がそれを構え、持っていない船員達はその場から一斉に散っていく。散っていった船員は間違いなく報告員だろう。
「あいつの足を止めろッ!!」
ごちゃごちゃと動く船員の誰かが叫んだ声が響き渡るのをきっかけにの無数のノズルフラッシュと硝煙が撒き散らされる。コンテナの上や陰、眼前からも迫って来る無数の弾丸達。だが、その無数の弾丸達は何にも当たることは無く、海へと撒き散らされたり床に当たったりするばかりだった。
悲鳴の一つも聞こえてこない事に違和感を覚えたのか、船員の一人が片手を上げて一斉射撃が止む。それを合図に辺りを支配していた硝煙が風に流されて郷のいた場所が露になっていくと、見えてきたのは大きな穴が開いた甲板。
近くにいた船員が穴へと駆け寄り、その穴を覗くと梁の上に乗っかっていた銅板が梁ごとひしゃげ、穴の先には深い闇が広がっているばかり。穴を覗いた船員が振り返り、郷を探す様に指示を出そうとした直後。
「────っ!?」
穴とは別に銅板を突き破ってきたごつい手に足首を掴まれ、その直後には新しい穴が一つ増える。
目の前で引きずり込まれた船員を見ていた者達は目を丸くしながらコンテナによじ登る者達で溢れる。それもそのはず。
「どうやったら厚さ30cmの銅板を素手で突き破れるんだっ!!?」
次々とそんな言葉が聞こえてくる。
この貨物船、見た目は普通の大型貨物船ではあるが、裏で動く事も考慮して造られている。有事の際にも動けるように重火器の保管もされているし、常設している設備自体も軍事用となっている。もちろん装甲部も戦艦とまではいかないが、通常の貨物船と比較すればありえない程に分厚い物を使用しているのだ。普通であれば壊せないそれをいともたやすく壊したのは際どい水着だけを履いた、ほぼ全裸のゴリラの様な男である。
彼らは今、未知の遭遇を果たしたような面持ちで警戒にあたっているのだ。
船員達はどこかに潜んだであろう人型の何かに怯えながらも、持ちうる神経を総動員し、銃口を甲板へと向けて息を潜める。
そんな船員達を弄ぶかの様に、今度はコンテナの下から大きな破壊音を伴って伸びてくる腕が、一人、また一人と、悲鳴を残して甲板の下へと消えていく。
最後まで残っていた男は何を考えたのだろうか。額からは雨の様な汗を流し、目尻には大粒の涙を貯めていると、ボガッと音と共に足首に強烈な痛みが走る。直後、視界が流れるのと全身の血が頭に集まるのを感じた。コンテナを突き破る痛みに目を閉じた船員だったが、最後の勇気を振り絞って閉じた目を開ける。
その視界に映ったのは、鬼の様な表情を張り付けたゴリラ。
そのゴリラが腕を振るう瞬間を視界に収めた直後、彼の意識は深い闇の底へと沈むことになった。
「……とりあえずこれで全員でしたかね」
貨物船に侵入する前に見つけたロープで人の塊を縛りながら呟くゴリラがいた。
ゴリラもとい、郷はモグラの様にコンテナと甲板を穴だらけにしながらも引きずり込むと鳩尾に一発入れては気絶させるという行為を繰り返し、現在は意識を失った船員達を一つのコンテナに集めて縛っている最中だ。ただし、最後に引きずりこんだ男を除いて。
目的は神蔵を連れ帰ること。せめてどこに幽閉しているのかだけでも聞き出さなくてはいけないのだから。
「失礼、起きて頂いてもいいですか?」
そう言って男の胸倉を掴みながらも頬をバチバチと叩く。すぐに気づいてくれた様で、「う”……ぅ………ん?」などと夢から覚めた男が視界に郷を納めると、目を見開きすぐに目尻に涙を浮かべた。
悲壮すら宿したその眼を見て、郷は可能な限りの笑みを浮かべて問う。
「この船に神蔵結蔵、もしくは神蔵芽愛様がご乗車しているはずです。どちらにいますか?」
「こここっ、この船は陽動だッ、そんな名前の奴なんて聞かされてすらいないっ」
想定外の言葉に目を見開きそうになってしまうが、ぐっとこらえて平静を保つ。一度は見失ったとはいえ、確かに結蔵はこれと同じ貨物船へと乗り込んだはずである。
「………それは本当ですか?」
「本当だッ、だからその顔を近づけるのは止めてくれッ!!!」
なんという失礼な物言いをする男だろう。脅迫や拷問で情報を引き出そうとしているでもなく、ただ笑顔で聞いただけだと言うのに。まぁ、黙秘を貫こうとするのであればこちらも考えなくてはいけなかったが………。
などと考えながらも、郷は男の言っていることが嘘ではないと感じていた。やたらと怯えた態度は別として、嘘をつく者が放つ特有の物が何一つ感じられなかった。まるで死を前に懺悔を始めた子羊に見えているのだ。後々ここにいる船員達全員を警察に引き渡す予定でいた郷に殺す気など毛頭ないのだが。
郷は男をの鳩尾に拳をめり込ませて意識を奪い、甲板へと這い出てくると船に乗っている人間全員をさっきの要領で次々に縛り上げ、船のエンジンを壊しておく。
「余計な時間を取られてしまいました。神蔵様は一体どちらへ……」
郷はコンテナ用のクレーンの頂上に立つと、神蔵の身を案じながらも鼻をスンスンと小刻みに動かす。
「………あちら………でしょうか?」
なんとなく、勘に近い何かで感じ取った郷はクレーンの頂上から海へとダイブし、カジキよりも速い速度で穴だらけの貨物船を後にするのだった。
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