第24話 牢獄の中の京子

 リビングに置かれているソファに腰を下ろす。そしてそのまま、背もたれに深く身を預けた。


 記念式典があったあの日から、一週間が経過した。今日は火曜日。普段なら授業がある。だが今日は、臨時休校となっていた。


 あの日の出来事は、大多数の生徒にショックを与えた。学校に登校できなくなった子。何とか登校はできるが、フラッシュバックに襲われる子。皆が様々な形で、苦しみを抱えることになってしまった。


 そして強く影響を受けたのは、生徒だけではなかった。先生達もそうだ。その中の一人が、教頭先生だ。


 影山京子に撃たれた教頭先生は、その後病院に運ばれ、一命を取り留めた。だが運悪く、下半身に麻痺が残ってしまったのだ。車椅子生活を余儀なくされ、教頭先生は離任された。


 それからもう一人、辞められた先生がいる。校長先生だ。記念式典翌日に、集会が行われた。その際校長先生は、皆の前で謝罪。責任を重く受け止めた表情を浮かべ、その場で退職を表明した。


 このように、影山京子の残した爪痕は、想像以上に深いものだった。そのせいで、皆が消えることのない傷を抱えてしまったのだ。強烈な出来事として、今後も頭から離れることはないだろう。


 ふと体を起こし、目の前の机を見る。机の上には、一冊の週刊誌が置かれていた。僕はその週刊誌の表紙を見た。


 真っ先に飛び込んできたのは、“クラス小戦争”という文字だった。きっと僕たち新川高校のことに違いない。僕は本を開けて、そのページを探した。


 ページは最後の方にあった。見開きいっぱいに、記事が載っている。左下には、影山京子の白黒写真も写っていた。


 右上に、クラス小戦争の由来が書かれている。僕はその文章に、ゆっくりと目を通していった。


 クラスを発端にして起きた様々な事件。それはまるで、戦争のように悲劇しか生んでいない。嫉妬や欲望が入り乱れ、非常に醜いことから、戦争の前に“小”を付けた。大体このようなことが書かれていた。


 僕たちが経験した一連の出来事は、今後“クラス小戦争”として世間に浸透していくようだ。名称が付くほど、社会全体に強いインパクトを与えたことが分かった。


「広樹」


「母さん」


 するとその時、リビングに母さんと時さんが入ってきた。母さんが外出着の格好をしている。僕は静かに週刊誌を机の上に置いた。


「どっか行くん?」


「広樹。母さん今から、影山京子のいる留置場に行ってくるわ。時さんと留守番しよって」


 母さんが真剣な表情で僕に言った。後ろにいる時さんが、心配そうに母さんを見ている。


「分かった。行ってらっしゃい」


 僕が返事をすると、母さんは時さんの方を見た。


「じゃあ。時さんよろしくね」


「任せてください。では玄関までお見送りします」


 母さんがリビングを出ていく。その後に続くように、時さんも出ていった。


 部屋に一人残された途端、僕も影山京子のいる留置場に行きたくなった。あの女は、今頃どのような様子で過ごしているのだろうか? 無性に気になって仕方がない。


 ソファから立ち上がり、リビングを出る。玄関には、まだ時さんと母さんがいた。


「あらコウ君どうしたの?」


 時さんが少し驚いたような顔で僕に聞いてきた。


「僕も影山京子のいる留置場に行きたい」


 僕は若干早口で、時さんと母さんに言った。二人が心配そうな表情を浮かべる。


「広樹。今回は母さん一人で行ってくるわ。この前の出来事、結構辛かったやろ?」


「いや、もう大丈夫。それより影山京子が、あれからどんな様子でおるんか見てみたい。やけん連れていって」


 どうしても気になって仕方がない。僕は母さんが承諾してくれることを祈りながら言った。


 時さんが心配そうに母さんを見ている。すると母さんは、少し考えるような表情を浮かべ、軽く頷いた。


「分かったわ。準備してきて」


「ありがとう母さん! 大丈夫。もうそのまま行けるよ」


「そう。それじゃあ早速行きましょ」


 母さんが玄関の扉を開ける。その様子を見た僕は、慌てて自分の靴を履いた。


「じゃあ時さん。お留守番よろしくね」


「吉美さん行ってらっしゃい。コウ君も気をつけてね」


「分かった。行ってきます」


 僕は時さんに軽く手を振った。母さんが、ゆっくりと玄関の扉を閉める。そしてバッグから鍵を取り出し、そのまま扉を施錠した。


「じゃあ。車で行くわよ」


「うん」


 歩き始めると、爽やかな風が僕の肌を撫でた。影山京子は、一体どのような様子で留置場にいるのだろうか? 好奇心を抱えた状態で、僕は母さんとカーポートの方へ向かった。


        *


 留置場に到着したのは、二時過ぎだった。大きく開放されている正門をくぐる。すると目の前に、大きな建物が見えた。きっとこの建物の中に、影山京子はいるのだろう。


 留置場と聞いて、僕はずっと刑務所のような場所を想像していた。だが目の前の建物は、普通の警察署だ。その時になって初めて、留置場は警察署の中にあることが分かった。


 正面玄関の自動ドアが、大きな音を立てて開く。僕の前を歩く母さんは、迷わず中に入っていった。そしてそのまま、入り口付近にある窓口へ向かった。


「面会に来ました」


「留置管理課へご案内します」


 受付にいる女性が、事務的に言って立ち上がる。そして僕たちを、留置管理課という場所へ連れていってくれた。


「面会希望者が来られました」


 受付の女性が言うと、男性のうちの一人がこちらを見た。受付の女性が、お辞儀をして元の場所へ帰っていく。


「こちらに必要事項の記入をお願いします」


「ありがとうございます」


 母さんが、男性から数枚の紙とペンを受け取った。紙の一番上には、“被留置者面会簿”と大きく書かれている。


 母さんがその紙に、必要事項の記入をし始めた。これを書いて申請すれば、いよいよ面会ができるようだ。僕は高まる気分を覚えながら、その様子を隣で見た。


        *


 一通り手続きを終えた僕たちは、案内人に面会室へと通された。母さんの後に続くように、僕も中へ入る。


「では、こちらでしばらくお待ちください」


「分かりました。ありがとうございます」


 母さんが返事をすると、扉が閉められた。案内人のハイヒールの音が、段々と遠ざかっていくのが聞こえる。


「母さんは奥の椅子に座るわ」


「分かった」


 中にはパイプ椅子が二つ置かれていた。前方はアクリル板で仕切られている。そしてアクリル板の真ん中は、声が聞こえるように複数の小さな穴が開いていた。テレビドラマでよく見る光景だ。


 ゆっくりと椅子に座り、今度は右上を見た。右上には小さな窓がある。だがあまり日が入ってこないため、室内は湿っぽく陰気だ。


 するとその時、廊下から足音が聞こえてきた。段々とこちらに近づいてくる。遂に影山京子が来たのだろうか?


 足音が近くで止まった。そしてアクリル板の向こう側の扉がノックされる。その直後扉が開き、看守らしき男性が一人入ってきた。その後に続くように、影山京子も入室してくる。


 影山京子を見るのは一週間ぶりだ。お団子頭がいつもより雑になっている。そして表情からは、疲労困憊ひろうこんぱいしていることが窺えた。


 影山京子が無言で椅子に腰を下ろす。そして僕たちの方に、ゆっくりと視線を向けてきた。


「それでは、只今二時十五分です。十二分間の面会とします。二時二十七分になったらお声かけしますので、始めてください」


 影山京子が、僕たちに鋭い視線を向ける。そしてゆっくりと口を開いた。


「何よ。親子揃って、私の醜い姿を見物しに来たの?」


「ええ。そうよ。貴方の酷い姿を見に来たんよ」


 母さんが強い口調で迷うことなく答える。驚いた僕は、母さんの方を見た。


「フ、フフフ……」


 影山京子の鋭い視線が、気味の悪い笑みに変わる。だが以前のような精気は全くない。全てに失望し、力尽きているかのようだ。


 影山京子が、自分の口元を左手で覆う。手には包帯が巻かれていた。間違いなくこの前の傷だ。


「何がおかしいの?」


 母さんが、鋭い視線を向けながら影山京子に聞く。影山京子が真顔になり、母さんの方を見た。


「私ね、可笑しくもないのに笑みがこぼれることがあるの。幼い頃からろくな人生を歩んでこなかったから、その防衛反応なのかもしれないわ」


「そう。やったら何故、息子にだけは人生を歩ませてあげんかったん? 結局息子も、貴方と同じように育ち、貴方と同じようなことをしてしまったやない!」


 母さんが、やや大きめの声で影山京子に言った。影山京子が下を向く。そしてどことなく悲しげな表情を浮かべた。後悔の念に駆られているのだろうか?


「仕方なかったのよ。全ては学園祭前からだった。あの日信夫ちゃんは、学園祭の企画長になれなかったことを悔やんでいた。いつもならそこまで執着しないのに、その時はすごい未練を抱えていたわ。だから私、他に理由があるのだとすぐに分かった。その理由は、好きな子と一緒に活動できなかったから。母親の勘ね。すぐに分かったわ。だから私、信夫ちゃんに聞いたの。副企画長は誰かって。そしたら『陽菜ちゃん』って答えた。やっぱりそうかと思ったわ。でもその時は、数日経てば立ち直ると思っていた。でも信夫ちゃんは、その後も立ち直ることはなく、取り乱したままだった。だから私、信夫ちゃんがを起こさないかとても不安だったの」


「それで息子が実際にを起こして、貴方はそれを隠滅するために事故を起こした。更に長宮さんと警察の目を盗んで、一週間もの美由紀さんを監禁した。そういうことね。それにしても貴方、自分が犯してきた悪事を息子のせいであるかのように言いよるわね? それでも母親なの?」


 影山京子の表情が曇る。そして過去を振り返るかのように、じっと右側に視線を向けた。


「私は別に、信夫ちゃんのせいにはしていないわ。ただ、仕方がなかったのよ」


 僕の隣にいる母さんが、言葉を失い呆然とする。薄暗く陰気な部屋に、沈黙が流れた。


 あれだけのことをしておいて、影山京子は「仕方なかった」で済ませている。僕はそんな無責任な態度に、内心怒りを覚えた。


「――仕方なかった。私、この言葉を何回使ってきたかしら? 本当、今までの人生ろくでもなかったわ」


 影山京子が、精気のない顔をゆっくりと上げる。そして僕の方をじっと見てきた。


「私の過去、どんな感じだったか知りたい?」


 影山京子が、うっすらと笑みを浮かべながら僕に聞いてくる。気味が悪い。僕は咄嗟に視線をそらし、完全に無視した。


「私は元々、東京の人間なの。初めて松山に来たのは、四歳の時だったわ。これから新しい生活が始まる。父さんと母さんに連れられた私は、純粋にワクワクした気持ちでいた。でも現実は全く違ったわ。松山に来てからしばらくして、父さんは多額の借金を抱え込んでしまった。とても返しきれる量ではなかったわ。そのせいで、所有していた別子村の別荘を手放し、私は施設に預けられた。それから先、父さんと母さんがどうなったのかは分からない。預けられて以来、一度も会ってないからね」


 影山京子が目に涙をためる。想像以上に暗く、重たい。こんな闇深い過去を背負っていたとは、微塵みじんも知らなかった。


「それから大人になり、私は施設を出た。施設を出てからは、飲み屋街で働いたわ。当然私は下っ端だった。楽しそうに仕事する人たちを横目に、毎日身を粉にして働いた。そしてその時、私は思ったのよ。人を蹴落としてでも這い上がらないと、ずっとこのままだって。それから私の性格は、どんどん汚いものになっていった。だから今も、この性分はこびりついたままなのよ」


「貴方の過去が、大変やったのはよく分かったわ。でもやけんって、周りの人まで傷つけていい理由にはならない。もっと違う生き方もできとったはずよ。自分が苦労したけん、それを活かして人のために動こうとは思わんかったの? 結局貴方は、自分のことしか見えてないように感じるわ」


 母さんが言い終えると、影山京子は目をひきつらせた。母さんの言葉が、相当気に入らなかった様子だ。


「貴方たちは良いわね。家族はいるし、生きていくために必要なものも十分に備わっている。人のために動く? そんなこと余裕のある人間が考えるのよ。私は明日きることさえも大変だった。まあ貴方たちに言っても分からないか。話した私が馬鹿だったわ」


 貴方たちに言っても分からない。皮肉を込めて言い放った影山京子の言葉に、僕は再び怒りを覚えた。


 僕たちはこの女のせいで苦しんだ。それにもかかわらず、全く反省している様子はない。むしろ犯した罪の数々は、過去の自分のせいだと言っている。僕は黙っていることができなくなった。


「影山京子。ふざけたことばかり言うなよ。あんたのせいで、僕たちも沢山のものを失った。少しは悪いと思わんのか? 反省する気持ちは一切ないんか!?」


「――反省ね。反省する気持ちね」


 影山京子が、少し間を空けて返答した。そして、遠くを見つめるような表情を浮かべる。自分の今までの行いを振り返っているのだろうか? そんな影山京子を、僕はじっと見つめた。


 暗く陰気な部屋に、沈黙が流れる。聞こえてくるのは、看守の記録を取る音だけだ。


 するとその時、影山京子の顔が歪んだ。そして目から、一粒の涙が零れた。今まで抑圧してきた感情が、溢れ出たかのような涙だ。


「結局貴方の行ってきたことは、全て自分を苦しめる結果に終わってしまった。それだけやない。あれだけ可愛がっていた息子まで破滅させてしまった。そうなってしまった今、残っとるものは何かあるかしら?」


 母さんが諭すように影山京子に言った。影山京子が顔を両手で覆う。そして嗚咽を漏らし始めた。


「ウ、ウウッ……」


 暗く、静かな部屋に嗚咽が響き渡る。僕と母さんは、そんな影山京子をじっと見続けた。


 因果応報なのは分かっている。だが、とても哀れだ。僕の方まで影響されて、涙が出そうになった。


 影山京子が、肩を震わせながら両手で目元を拭く。左手の包帯に、涙が染み込んでいくのが見えた。

 

「――もう、意地を張る気力もないわ。今更許されたいとは思わないけど、謝らせて。ごめんなさい。一方的に私と信夫ちゃんで、貴方たちを攻撃してしまった。そして貴方の言う通り、残ったものは何も無かった。素直に認めるわ」


 影山京子が、ゆっくりと頭を下げる。僕の目から一筋の涙が零れた。


 僕が聞きたかったのは、この言葉だったのかもしれない。これだけのことをされて、謝罪の言葉が一つもないことに納得がいかなかったのかもしれなかった。


「心の底から悪いと思ったんなら、これだけは約束して。どんな罰が下っても、最後まで生きて罪を償って。いいわね? 逃げるだなんて卑怯なことをしたら、絶対に許さんけん」


「ウ、ウウッ……」


 母さんの言葉に、影山京子が再び涙を流す。両手で顔を覆い、先ほどのように嗚咽し始めた。


 母さんの方を見た。母さんも目に薄っすらと涙を浮かべている。きっと、僕と同じ思いだったのだろう。僕はその時く確信した。


「それでは、二時二十七分となりました。これ以上の会話は控えてください」


 あっという間に面会時間が終了した。僕たちのいる側の扉が開く。そして先ほどの案内人が、手を前に組んで出入口に立った。


「それでは、本日の面会は終了とします。ありがとうございました」


 看守の言葉に、僕と母さんは頭を下げた。そして立ち上がり、部屋を出ようとしたその時だった。


「二人とも」


 影山京子が声を掛けてきた。目にはまだ涙を浮かべている。僕と母さんは、そんな影山京子の方を見た。


「今日は来てくれてありがとう」


「――行くわよ。広樹」


 母さんが、影山京子の言葉を無視し、先に部屋を出ていった。僕も母さんに続いて退出する。


 廊下に出てから、もう一度アクリル板の向こう側を見た。影山京子は、まだ僕の方を見ていた。


 裁判が終わり、刑務所に入ることになれば、もう二度と会うことはないだろう。だが僕たちの人生を狂わし、大切なものも奪っていった。一生涯忘れることはなさそうだった。


「広樹」


 前を向くと、案内人と母さんが僕を待ってくれていた。二人の方へ、ゆっくりと歩いていく。


 廊下の窓から、昼下がりの太陽が差し込んでいる。眩しさの余り、僕は思わず目を細めた。その光景は、この陰気な警察署に決して似合うものではなかった。

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