第23話 涙の反撃

 何て天気の良い朝なのだろう。雲ひとつない快晴だ。そんな空の様子を見ながら、僕は体育館へと急いでいた。


 今日で真実が明らかになる。そして影山親子が破滅する。それなのに何故か、実感を持つことができないままだ。


「小林君。おはよう」


「あ、長宮さん。おはようございます」


 校舎と体育館の間にある広場で、長宮さんに会った。後ろには千代さんもいる。


「小林君。陽菜ちゃんが今、お母さんと体育館へ向かったわ」


「そうなのですね。僕も今、向かっているところです」


「なるほど。それにしても、いよいよね」


 長宮さんの顔が一気に真剣になる。その様子を見て、僕はやっと実感を持つことができた。


「そうですね。いよいよです。協力してくれた池野さんには、とても感謝しています。そして長宮さんと千代さんも、今日は朝早くからありがとうございます」


 僕が頭を下げると、長宮さんが微笑んだ。長宮さんの後ろの千代さんも、優しい笑みを浮かべている。


「いえいえ。大事な時だもの。力になれて嬉しいわ」


 長宮さんが明るい声で言った。二人とも本当に優しい。僕は心の底から感謝した。


 するとその時、僕が歩いてきた方角から足音が聞こえた。その方角に目を向ける。

 

 足音の主は信夫だった。何も知らない様子で、体育館へと向かっている。


 長宮さんも信夫を見た。そして千代さんも、少し驚いたような表情を信夫に向けている。


「長宮さん。そろそろ僕も体育館へ行きます」


「分かったわ。じゃあ私たちは車で待ちよるけん、気をつけてね」


「はい。ありがとうございます。では行ってきます」


「いってらっしゃい」


 長宮さんに軽く頭を下げる。そして僕は、若干速足で体育館の方へ歩いていった。


 少し歩いたところで、ふと後ろを振り返った。すると長宮さん、そして千代さんと目が合った。どうやら僕が、途中にある学園食堂を曲がるまで、二人は見送ってくれているみたいだ。


 二人が手を振ってくる。そのため僕も、大きく手を振り返した。


 千代さんが優しい笑みを浮かべている。一方でその前にいる長宮さんは、どことなく心配そうな表情を浮かべていた。


        *


 学園食堂を曲がると、体育館が見えてきた。僕の前では、信夫が若干速足で正面玄関の方へ向かっている。本当に何も知らないのだと思った。


 するとその時、突如スーツ姿の男性二人が右横から現れた。僕はその人たちが誰なのか、すぐに分かった。警察だ。遂に信夫を連れにきたようだ。


 男性二人は、信夫の行く道をあっという間に塞いだ。道を塞がれた信夫が、慌てて後ろにのけぞる。


「影山信夫さんですね? 警察です」

 

 男性二人が、信夫に警察手帳を突きつけた。固まっていた信夫が、突如右の方角へ逃げ出す。


「待ちなさい」


 逃げる信夫を、男性二人が追いかける。僕は自分の事でもないのに、激しい緊張感に襲われた。


 信夫が息を切らし始めた。このままでは直ぐに捕まるだろう。そう思った矢先、男性のうちの一人が信夫の腕を掴んだ。


「放せ!」


 身動きが取れなくなった信夫。必死で抵抗しているが、男性二人はビクともしていない。


「母さん助けて! 母さん!」


 次に信夫は、暴れながら体育館に向かって叫んだ。母親である影山京子を、必死で呼んでいる。


 だが体育館の壁は分厚い。そのため叫び声も聞こえてこないのだろう。中から人が出てくる気配はなかった。


「小林!」


 するとその時、信夫と目が合ってしまった。信夫が力を振り絞り、男性二人の腕を振り払う。そしてそのまま、泣きそうな顔でこちらに走ってきた。


 走ってきた信夫が、ふらつきながら僕の目の前で立ち止まる。そしてゆっくりと、地面に膝をつき始めた。


「信夫。何をするんや!」


「小林。頼む。助けてくれ。お前は優しい。僕はそのことを十分に知っとる。今までのことは謝るけん、どうか助けてくれ」


 信夫が土下座をし、涙声で言った。どこまでも都合が良すぎる。そして図々しい。僕は腹の底から怒りを感じた。それなのに何故か、涙が止まらない。


「——分かった。助けてやるよ。その代わり、今から僕が言うことをしろ」


 信夫が顔を上げる。まるで天から、蜘蛛の糸が降りてきたかのような顔だ。


 僕は信夫をジッと見つめた。僕の発する言葉を、今か今かと待ちわびている。


「将太をここに連れてこい。それから日光屋を元に戻せ。まだまだ沢山あるぞ。お前たちがするべきことは」


 静かに放った僕の言葉に、信夫が青ざめていく。僕は涙ぐみながらも、信夫に鋭い視線を向けた。


「さっきの必死さやったら、できるやろう? なあ。できんのか?」


「すまん。本当に悪かった。やけん、やけん……」


 僕たちのやり取りを黙って見ていた男性二人が、信夫の方へ近づいてきた。


「さあ行くぞ」


「小林!」


 男性二人が、信夫を無理やり立たせた。信夫が先ほどのように必死で抵抗し、泣き叫んでいる。哀れだ。本当に哀れだ。僕は心底そう思った。


「じゃあな信夫。お前のことは忘れんけんな」


「小林! 小林!」


 最後の言葉をかけると、男性二人が信夫を連行していった。連行される信夫が、必死でながら僕の方を見てくる。何かを言おうとしているのが分かった。だが僕は、その言葉を聞き取ることはできなかった。


 離れていくに連れて、信夫の叫び声が段々と小さくなっていく。僕は一人取り残された通路で、声を抑えて泣いた。


 信夫のことは一生忘れないだろう。特に今日のことは、記憶として死ぬまで残りそうだ。そう思うと余計に、涙が溢れて止まらなかった。


        *


 靴袋から上靴を取り出し、静かにそれを履いた。体育館の中を見ると、既に何人かの生徒が来ている。皆は中で楽しそうにおしゃべりをしていた。これから起きることなど、何も知らない様子だ。


 次は影山京子の番だ。僕は靴袋に下靴を入れながら、深呼吸をした。


 深呼吸をした後、靴袋のチャックを閉めた。それを片手に持ち、体育館の中へ入る。


 中に入ると、左後ろに陽菜ちゃんのお母さんの姿が見えた。パイプ椅子に座り、不安そうな表情を舞台裏に向けている。僕は陽菜ちゃんのお母さんの方へ近づいていった。


「おはようございます」


「あら小林君。おはよう」


 僕が会釈すると、陽菜ちゃんのお母さんも軽く頭を下げた。そしてそのまま、舞台裏の方を指さした。


「陽菜が今、舞台裏の所に行ったわ」


 舞台裏の壁に、ガラス張りの小窓がついている。だがカーテンが閉まっていて、中の様子を見ることができない。


「そうなのですね。僕、ちょっと様子を見てきます」


「ありがとう。藤崎さんも中におるはずよ。放送機材のセッティングをしよると思うわ」


「分かりました。あ、それと池野さんのお母さん、今日は朝早くからありがとうございます」


 僕は先ほど長宮さんに言ったように、陽菜ちゃんのお母さんにもお礼を言った。陽菜ちゃんのお母さんが、穏やかな笑みを浮かべる。


「いえいえ。私もずっと、真実が明らかになるのを待っとったんよ。今日という日を迎えられて良かったわ」


「そうですね。本当に良かったです」


 するとその時、スピーカーからマイクの電源の入った音が聞こえた。きっとおじさんか陽菜ちゃんのどちらかが、マイクテストをしているのだろう。


「あ、ちょっと見てきます。では失礼します」


「分かったわ。よろしくね」


 僕は陽菜ちゃんのお母さんにお辞儀をした。そしてそのまま、舞台裏の扉の方へ向かった。


        *


 舞台裏の扉を開けると、数段の階段が見えた。それを急ぎ足で登る。


「小林君」


 階段を上っていると、右横からおじさんの声がした。


「おじさん。池野さん」


 おじさんの隣には、陽菜ちゃんの姿もあった。手にはマイクを持っている。どうやら先ほどのマイクテストは、陽菜ちゃんが行っていたようだ。


「小林君。準備は整ったよ」


「本当ですか?」


「ああ。映像もマイクもバッチリや。あとは時間がくるのを待つだけ」


 おじさんの顔が少しだけ強張った。きっと緊張しているのだろう。おじさんを含め、みんなが今日という日を、首を長くして待っていたようだ。


「おじさん、池野さん。今日はありがとうございます」


「小林君。私、今日という日をずっと待っていたわ。だから頑張る」


「おじさんも頑張るよ。真実をみんなに知ってもらいたいけんな」


 陽菜ちゃんとおじさんが微笑んだ。まるで戦いに行く前の戦士のようだ。そんな二人の様子を見て、僕も自然と明るい笑みがこぼれた。


「はい。きっと、いや絶対みんなに伝わります。なので頑張ってください」


 僕が言うと、おじさんと陽菜ちゃんは更に笑顔になった。きっと大丈夫だ。真実は必ず皆に伝わる。自分の中で、強い確信が持てた瞬間だった。


        *


 舞台裏を降りて、自分の席に座った。式典の始まりまで十分を切っている。そのため先生は、ほぼ全員揃っていた。生徒も徐々に集まり、お喋りの声が段々と大きくなり始めている。


 そんな様子を横目に、僕はステージの方を見た。ステージは幕が閉まっているため、中を見ることができない。


 吉崎先生から聞いた話によると、あの幕の向こう側に来賓の席があるのだそうだ。席はスクリーンの右横にある。そしてそこには、PTA会長が座るところも用意されている。


 そうなると影山京子も中にいるはずだ。影山京子はもう着席しているのだろうか? ステージに入るには、舞台裏の扉を通るしか方法がない。体育館に来てから一度も姿を見ていないため、もうとっくにスタンバイしているのかと思った。


「小林」


 するとその時、不意に誰かが僕の名前を呼んだ。我に帰り、後ろを振り返る。


「真柴君」


 そこには真柴君の姿があった。真柴君はいつも朝早い。それなのに今日はギリギリだ。一体どうしたのだろうか?


「真柴君。今日は遅いね。どしたん?」


「あー。何か昨日は緊張してな。あんまり寝れんかったんよ」


 真柴君が、僕の後ろの席に座りながら大欠伸おおあくびをした。いつもより眠れなかったことが、よく伝わってくる。


「そうなんや。僕は逆に緊張しすぎて、早朝に目が覚めたんよ」


「そうか。やっぱり緊張するよな。そう言えば池野さんは来とんか?」


 真柴君が途中声を潜めた。そのため僕も、周りを気にしながら声を小さめにした。


「うん。舞台裏のところにおるよ」


「そうか。いよいよやな」


「うん」


 するとその時、校長先生がマイクの電源を入れた。校長先生は、僕から見て左横、つまり舞台裏の扉の前に立っている。いよいよ式が始まるみたいだ。


「間もなく式を始めます。皆さん前を向いてください」


 校長先生がマイク越しに言った。周りが一気に静まり返る。皆お喋りをやめて、前を向き始めた。


「只今より式を始めます。開式の言葉」


 校長先生が後ろに下がり、教頭先生がマイクの前に立つ。教頭先生は一礼した後、マイクに口を近づけた。


「只今より、新川高等学校、創立六十周年記念式典を開催します」


 教頭先生が再び一礼して、後ろに下がる。そしてまた、校長先生がマイクの前に立った。


 するとその時、天井の照明が一気に消えた。そしてステージの幕が開き始める。幕が開くのと同時に、スクリーンもゆっくりと降り始めた。


 スクリーンの右横を見る。来賓の席に影山京子の姿があった。影山京子は三つある席のうち、真ん中に腰を下ろしている。化粧がいつもより分厚く、ポニーテールの髪形をしていた。


 それに加えて表情が堂々としている。信夫が捕まったことなど、何も知らない様子だ。


「それでは、式を始める前に、ある方から皆さんへ大切なお話があります。スクリーンに注目してください」


 周りがざわざわし始めた。皆いつも通り、式が始まると思っていたのだろう。


 影山京子の方を見た。影山京子は少しだけ目を見開き、手元の画面を見ている。来賓の人はスクリーンが見えにくいため、別に映像機器が用意されたようだ。


 するとその時、真っ暗だったスクリーンに、男子生徒の写真が映し出された。将太だ。驚きの余り、僕は思わず息を飲んだ。


「元二年一組、藤崎将太の父親である藤崎正です。この場をお借りして、今日は皆さんにお伝えしたいことがあります」


 おじさんが落ち着いた声で話し始めた。周りが先ほどよりも騒がしくなる。


 将太が亡くなったことを知らない人は、誰一人いない。半年たった今になって、皆何事かと驚いているようだ。


 影山京子の方を見た。暗いながらも、表情が曇っているのが見える。そんな影山京子を、僕は睨みつけた。まだまだこれからだ。あの女が地獄を見ることになるのは。


「まずはこちらの動画をご覧ください」


 画面が切り替わった。そしてスクリーンに、事故の動画が流れ始める。


 何事もない河川敷の風景だ。皆黙ってスクリーンに釘付けになっている。この映像を一度見ている僕は、手足が小刻みに震え始めた。


 二十秒経った頃、映像の下側から当時の将太と陽菜ちゃんが出てきた。皆が一気に騒がしくなる。


 そしてこの前見たのと同じように、右横から白い車も出てきた。轢くタイミングを狙い、二人へゆっくりと近づいていく。その光景は本当に、獲物を狙う蛇そのものだった。


 周りの騒がしさがピークに達する。すると動画が終了し、再び将太の顔写真が映し出された。


「先ほど見てもらったのは、学園祭当日に起きた事故の動画です。動画の白い車はあの直後、私の息子である将太と、当時隣にいた池野陽菜さんを意図的に轢きました。その影響で、池野さんは大怪我を負い、将太は命を落としました。悪意のあったことがよく伝わってきます」


 おじさんの一生懸命な言葉に、僕は目から涙が溢れてきた。少し後ろを振り返ると、真柴君も僅かに目元を腫らしている。


「そしてこの事故の犯人は、ここにいます。今来賓の席に座っている貴方ですよ。影山京子さん」


 生徒たちが再び騒がしくなる。中には、影山京子に冷たい視線を向ける子もいた。


 影山京子が慌てて立ち上がった。そして右端へ寄せられていた演台から、マイクを取り上げる。


「ご、誤解ですよ! 何故この車だけで、私が犯人だなんて決めつけるのですか? 証拠はどこにあるのですか!?」


「影山京子さん。落ち着いてください。PTA会長として、皆さんの前で取り乱して恥ずかしくないのですか?」


 おじさんがマイク越しに、落ち着いた声で影山京子に言った。影山京子が顔をしかめ、悔しそうに肩で息をしている。 


「あなたが犯人であることは、もう既に分かっています。皆さんこれが、この学校で起きた紛れもない事実なのですよ!」


「違う。違う! なことを言わないで! 私はそんなの知らないわ。皆さん本当です。本当ですよ! あの人が嘘を言ってるのですよ!!」


 影山京子がマイク越しに大声で叫ぶ。僕は思わず下を向いた。周りの子たちも、耳を塞いで不快そうな表情を浮かべている。


「では次に、二つ目の動画を見ていただきます」


 おじさんが無視して続けた。影山京子が、放心状態になりその場に座り込む。


「元二年一組の池野陽菜です。今から皆さんに見ていただく動画も、学園祭当日のものになります。ご覧ください」


 次はスープ事件の動画だ。僕は高まる興奮を抑えながら、スクリーンの方を見た。


 スクリーンに当時の動画が映し出された。映し出されたのと同時に、音声も流れ始める。


「何なの。これ」


 当時の陽菜ちゃんの声が聞こえてきた。画面いっぱいに、異物を入れる信夫の姿が映し出される。


「信夫ちゃん!」


 影山京子が、座り込んだまま大声で叫んだ。そしてそのまま、突っ伏すようにして泣き始める。


「何かをスープの中に入れよる」


「待って。証拠を残しとくためにも、一部始終をカメラに写してからにしましょう」


「藤崎!?」


「藤崎!」


 その時、画面に少しだけ将太が映った。何人かの同級生が、将太の苗字を叫ぶ。中には涙を浮かべている子もいた。


 その子たちの様子を見た僕も、更に涙が溢れてきた。今も生きていると錯覚してしまいそうだ。その錯覚と同時に、将太はもうこの世にいないという現実が、重くのしかかってくる。


「あいつとんでもない奴やな」


「藤崎!」


「藤崎!!」


「影山信夫はどこにおる!? 出てこい!」


 将太の声が聞こえると、再び何人かの生徒が叫んだ。中には信夫に対して、本気で怒っている子もいる。


 信夫が画面から消えた後、再生が終了された。スクリーンが真っ暗になる。それと同時に、マイクの電源の入る音が聞こえた。


「私は当時、学園祭で副企画長をしていました。先ほども言いましたが、こちらは当日の映像です。私たちは出し物として、三種類のスープを作りました。こちらの映像は、スープを作り終えて、記録を残すために撮影したものです。画面に映っているのは、企画長の小林広樹君、手伝ってくれていた藤崎将太君、そして私、池野陽菜です」


 興奮状態の皆が、再び騒ぎ始めた。池野さんが続けて言う。


「そしてもう一人、スープに毒物を入れていた子が映っていたと思います。その子が、影山信夫君です」


「影山!」


「影山出てこい! ボコボコにしてやる!」


 生徒の怒声が、体育館中に響き渡る。中には自分の席から立ち上がり、信夫のいる場所を探している子もいた。


 皆に真実が伝わったようだ。僕は嬉しい気持ちも混ざり、更に涙が溢れてきた。今日という日を迎えられて、心の底から良かったと思った。


 するとその時、突っ伏して泣いていた影山京子が、突然顔を上げた。勢いよく立ち上がり、舞台裏の方へ走っていく。


「通して! 通しなさいよ!」


 影山京子が騒いでいる。僕は体を少し右に傾け、舞台裏の方を見た。


 舞台裏の方では、二人の男の先生が通せん坊をしていた。道を開けてもらえない影山京子が、無理やり通ろうともがいている。


「あんた達。いい加減にしなさいよ! 嘘を垂れ流したうえに、私たち家族を侮辱して! ただじゃおかないわよ!!」


 何て見苦しいのだろうか? そんな影山京子の姿を、僕は呆然と見つめた。親子揃って、最後の最後まで図々しい。


 するとその時、後ろから足音が聞こえてきた。一人ではない。何人もの足音だ。


「警察だ! 影山京子。殺人、殺人未遂、殺人教唆さつじんきょうさ等の疑いで逮捕する!」


 足音の主は警察官だった。しかも四人いる。その内の一人は、手に逮捕状のようなものを持っていた。


 僕はその光景に釘付けになった。生徒や先生達も、騒ぎながら警察官の方を見ている。中には、影山京子と交互に見比べる人もいた。


 影山京子の方を見た。影山京子は、目を見開いたまま氷のように固まっている。するとその直後、ニタッと気味の悪い笑みを浮かべた。


「フフフ……。フフフフフ! ハハハハハッ!」


 途端に大声で笑い始めた影山京子。気が変になったのだろうか? 笑い声は体育館全体に響き渡った。


 ひとしきり笑った後、影山京子はキツい目で警察官を睨みつけた。そして瞬時に、ポケットから黒い物を取り出した。拳銃だ。突然の出来事に驚き、僕は胸が強く締め付けられた。


「動くな! 何人なんびとたりとも動くな!」


「影山京子!」


 影山京子が、震える手で銃を生徒に突きつけた。警察官の叫び声を無視し、四方八方に銃口を振り向ける。


 空気が張り詰め、周りが一気に静まり返る。皆余りにもの恐怖で、凍りついているようだ。呼吸している音さえも、聞こえてこなかった。


 僕も命の危機を感じた。金縛りにあったように、手足を動かすことができない。


 あの銃は本物だろうか。それともただの脅しだろうか。もし本物だったら、一発で殺されてしまう。頭の中が混乱し、手足がガタガタと震え始めた。全身から出てくる冷や汗が、更に僕の恐怖心を煽ってくる。


 するとその時、誰かが椅子から立ち上がる音が聞こえた。その音は、先生達のいる方角から聞こえてくる。


「影山さん! 生徒にだけは危害を加えないでください。どうかお願いです。この通りです」


 恐る恐る顔を上げると、教頭先生の土下座している姿が見えた。目には涙を浮かべ、体が小刻みに震えている。


「教頭先生……」


――ガーン!


 僕が呼び終えるか否かの出来事だった。銃弾を受けた教頭先生が、意識を失いその場に倒れこむ。


 僕はショックの余り、気が遠のきそうになった。教頭先生が目の前で血を流している。地獄だ。そして今いる体育館は牢獄だ。


「教頭先生!」


「キャーッ!!」


 周りの子たちもパニックになっている。影山京子が、銃口を教頭先生に向けたまま笑みを浮かべた。


 あの女が銃一つで主導権を握っている。そして罪のない教頭先生を撃って高笑いしている。僕の恐怖は、計り知れない怒りへと豹変していった。


「影山京子! 貴様よくも、よくも教頭先生を撃ったな!!」


「小林やめろ!」


 僕は椅子から立ち上がった。後ろから、真柴君の声が聞こえてくる。


 影山京子が、ゆっくりと僕の方へ視線を向けてきた。そして不気味な笑みを浮かべたまま、こちらに銃口を向ける。


「お前も死にたいか?」


 影山京子は確かに「お前」と言った。銃一つでこの場を支配できているため、優越感に浸っているのだろう。


 再び自分の体が硬直し始める。怖い。とても怖い。だがあの女に負けるわけにはいかない。全身に嫌というほど伝わる恐怖を、僕は必死で押さえつけた。


「貴様! お前のせいでどれだけの人が犠牲になっとると思っとんや。今すぐ銃を下ろせ! 自分の犯した罪を認めろ!」


 怒りと恐怖が混ざり混ざって、手はガタガタと震え、床には手汗がボタボタと落ちていく。


「黙りなさいよ! こうなったのも全部あんたのせいよ。あんたさえ居なければ、あんたさえ邪魔しなければ、私たちは平穏に暮らせていたのよ」


 影山京子の怒り狂った声がワンワンこだまし、銃を握る手が震え始める。


「もういい。あんたにもここで死んでもらう。おとなしく銃弾を浴びるのよ」


「死にたくない!」


 その時、何人かの生徒が立ち上がり、側面の非常口へ逃げた。


 影山京子が構え直した。いつ発砲してもおかしくない。キャーッという何人もの生徒の悲鳴が、後ろから聞こえてくる。パニックになっているのだろう。僕は覚悟を決めて目をつぶった。


 今思えば、ここまでとても長い道のりだった。でもそれも色んな意味で終わろうとしている。


 最後に神様は本当に僕を殺すのか。それとも助けてくれるのか。そこには一つの真実があるのみだった。


        *


 しばらくの間沈黙が続いた。周りの荒い息遣いのみが聞こえてくる。すると突如、僕の脳裏に走馬灯がよぎった。


 全て今までの出来事だ。今思えば、僕はとても我慢していた。もしやられたのが僕以外の人だったら、その人はもっと仕返しをしていただろう。殺しても足りないくらいのことをされたのだから。


 ゆっくりと目を開ける。我慢していた怒りが、何としてでも影山京子を捕らえるという執着に様変わりした。そして奴の方へ向かおうとしたその時だった。


――バターン!


――ガーン!


「キャーッ!」


 影山京子の悲鳴が響き渡る。それは一瞬の出来事だった。何と上から、陸上部の横断幕が落ちてきたのだ。将太が守ってくれたのだろうか? 僕は驚きの余り、横断幕に釘付けになった。


 影山京子の左手が、血まみれになっている。どうやら誤って自分の手に発砲してしまったようだ。左手を覆いながら、地面を這って逃げ出そうとしている。


「捕らえろ!」


 今までじっとしていた警察官が、やっと動き始めた。僕も走って影山京子の方へ向かう。逃げるだなんて卑怯なことは絶対に許さない。


「待て! 影山京子!」


 影山京子がふらつきながら立ち上がる。そしてステージから降りようとし始めた。


 僕はステージの階段を上り、そんな影山京子のポニーテールを右手で掴んだ。


「逃げるな! 影山京子!」


「キャッ!」


 僕はポニーテールを掴んだまま、影山京子の足をすくった。鈍い音を立てて、影山京子がその場に倒れこむ。


「逃げるな。絶対に逃げるな! お前には沢山罪がある。将太を殺した罪。池野さんを怪我させた罪。時さんを傷つけた罪。日光屋に火を放った罪!」


「痛い。痛い!」


 僕は容赦なく髪の毛を引っ張った。影山京子が海老反りの状態になる。


 僕は最後の言葉を発するために大きく息を吸った。


「一つ残さず余生を使って全身全霊で償え!」


 叫び終えた後、僕はポニーテールから手を離した。海老反りになっていた影山京子が、床に顔面を強くぶつける。鈍い音が、体育館中に響き渡った。


「九時十一分。影山京子確保!」


 直後、警察官が影山京子に手錠をかけた。無理やり立たせて、強引に連行していく。


 床に血が点々と落ちていった。鼻血だ。顔面をぶつけた時、鼻もぶつけたのだろう。僕はそんな影山京子を、ステージに座り込んだまま呆然と見つめた。


 その直後、涙が溢れてきた。その涙をきっかけに、僕は大声で泣き叫んだ。


 全てが終わるとき、解放されて清々しい気分になる。きっと、いや絶対そうなると信じていた。


 だが現実は全く違った。喪失感が容赦なく僕を襲ってくる。まるで戦後の焼け野原を見ているかのようだ。


 焼け野原に残ったものは、ただ一つ。それは、計り知れないほどの悲しみだった。

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