第20話 日光屋デパート放火事件

 時さんのお見舞いから家に戻ってきた。震える手で門をゆっくりと開ける。


 あれから二週間が経つが、時さんは未だに目を覚ましていない。無事に目覚めて、退院できる確率は五十パーセントなのだそうだ。このまま目覚めない可能性もあると、医師が言っていた。時さんが心配なのと同時に、自分だけ無傷だったことに日々罪悪感が募っていた。


 門と玄関の間の通路を通る。僕はここを通る度に全身が震えた。佐川であろう覆面の男たちは、まだ捕まっていない。つまり野放しの状態だ。そのせいで、余計に恐怖心は大きかった。


 玄関の鍵を開けて、家の中に入る。僕は入るとすぐに鍵を閉めた。鍵は二つある。いつも昼間は片方だけ閉めているが、あの日以来必ず両方閉めるようにしていた。


 両方閉めたことを念入りに確かめ、靴を脱いだ。廊下を通り、リビングの扉を開ける。


 リビングに入り、ソファに倒れ込むと、意識が段々と遠のいていった。きっと相当な疲れが溜まっているのだろう。


 ゆっくりと体の力を抜く。そしてそのまま、深い眠りへと落ちていった。


        *


 目を覚ましたのは、夜の八時だった。外は既に真っ暗になっている。余りにもの疲労で、死んだように眠っていたようだ。


 ゆっくりと立ち上がり、リビングを出る。そしてそのまま、ダイニングルームの扉を開けた。


 晩御飯は自分で作らないといけない。そのため、キッチンの方へ向かい冷蔵庫を開けた。食材は十分に備わっているだろうか? そう思いながら中を覗き込むと、結構な量の食材が入っていた。今日の晩御飯は十分に作れそうだ。


 一旦冷蔵庫の扉を閉め、顔を上げると、机の上に何かが置かれていることに気付いた。ファイルだ。ファイルの表紙には、“持ち出し厳禁”と大きく書かれている。それを見た僕は、手に取ってそっと中を開けた。


 中の紙に一つひとつ目を通す。どうやら日光屋の重要な書類のようだ。父さんと母さんが、忘れていったのかもしれない。僕はポケットからスマートフォンを取り出し、母さんに電話をかけた。


「ただいま電話に出ることができません」


 仕事中なのだろう。すぐに留守番電話に切り替わった。僕は電話を切り、代わりにメッセージを送信した。


 正直ご飯は後でもいい気分だ。そのため僕は、今からバスを使って、日光屋までファイルを届けに行こうと思った。


 ファイルを片手に持ち、家の鍵がポケットに入っていることを確かめる。そしてそのまま玄関に出て、靴を履いた。


 そっと扉を開けると、門灯が自動で点いた。暗くて視界の悪い庭が、僅かに明るくなる。この前と同じような光景だ。


——キャーッ!……あ、あーっ!


 その時、僕の頭の中で、この前の出来事が突然フラッシュバックしてきた。息が苦しい。突然の不安感に、思わず胸を抑えた。全身の震えが止まらない。


 身動きが取れなくなり、その場にしゃがみ込んでしまった。怖いため、どうしてもここを通ることができない。


 恐らくこれがトラウマというやつだ。僕は初めて経験したが、すぐに分かった。通れないという気持ちが大きくなるのと同時に、通らなければと焦る気持ちも湧いてくる。


 裏門を通ろうかと思った。だがそれをしてしまうと、一生ここを通れないような気がした。それが嫌だった僕は、ファイルを片手に持ち、震える足で立ち上がった。ゆっくりと顔を上げ、通路の方を見る。


 通路を見たと同時に、僕は目をつぶった。そしてそのまま、全速力で門の所まで走った。


 途中足がもたついたが、何とか門のところまで来た。無事に通ることができたようだ。だが僕の口からは、深いため息が出た。このような状態が、これからも続くのかと思うと憂鬱でたまらない。


 門を出て、セキュリティーをかける。まだ僅かに震える足で、バス停の方へ向かった。


        *


 バスが日光屋前駅に着いた。どうやら降りるのは僕だけのようだ。僕が降りると、ドアがすぐに閉まった。


 バスの離れる音だけが響いている。夜の日光屋周辺は、いつもこんなに静かなのだろうか? 少し気味悪さを感じながら、建物の裏側へと向かった。


 裏側へと近づいたその時、何やら不審な音が聞こえてきた。液体をいているような音だ。僕は耳をそばだてて、音のする方へ近づいていった。


 どうやら建物の北側からしているようだ。暗くてよく見えないが、はっきりと聞こえてくる。


 すると今度は、重たい物を乱暴に置いている音がした。軽い物をばらまいている音も聞こえる。怪しい。僕は小走りで角を曲がり、北側の方へ出た。


 その時、突然周りが明るくなった。火だ。火は瞬く間に大きくなり、建物へと燃え広がった。


 驚きの余り炎を茫然と見ていると、放火した犯人が逃げ始めた。周りが明るいため、はっきりと見える。信夫と影山京子だ。二人とも、サングラスにマスクをつけている。


「待て!」


 許せない。僕は二人を必死で追いかけた。だが二人とも想像以上に逃げ足が速い。正面入り口の所で、僕は息を切らしてしまった。


 絶対に逃すわけにはいかない。だがそれに反して足が動かなかった。そのため僕は下を向き、その場で荒い息をついた。


 顔を上げて前を見た。二人は花星の方角へ逃げている。これくらいのことで、息を切らす自分に腹が立った。動かない足にむちを打ち、再び走り出そうとしたその時だった。


——ジリリリリリリリリ


 非常ベルが作動したようだ。この音を聞いて、僕は父さんと母さんが心配になってきた。もし中に取り残されていたらと思うと、居ても立っても居られない。僕は走って裏口の方へ向かった。


 火事になったとき、建物へ戻ってはいけないという原則がある。そのことはもちろん知っていた。だが僕は、どうしても父さんと母さんが心配だった。火が燃え広がる前に建物を出よう。そう思い、僕はひたすら先を急いだ。


 裏口の前まで来た。僕は息を切らしながら、扉にカードをかざした。セキュリティーが解除され、鍵が開く。


「父さん。母さん」


 勢いよく扉を開けた僕は、思わずその場で固まってしまった。消防設備が作動しているため、店の中では非常に大きな音が鳴り響いている。


 それにとても暑い。北側を見ると、エレベーターホールが大きな炎で包まれていた。このままでは建物全体に燃え広がってしまう。混乱の余り、僕は両手で頭を抱えた。


 足元を見ると、消火器が置かれているのに目が入った。ファイルを置き、それを両手で持ち上げる。この前のように黄色いピンを抜き、ホースを火の方へ向けた。


 レバーを強く握ると、ピンク色の粉が飛び出した。だが火が大きすぎるため、全く歯が立たない。


「クソ!」


 僕は消火器を置いた。そしてファイルを持ち、反対側の方へ走った。父さんのいる会長室も、母さんのいる社長室も、八階の南側にある。火が燃えている所から正反対の場所だ。


 化粧品売り場を横切ったその時、上から大量の水が降ってきた。スプリンクラーまで作動したようだ。僕は足を滑らせながら、非常階段の防火戸を開けた。


 非常階段の中は、薄暗かった。非常灯と非常口の看板のみが点いていて、とても不気味だ。防火戸の外からは、相変わらず大音量の非常放送が聞こえてくる。


 とても恐ろしい。僕はその場で足を止めてしまった。だがここで怖がっていては、一生後悔するかもしれない。僕は深呼吸をして、全速力で階段を上った。


——八階なんかすぐや


 自分に何度も言い聞かせて、ただひたすら階段を上がっていった。


        *


 息を切らしながら、八階まで辿り着いた。余りにも全速力で上がったため、立ちくらみが激しい。それを必死で振り払い、防火戸を開けた。


 防火戸を開けると、会長室が目の前に現れた。僕は勢いよく扉を開けた。


「父さん」


 中は真っ暗だった。返事がない。僕は自分のスマートフォンを取り出し、中を照らした。会長室の中は誰もいなかった。無事に避難できたのだろうか?


 会長室を出た。するとその時、先程の非常階段から、煙が僅かに入ってきているのが見えた。真っ黒の煙だ。それを見た僕は、急いで社長室の扉を開けた。


「母さん」


 先程のように、ライトを照らしながら中を見た。社長室も誰もいない。母さんもちゃんと避難できたのだろうか?


 すると今度は、焦げ臭い匂いが僕の鼻を突いてきた。心配だが、もう時間がないようだ。このままでは僕が煙に巻かれてしまう。


 急いで廊下に出ると、北側から爆発音が聞こえてきた。それと同時に、建物が轟音を立てて僅かに揺れた。


 僕は焦りを覚えた。ハンカチを口に当て、廊下を右に曲がる。右に曲がると、非常口の看板がすぐに見えた。矢印が左の方角を指している。


 僅かに外の風を感じた。ライトを当てると、非常階段の扉が全開になっているのが見えた。どうやら父さんと母さんは、ここから逃げたようだ。それを見た僕は、心の底から安堵した。あとは僕が、ここから逃げるのみだ。


 階段の方へ出た。出たと同時に、強風が僕を直撃した。ここは八階の外階段だ。そのため、余計に風が強く感じられた。


 だが今度は下りだ。上りほどはキツくない。自分にそう言い聞かせて、ひたすら階段を下りていった。


        *


「広樹!」


「母さん?」


 三階まで降りた時、下から母さんの声が聞こえてきた。柵越しに下を見ると、父さんと母さんの他に、複数人の社員さんがいた。


 父さんが必死で手招きをしている。そして強張った顔で、建物の方を指差した。


 建物の方を見ると、火がすぐそこまで迫っていた。早く下りないと、このままでは炎に包まれてしまう。


 するとその時、サイレンの音が聞こえてきた。消防隊員が来たようだ。パトカーと救急車の音も聞こえる。

 

「広樹!」


「母さん!」


 再び母さんの声が聞こえてきた。階段を上ってきているようだ。ここは二階だ。あともう少しだ。


「広樹! 吉美! 危ない!」


 父さんの声が聞こえたのと同時に、建物が爆発した。その勢いで、僕は柵を越えて外へ弾き飛ばされた。下へ落ちる感覚がして、そのまま気を失った。

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