第19話 死の淵を彷徨う時さん
あれから時は流れ、早くも九月の中旬になった。何事もない平和な日常が続いている。僕は英語係のため、皆の単語帳を職員室前の机へ運んでいた。
それにしても暑い。早朝にもかかわらず、廊下の熱気は半端なものではなかった。歩いているだけで汗が流れ落ちてくる。
階段の所まで来た。ここまで来れば、職員室前の机までもう少しだ。僕は息を切らせながら、階段を一段ずつ降りていった。
途中まで降りると、一階の出入り口の方からスマートフォンの着信音が聞こえてきた。どこかで聞いたことがある。とても派手なメロディーだ。
「もしもし」
電話に出た声を聞き、僕はすぐに誰か分かった。影山京子だ。それにしてもこの状況、影山京子が本村に賄賂を渡していた時とよく似ている。また何か掴めるかもしれない。そう思った僕は、静かに階段を降りた。だんだんと一階へ近づいていく。
一階まで降りた。単語帳を近くの机に置き、そっと出入口の方を覗く。影山京子は靴箱にもたれかかり、声を潜めて話をしていた。
「佐川。どうだったの? 真柴の家はちゃんと突き止めたの?」
どうやら逃亡中の佐川と電話しているようだ。それにしても影山京子は、確かに「真柴」と言った。一体何を企んでいるのだろうか? 僕は耳をそばだてた。
「え? 分からない。どうしたのよ。しっかりしてよ」
後ろを向いているため、表情は見えない。だが声から、かなり苛立っている様子が伺える。
「仕方ないわね。じゃあ計画はあれだけにするわ。え? 何? 誰って? 占い師?」
影山京子の声が廊下中に響き渡る。思わず大きな声が出たのだろう。周りに聞こえてはいけないと思ったのか、こちらに横顔を向けた。このまま見ていると目が合うかもしれない。僕は慌てて顔を引っ込めた。
影山京子の言っている占い師は、長宮さんのことに違いない。仕返しでもしようと企んでいるのだろうか?
僕は再び顔を出した。影山京子が口ごもっている。長宮さんのことを聞かれて、どうやら怯えているようだ。
「——あの女、あの女はダメよ。私も酷い目に遭ったんだから。もう放っておきなさい。いい? 仕方ないから実行するのはあれだけにするわ。あのことだけに集中しなさい。くれぐれも抜かりのないよう成し遂げること。いいわね? 頼んだわよ」
影山京子が電話を切る。そしてそのまま、スマートフォンをズボンのポケットにしまい込んだ。
するとその時、運悪く影山京子と目が合ってしまった。見ていたのがバレたようだ。手遅れなのは分かっていたが、僕は慌てて顔を引っ込めた。
「フフフフ。そこに居たのは知ってたわよ。出てらっしゃい」
影山京子がネチネチとした不気味な声で、僕に話しかけてきた。こうなったら仕方がない。直接問い詰めてやろう。僕は堂々と影山京子の前に姿を見せた。
「影山京子。話は全部聞いたぞ。一体何を企んどるんや?」
「企んでる? そんな人聞きの悪いこと言わないの。個人的な話をしていただけよ。それにしてもあんた、人の話を盗み聞きするなんて、どれだけ失礼なの?」
僕が大声で言っているにもかかわらず、影山京子は冷静さを装っている。どうやら僕のことを小馬鹿にしているようだ。そんな態度にますます腹が立った。
「個人的な話? 何が個人的や? 真柴君の家を調べよったんやろう? 一体何のためや? それに占い師の長宮さんにまで、何をしようとしとったんや?」
「だから。個人的な用事があって調べてもらっていたのよ。それに占い師って何のこと?」
「個人的な用事って、逃亡中の佐川に頼んでか? それに長宮さんのことも、とぼけたって僕はちゃんと聞いとったぞ」
影山京子が目を引きつらせる。言い返すことができないのか、それとも威圧感を与えようとしているのか知らないが、もの凄くキツい目で僕を睨みつけてきた。
「大林君。どうしたんだね?」
するとその時、後ろから新担任の
「あら吉崎先生。こんにちは。息子の信夫がいつもお世話になっております」
「ああ影山さん。お久しぶりです」
影山京子が、先ほどの態度と打って変わって、明るい声で吉崎先生に言った。吉崎先生が頭を下げる。それに対して影山京子も深々と頭を下げた。
「ところで、どうされたのですか?」
「あー。ちょっと小林君とお話をしていただけです。たまたまここで会ったものでね。じゃあね小林君。私もう行かなきゃ。先生も失礼します」
「あー。ちょっと。影山さん」
吉崎先生が呼び止めるのを無視し、影山京子は手を振りながら外へ出ていった。先程までの態度から一変し、やけに馴れ馴れしい。気持ち悪さの余り反吐が出そうだ。
「大林君。大丈夫かね? 影山さんと一緒におったけん、先生心配したよ」
影山京子が出ていった後、吉崎先生が小さい声で僕に言った。
「大丈夫ですよ先生。ちょっとお話をしていただけです。それと先生、僕は大林ではなく小林です」
「あーすまん。小林君やったな。先生も年のせいか、生徒たちの名前が覚えにくくてな」
「そうなんですね」
僕と吉崎先生は笑い合った。本村より断然接しやすい。その時僕は、吉崎先生が新しい担任になってくれて本当に良かったと思った。
「あ、今日もみんなの分の英単語集めました」
僕は机の上に置いておいた英単語帳を指さした。
「お、ありがとう。職員室前の机の上に置いといて。じゃあ先生は、職員朝礼に行ってくるけん。あとはよろしく」
「分かりました」
僕が返事をすると、吉崎先生は職員室の方へ歩いていった。影山京子と話していた時の興奮は、嘘みたいに消えている。
ふと事務室の中の時計を見た。八時十五分。もうすぐで朝読書の時間だ。影山京子の電話の内容が気がかりだったが、僕は急いで英単語帳を職員室前の机へ運んだ。
*
「は? 影山京子が俺の家を調べようとしとった?」
一時間目終了後の休み時間、僕は朝の出来事を真柴君に話した。
「そう。佐川っていう逃亡中の男がおるやろ? どうやらあの男を使って調べよったみたい」
「あいつら次は何を企んどるんや。本当どうしようもない奴らやな」
真柴君が呆れた顔でため息をつく。本当にその通りだ。何を考えているのかさっぱり分からない。
「本当。分からんよね……」
「それで、俺の家は見つけたって言いよったんか?」
真柴君が不安そうな顔で僕に聞いてきた。
「いや。結局見つけれんかったみたい。でもその代わりに、もう一つの計画だけ実行するって言いよった。何のことか分からんけど」
「もう一つの計画?」
「うん。そう」
真柴君が首を傾げる。そのまま腕組みをして、椅子にもたれかかった。
「そういえば影山京子って、小林の家知っとん?」
「え? 僕の家?」
「ああ」
真柴君が腕組みをしたまま僕に聞いてきた。影山京子は僕の家を知っていただろうか? 過去の記憶を一つひとつ呼び出していった。
——貴方達、覚悟しておきなさい。今回の事は、何百倍にもして返してやるから
その時、僕は影山京子が突然訪ねてきた日のことを思い出した。三か月くらい前だったはずだ。余りにも平和な日常が続いていたため、忘れかけていた。
「知っとる。影山京子は、僕の家を知っとる」
「あ、そうか。知っとんか! 前にお前言いよったもんな。影山京子が突然訪ねてきたって。なあ小林、もう一つの計画って小林ん家のことやないか? 何やら危険な匂いがするぞ」
真柴君が目を見開いて僕に言った。じわじわと不安が込み上げてくる。
「でも、あれから結構な時間が経っとるよ。今更僕らに危害を加えてこようとするやろうか?」
「冷静に考えろ。何しでかすか分からん奴らやぞ? 油断はできんのやないか?」
真柴君の引きつった顔を見て、緊張感がさらに増してきた。一体どうすればいいのだろう? こういう時に限って何も思いつかない。
「真柴君。どうすればいいと思う? 何か具体的な案はない?」
「とにかく、門と玄関の施錠は強化しとった方がいいんやないか? それから何かあったら、お互いスマホで連絡を取り合おう。いいな?」
「分かった。そうしよう」
真柴君の考えに僕は頷いた。僕は夏休みの間に、スマートフォンを買ってもらったのだ。真柴君とは既に連絡先を交換している。そのため、何かあったらすぐに連絡しようと思った。
*
「ただいま」
「お帰りコウ君」
授業が終わり、家に帰ってきたのは六時を過ぎた頃だった。玄関に入ると、すぐに時さんが出迎えてくれた。
荷物を玄関マットの上に置き、急いで扉に鍵をかける。そんな僕を、時さんが怪訝そうな顔で見てきた。
「コウ君。慌てて鍵を閉めてどうしたの?」
「時さん。ちょっと話したい事があるけん、ダイニングルームへ行こう」
「分かったわ」
僕は荷物を置いたまま、ダイニンルームへ入った。時さんも僕の後に続く。
いつも食事の時に座っている席に腰を下ろす。僕の前に向かい合うように、時さんも座った。
「それで、一体どうしたの?」
腰を下ろすと、時さんが心配そうな顔をして僕に聞いてきた。
「実はね、今日の朝学校に影山京子がおってね、電話で不審な会話をしよったんよ」
「不審な会話?」
「そう」
時さんが横を向く。そしてすぐにこちらに顔を向け、若干身を乗り出してきた。
「どんな会話をしていたの?」
「佐川っていう逃亡中の男がおるやろ? 影山京子が、あの男を使って真柴君の家を調べようとしとったんよ。でも結局見つけれんかったみたいでね。その代わりに、もう一つの計画だけ実行するって言いよった。その計画の内容は分からんかったけど、もしかしたら僕らの家に危害を加えようとしとるかもしれん」
今朝の出来事を、洗いざらい話していった。時さんは最初目を見開いていたが、すぐに笑みを浮かべた。
「コウ君。考えすぎよ。あの女、最近は何もしてこないじゃない。あの女の息子とも、最近はトラブルないんでしょ?」
「僕も真柴君と話しよった時はそう思っとった。でも、何をしてくるか分からん奴らよ? 油断はできんのやない?」
どうやら時さんも、考えすぎだと思っているようだ。そのため僕は、真柴君に言われた言葉をそのまま時さんに言った。
すると時さんは、身を乗り出していた体を戻し、姿勢を正した。
「分かったわ。コウ君が心配なら、私も家の戸締りを強化するわ。今は暑いから窓を開ける機会が多いけど、これからはできるだけエアコンをつけるようにしましょ」
「ありがとう。時さん」
僕がお礼を言うと、時さんはにっこりと笑った。時さんに分かってもらえて、とても嬉しい。家の戸締りを強化するだけでも全然違うだろう。僕はそう思った。
「あ。私、もう帰らないといけないわ」
時さんが、ダイニングルームの時計を見ながら言った。時刻は六時二十五分。外もだんだんと薄暗くなってきている。
「僕、お見送りする。やっぱり心配やけん」
「暑いからいいのに。でも心配してくれる気持ちは嬉しいわ」
時さんが椅子から立ち上がる。そして炊事場の方へ向かった。
「今日の晩御飯は、ここに置いてあるから冷めないうちに食べるのよ」
「分かった。ありがとう」
「じゃあ私は、帰る用意をしてくるわね」
「うん」
僕が返事をすると、時さんはダイニングルームを出ていった。
時さんが部屋の扉を閉めると、室内が一気に静まり返った。時計の秒針を刻む音だけが規則的に響いてくる。
一人になった途端、色々なことが頭に浮かんだ。やはり不安でならない。もういっそのこと、信夫のスープの証拠を提出してしまおうかと思った。だがあれには、影山京子の証拠は含まれていない。信夫が少年院行きになったら、影山京子の暴走は間違いなく酷くなるだろう。火に油を注ぐことになってしまう。
一つや二つは大変なことが起きる。三か月前、長宮さんが言っていたことも思い出した。一つ目は僕の家に危害を加えてくることだろうか? そうなったら二つ目は? それとも一つ目だけで終わりだろうか? 不安から逃れたいため、色々な考えを巡らすが、どれも単なる予測でしかない。
頭を抱えていると、廊下から足音が聞こえてきた。どうやら時さんの帰る支度ができたようだ。
「コウ君。今日はこれで帰るわね」
ダイニングルームの扉が開き、時さんが顔を覗かせた。
「分かった。お見送りする」
椅子から立ち上がり、時さんと一緒に廊下を出る。廊下に出た瞬間、体が熱気で包まれた。
「今日はお父さんとお母さん、早くに帰ってくるって言ってたわ。鍵をしっかり閉めて、もし何かあったらすぐに連絡するのよ」
「分かった。ありがとう」
「こちらこそ。わざわざお見送りしてくれてありがとうね」
時さんが靴を履き、玄関の鍵を開ける。そしてそのまま扉を開けた。
扉を開けると、門灯が自動で点いた。暗くて視界の悪い庭が、僅かに明るくなる。
「じゃあねコウ君。また明日」
「じゃあね時さん」
時さんが手を振り、玄関と門の間の通路を歩いていった。
「キャーッ!……あ、あーっ!」
「時さん!」
するとその時、庭の木陰から覆面をした三人の男が出てきた。一瞬の出来事だった。男に囲まれた時さんが、その場に倒れ込む。手に持っていた刃物が、血と共にぎらりと光った。
「おお。これはこれは。坊ちゃまもお出ましとは。話が早いな」
時さんを刺した真ん中の男が、不気味な声で僕に話しかけてきた。殺される。本能的な恐怖を感じ、心臓が強く締め付けられた。鼓動が自分でも聞こえてくるくらい高まっている。
「お前ら一体誰だ! さ、佐川か? 影山京子の指示か?」
「知る必要はない。どうせお前も死ぬけんな。さあ、手早く済ませるぞ」
男たちが少しずつこちらへ近づいてくる。僕は震える足で後ろへ退いていった。
気を抜いたら、恐怖の余り気絶してしまいそうだ。だがここで倒れるわけにはいかない。三人とも刃物を持っているため、確実に刺されてしまう。
逃れるための方法を必死で模索した。するとその時、玄関に消火器が置かれていたことを思い出した。
急いで玄関の扉を開ける。入って右側に置かれている消火器を、両手で持ち上げた。
「反撃しようとしてるのか? 小僧のくせに生意気な」
男たちが走ってこちらに向かってきた。震える手で黄色いピンを抜き、ホースを向ける。
——ブシューーー
「わっ!」
ピンク色の粉が辺り一面を覆う。男たちが激しく咳き込んでいるのが聞こえた。今のうちだ。僕は急いで裏庭の方へ逃げた。
「待て! 逃げるな!」
男たちが咳をしながら追いかけてきた。僕は走るのが速くない。このままでは本当に追いつかれてしまう。
花壇の方を見ると、園芸用の石灰が置かれていた。袋が開いている。僕は咄嗟にそれを持ち上げ、男たちに思いっきり投げつけた。
「うわーっ!」
真ん中の男に見事命中し、白い粉が辺り一面を覆った。僕は咳き込みながら裏門を開け、道路の方へ逃げた。
*
道路に出てから十分くらい経っただろうか? 僕は自分のスマートフォンで警察と救急に連絡した。そして父さんと母さんにも留守番電話を入れておいた。今はじっと、人目のつかない物陰に隠れている。
時さんが心配で堪らない。戻りたい気持ちは大きいが、恐怖の余り全身の震えが止まらなかった。
影山京子の仕業に違いない。あの女以外思いつく奴がいなかった。許せない。本当に許せない。僕は怒りを通り越して涙が止まらなくなった。
涙が出始めると、全身の震えが余計に酷くなった。ここでじっとしていても何も変わらない。そう思った僕は、爆発しそうなほどの恐怖を抱えて家の方へ向かった。
裏門をそっと開けた。暗くてよく見えないが、男たちのいる気配はない。
「時さん! 時さん!!」
その時、母さんの声が聞こえてきた。僕は急いで声のする方へ向かった。
「広樹!」
玄関の方へ向かうと、母さんが涙目でこちらへ駆け寄ってきた。
「広樹!」
放心状態だった父さんも僕のところへ駆け寄ってくる。
「父さん。母さん」
僕も泣きながら、父さんと母さんの元へ駆け寄っていった。そんな僕を母さんが抱きしめた。
「広樹。大丈夫? 怪我はなかった?」
「僕は大丈夫。でも時さんが。時さんが……」
僕は涙声で母さんの方を見た。母さんも大粒の涙を流している。
「広樹。とにかくお前が無事で良かった。時さんも大丈夫だ。き、きっと大丈夫だ……」
父さんも涙目で僕を抱きしめた。僕もそうだと信じたい。だが完全に信じ切ることはできなかった。
影山京子が許せない。本当に許せない。この手で、何としてでも地獄へ引きずり落としてやる。強い怒りを覚えた僕は、下唇を強く噛み締めた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます