第21話 耐える時
「広樹! 広樹!」
意識が朦朧とする中、母さんの声がはっきりと聞こえてきた。若干のめまいが残っていたが、ゆっくりと目を開ける。
「母さん?」
「広樹! 良かった」
右横に顔を向けると、母さんが涙ぐんでいるのが見えた。ここは病院のベッドのようだ。横から医療用の機械の音が、規則正しく聞こえてくる。
「本当に良かったわ。あんたずっと目覚めんかったけん、母さん心配でたまらんかったんよ」
「ごめん」
母さんが両手で涙を拭っている。その様子を見た僕は、申し訳ない気持ちになった。それと同時に、目覚める前の出来事を思い出した。
僕は日光屋の非常階段から、一階へ降りようとしていた。そしてその時、大きな爆発に巻き込まれた。爆発した時、母さんも下にいたはずだ。
「建物が爆発した時、母さんも下におったよね? 怪我はなかった?」
「大丈夫よ。それに父さんも、日光屋の中の人も全員無事よ」
「そうか。それは良かった」
母さんがパイプ椅子から立ち上がる。そして、看護師を呼ぶオレンジ色のボタンを押した。
「僕はどれくらい意識がなかったん? あ、あと日光屋はどうなったん?」
「今日は十月三日の朝よ。火災が起きたあの日の夜から、あんたは一日と半分くらい眠っていたわ。それと日光屋は……」
母さんが言葉を詰まらせ、再び涙目になる。その様子を見た僕は、軽く身を乗り出した。
「全焼したわ」
母さんが肩を震わせながら僕に言った。それを聞いた僕は、ショックの余り茫然と母さんを見つめた。
僕たちは一体どうなってしまうのだろうか? 日光屋はもう終わりなのだろうか? 色々な考えが頭をよぎった。頭をよぎるたびに、胸が締め付けられる。
「——これから僕たちはどうなるん?」
「父さんが今、社員さんたちと夜通し会議をしよるわ。今のところ、今治店の営業を停止しとる。最悪の場合、私たちは経営から追い出されるかもしれん」
「そうなんや……」
僕は返事をするのがやっとだった。絶望感が強すぎて、涙すら出てこない。
母さんが涙を拭い、ポケットを探り始めた。そして中から、自分のスマートフォンを取り出す。
「この写真が、火災から一夜明けた時の様子よ」
「うわっ。これは酷い……」
写真には、丸焦げになった日光屋の姿が映っていた。本当に酷い有様だ。骨組みのみを残し、崩落している箇所もある。
これが長宮さんの言っていた荒療治だろうか? まさかこんな
大きな出来事といえば、時さんが襲われたあの日もそうだ。時さんはまだ目覚めていないのだろうか? 僕は母さんの方を見た。
「母さん。時さんはまだ目覚めてない?」
僕が聞くと、母さんの顔が少しだけ明るくなった。
「時さんね、昨日目覚めたのよ。幸い一命は取り留めたわ。今は病院でリハビリを受けよるよ」
「本当? 良かった!」
時さんが無事だったと聞き、僕は声のトーンがやや高くなった。岩のように重たかった気分が、少しだけ軽くなる。それとともに、瞼も熱くなってきた。
「失礼します」
「どうぞ」
その時、部屋の扉がノックされた。看護師が来たようだ。母さんが応答すると、看護師はゆっくりと扉を開けて部屋に入ってきた。その人は以前、僕が階段から落ちた時に担当してくれた人だった。
「お目覚めですね。先生を呼んでまいります」
「お願いします」
看護師が頭を下げて部屋を出ていった。それを見計い、母さんがエコバッグから真っ黒になったファイルを取り出す。そのファイルを見た僕は、思わず息を飲んだ。
「広樹。建物が爆発した時、このファイルが上から落ちてきたんよ。もしかしてこのファイルを、届けにこようとしとったの?」
「そう。そのファイル、ダイニングルームの机の上に置かれとったんよ。忘れとんかなと思って、僕はバスに乗って日光屋へ向かった」
「そうやったんや。ごめんね。あんなところに置いとった母さんが悪かったわ。このファイルね、家に保管しておいて良かったのよ」
「そうやったんや」
持ち出し厳禁と書かれていたため、僕はてっきり忘れていると思い込んでいた。どうやら余計なことをしてしまったようだ。
「じゃあ広樹。日光屋に到着して、建物の中に入った時に、火災に巻き込まれたってこと?」
「——いや。そうじゃない」
「え?」
何故かそこから先の出来事が思い出せない。口ごもる僕を、母さんが心配そうに見つめてきた。
「じゃあ建物に入る前には、既に火災が起きとったってこと?」
「——いや、全然思い出せん。違う。違う!」
「広樹!」
その時、突然頭の中がパニックになった。息が苦しい。激しい不安感が、容赦なく僕を襲ってきた。死んでしまう。自分が壊れてしまいそうだ。
「大丈夫!?」
母さんが必死で僕の背中をさすってくる。すると徐々にパニックは消えていった。だがその後も、全速力で走ってきたかのように肩で激しく息をした。一体何なのだろうか?
「広樹。大丈夫?」
「大丈夫。でも何故か、バスを降りてから外へ逃げるまでの出来事が思い出せん」
「広樹。その思い出せんのって、心理的なものなんやない? とにかく先生に診てもらいましょ」
「うん」
母さんが半泣きの状態で僕に言った。僕は記憶喪失にでもなってしまったのだろうか? だが全部忘れているわけではない。断片的に記憶が抜け落ちているだけだ。何が何だか分からない状態で、僕は医師が来るのを待ち続けた。
*
五分が経過した頃、先程の看護師が、男性医師を連れて病室に入ってきた。
「おはようございます。お体はどうですか?」
「先生! この子、一部記憶を失っているみたいなんです。検査してもらえませんか?」
医師の問いかけに、母さんが早口で答える。すると医師は、若干目を見開いた。
「記憶を失っているとは、目覚める前の出来事を忘れているということですか?」
「はい。そうです。全て忘れているわけではなく、断片的に記憶がなくなっているんです」
「なるほど」
僕が答えると、医師は目線を横に向けた。そして再び僕の方へ向き直った。
「分かりました。一先ず検査をしてみましょう」
「よろしくお願いします」
母さんが頭を下げたので、僕も頭を下げた。これで何故記憶がないのか、明らかになるだろう。僕は深呼吸をして、医師の指示を待った。
*
「解離性健忘ですね」
「解離性健忘? 何ですかそれ?」
精密検査の後、僕は医師から病名を告げられた。隣に座っている母さんの声が、部屋中に響き渡る。
解離性健忘という言葉は聞いたことがない。一体どんな病気なのだろうか?
「特定の場面や、時間の記憶が抜け落ちる病気です。過度のストレスやトラウマが原因で起きるものですね」
「そんな……。その病気は治るのですか?」
母さんが身を乗り出して医師に聞いた。
「精神療法を行うことで、大半の方は欠落した記憶を取り戻すことができます。ただ記憶が戻るのがすぐの方もいますが、時間がかかってしまう方もいますね」
「そうですか……」
僕はちゃんと記憶が戻るのだろうか? 母さんに淡々と告げる医師の言葉に、僕は不安を覚えた。
「とにかく今は、安静にするよう心掛けてください。もう退院してもいいですが、今後も定期的に通院するようにしてください」
「分かりました。ありがとうございました先生」
「ありがとうございました」
「いえ。お大事になさってください」
母さんに続いて、僕もお礼を言った。母さんがゆっくりと立ち上がる。それに続くように僕も立ち上がった。
「失礼しました」
母さんが扉の前で頭を下げる。僕も母さんの後ろから顔を出し、お辞儀をした。
僕が部屋の扉を閉めた。閉め切って廊下の方を見る。すると廊下には、スーツを着た男性が二人立っていた。二人とも見覚えがある。誰だっただろうか?
「小林さんですね?」
「はい。そうです」
母さんが返事をすると、二人の男性はこちらに駆け寄ってきた。
「警察の大野です。そして隣も田中です」
大野さんと田中さんは、スープの事件でお世話になった人だ。一体どうしたのだろうか?
「日光屋の件で、お話ししたいことがあります。少々お時間よろしいでしょうか?」
どうやら日光屋のことで来たようだ。大野さんの問いかけに、母さんが周りを見渡した。
「周りに人がいないので、ここでお話ししましょう」
「分かりました」
僕たちは、廊下に置かれていた長椅子に腰を下ろした。大野さんと母さんが真ん中に、そして田中さんと僕が両サイドの配置だ。
「現在私たちは、日光屋の火災調査を行っております。それで一つ明らかになったことがありました」
「明らかになったこと?」
「はい」
大野さんが声を潜める。母さんも周りを気にしながら話し始めた。
「日光屋の火災は、放火であることが明らかになりました」
「そんな……。放火ですか?」
「そうなんです」
大野さんの言葉に、僕も母さんも驚きが隠せなかった。まさか放火だったとは、想像もしていなかったからだ。
そうなると、火をつけた犯人がいる。建物に入るまでに犯人を見ただろうか? 僕はもう一度あの時のことを振り返った。だが全然思い出すことができない。
「出火場所は、建物の北側であることが分かりました。こちらをご覧ください。大量のガソリンを撒いた跡が見られます。そしてこちらの燃えカスは、新聞紙です。奥にある細かい物は、全てマッチ棒でした。どれも尋常じゃない量です」
「そんな……」
母さんが手を震わせながら、大野さんから写真を受け取った。僕も横からそれを覗き込むようにして見た。本当に酷い光景だ。悪意のある行為だったことが、ひしひしと伝わってくる。
「何か心当たりはありませんか? 建物周辺で、怪しい人物とか目撃しませんでしたか?」
田中さんの言葉に、僕は影山親子が頭に思い浮かんだ。あの二人だっただろうか? 記憶がないが、僕は田中さんの方を見た。
「僕は火災が起きた時、現場にいました。母に届け物があったため、来ていたのです」
「なるほど。日光屋までの交通手段は何でしたか?」
田中さんが目を見開いて僕に聞いてきた。
「自宅から日光屋までバスを利用しました。多分着いたのは、八時半頃だったと思います」
「なるほど」
田中さんが手帳を取り出し、素早くメモし始める。さすが刑事さんだ。素早く書いているにもかかわらず、字がとても整っている。
「ただ、そこから先の記憶がないんです。先程医師にも診断されましたが、僕はストレスで一時的に記憶を失っているみたいなんです。犯人を見たかどうかも思い出すことができません」
「——そうなのですね。分かりました」
田中さんが僕の言った内容をまとめ、一旦手帳を閉じる。そして母さんの方を見た。
「お母様は何か、心当たりありませんか?」
「私は火災が起きた時、建物の中にいました。八階南側の社長室です。書類をまとめている時に非常ベルが鳴ったのです。なので怪しい人物は見かけていません」
「なるほど。分かりました。ありがとうございます」
田中さんが再び手帳を開ける。そして母さんが言った内容もまとめ始めた。
「ありがとうございました。今回伺った内容は、捜査の参考にさせていただきます。一日も早く犯人を特定し、逮捕へ繋げていきたいと思います」
「はい。よろしくお願いします。ありがとうございました」
大野さんの言葉に、母さんが深々と頭を下げる。僕も姿勢を正し、二人に体を向けて頭を下げた。
信夫と影山京子。記憶がないが、僕はあの二人を疑った。十月六日まで、あと三日だ。このままいけば真実が明らかになるだろう。そう思うと、六日の日がとても待ち遠しかった。
*
大野さんと田中さんを見送り、僕と母さんは病室へ戻ってきた。カーテンを開け、電気を点ける。
「またあの親子かしら?」
僕がベッドに座ろうとした時、母さんが呟くように言った。どうやら母さんも影山親子を疑っているようだ。
「僕も記憶がないけど、あの親子を疑っとる。だって他に思い当たる人がおらんやろう?」
「そうよね。それにしても、どうしようもないことになってしまったわ」
母さんが絶望の余り疲れ切っているようだ。そんな母さんに、僕はかける言葉を探した。だがどの言葉も、単なる気休めでしかないように感じる。
その時、母さんのスマートフォンに電話がかかってきた。こんな気分の時に一体誰だろうか?
「父さんからだわ」
どうやら父さんからのようだ。恐らく日光屋のことだろう。母さんがスマートフォンを持ち、病室から出た。
すると今度は、僕のスマートフォンにも電話がかかってきた。ベッドに座っていた僕は、体を前のめりにして自分のスマートフォンを取った。
発信元は池野さんだった。気分の高まりを覚えながら、画面をスライドさせる。
「もしもし池野さん?」
「小林君! 大丈夫? 心配で電話したの」
池野さんの心配そうな声が、僕の耳に心地よく響いてきた。
「大丈夫だよ。ただ日光屋が……」
「私もニュースで見たわ。大変なことになってしまったわね……」
その時、池野さんの声が涙ぐんでいるように聞こえた。どうやら僕のことを、本当に心配してくれているようだ。嬉しい気持ちに、切なさが混じってくる。
「池野さん……」
「何?」
僕はここで自分の想いを伝えてしまおうと思った。今しかない。そう強く確信した。
スマートフォンを耳に当て直す。そして言い始めようとしたその時だった。
「広樹」
「え! あっ……」
部屋の扉が開き、母さんが入ってきた。慌てた僕は、スマートフォンをベッドの上に落としてしまった。その様子を見た母さんが、驚いたように目を見開く。
「どしたん?」
「いや、ちょっと友達と話しよって」
「そう。母さんちょっと、日光屋の会議に行ってくるわね」
「分かった。気をつけて」
母さんが出ていったのを見計らい、僕は慌ててスマートフォンを持ち上げた。そして再び耳に当てる。
「もしもし。もしもし?」
池野さんの困惑したような声が聞こえてくる。
「もしもしごめん。あのね、池野さん」
「うん。どうしたん?」
変な間が空いてしまったため、言いづらい。だがここで言わないと、もうチャンスはないような気がした。
「僕、池野さんのことが好きです。この騒動が終わったら、僕と付き合ってくれませんか?」
思い切って言ったため、早口になってしまった。電話口からの返答が怖い。僕は目をつぶった。
「私も小林君のこと、ずっと好きでした。私で良ければお願いします」
電話口から、池野さんの恥ずかしそうな声が聞こえてきた。僕たちは両思いだったようだ。嬉しくてたまらない。凍りついた心に、一気に春が舞い込んできた。
「ありがとう池野さん!」
「こちらこそありがとう! 小林君、とっても嬉しかったわ。騒動が収まったらまた会いましょうね!」
「うん。また会おう! 今大変やけど、必ず乗り越えて見せる」
「絶対に大丈夫。私はそう信じとるわ。あ、それと……」
「何?」
池野さんが恥ずかしそうに口ごもっている。僕はスマートフォンを耳に押し当てた。
「小林君のこと、下の名前で呼んでもいいかしら?」
「もちろんいいよ! あ、じゃあ僕も池野さんのこと、陽菜ちゃんって呼んでもいい?」
言い終えた後、僕はとても恥ずかしくなった。今まで女の子を、下の名前で呼んだことがない。じわじわと顔が火照ってくるのが感じられる。
「もちろんいいわよ!」
「良かった! 嬉しい」
僕が言うと、陽菜ちゃんが嬉しそうに微笑んでいるのが聞こえた。
「また落ち着いたら会おうね、池野さん。じゃなくて陽菜ちゃん。今日は電話してくれてありがとう」
「うん。また会おうね広樹君。ありがとう。じゃあね!」
「じゃあね!」
会話が終了し、電話が切れる。陽菜ちゃんと両想いになれた。嬉しさのあまり、僕は一人でガッツポーズした。
ふと窓の方を見た。見たと同時に、太陽が雲の隙間から差し込んできた。とても眩しい。だが同時に、清々しさも感じられる。
今は耐える時なんだ。そして耐えた後には、必ずこの清々しさが待っているはずだ。そう強く確信した僕は、期待と不安を抱きながら、スマートフォンをポケットにしまい込んだ。
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