第10話 鬼畜担任本村

 翌日。すずめの騒がしい鳴き声で目を覚ました。時刻は朝の七時前。昨日の出来事は全て現実だったことを再認識し、夢ではなかったことに改めて絶望感を抱いた。


 将太が亡くなった。この前までずっと一緒に学校生活を送っていたのに。だがもう涙は出なかった。自分の脳が、保身のために、起きた出来事を嘘だと思い込ませようとしている。


 今日は将太の通夜が行われる。だが僕は、どうしても最後に会いに行くことはできなかった。


――ごめんな。将太


 僕はよろよろと部屋を出て、真っ直ぐ洗面所に向かった。トイレは明け方に行っているため、もう行きたくない。


 洗面所の鏡で自分の顔を見る。目の下はクマで黒くなっていた。この前の信夫みたいに。


 顔を冷たい水で洗い、そのまま歯磨きをした。今日は時さんは休みでいない。父さんと母さんはとっくに仕事に行っているため、朝ご飯は自分で作らないといけなかった。


 だが今日は全く食欲がなかった。ショックが重なり、何も食べたいと思えない。だからこのまま着替えて学校に行こうと思った。


 うがいをして、軽く口を拭く。そして洗面所を出て、再び自分の部屋へ戻った。


——屋上の立ち入り禁止の場所に無断で入った件、明日学校でじっくりと話を聞かせてもらうわ

 

 寝間着から学校の制服に着替え始めた時、本村の昨日の言葉が脳裏をよぎった。学校を休みたい。だが本村は、今日から出席をカウントすると言っていた。そのため休むという選択肢は、取れそうにない。


 服を着替えた後、憂鬱な気分でかばんを持った。部屋を出て、階段を下りる。そしてそのまま、玄関の方へと向かった。

 

 玄関で靴を履き、扉を開ける。ブレザーは着て登校しなくても良い時期になっていた。だが外は、日を重ねるごとに暑くなっていく。


 そろそろ半袖でも良いと思えるほどだ。僕は額の小さな汗を拭いながら、玄関の鍵を閉め、ゆっくりと学校へ向かって歩き始めた。


        *


「小林君」


 学校に着き、教室の前まで行くと、すぐに本村に呼び出された。機嫌悪そうに顔をしかめている。廊下で僕が来るのを待っていたようだ。


 一旦教室に入って、自分の机に荷物を置いた。そして僕は、本村の後ろをついて行った。本村はそのまま階段を下りて、職員室の方へ向かっている。


 廊下を歩いている生徒が、僕の顔をジロジロと見てくる。本村はそんな様子を気にすることなく、スタスタと速足で歩いていった。


 もしかすると、職員室前で怒られるのかもしれない。そうなると、生徒に加えて、先生達の前でも怒られることになる。それだけは勘弁してほしい。僕は不安で堪らなくなってきた。


 だが気を緩めると、本村の歩くスピードについていけなくなる。僕は気の緩みを抑えて、ひたすら本村の後ろをついていった。


 本村が進路指導室の前を横切る。そして職員室の手前で左に曲がった。応接室だ。スープの事件のとき、影山京子が母さんにお茶をかけてきたあの部屋だ。


 本村が鍵を取り出し、応接室の扉を開ける。そして僕が先に入るよう促してきた。僕が入ると、本村は扉をやや強めに閉めた。


「座って」


 僕は本村の圧に振り回されないように、自分の中で平常心を保った。


「一昨日、倒れていたあなたを見つけたのは私よ。どうして屋上の階段で倒れていたの? 屋上に上がったのでしょう? 理由をここで説明しなさい」


 本村がやや低く、静かな声で僕に言った。不穏な空気が応接室を囲み始める。僕は平常心を保ったまま姿勢を正した。


「僕は一昨日の朝、影山君に呼び出されました。そして影山君は、そのまま躊躇ためらいもなく屋上の階段を上がっていったのです。そこは立ち入り禁止だと彼に言いましたが、僕を無視して上がっていったので、そのまま僕も仕方なくついていったのです——」


「そうやってまた人のせいにするのね」


 本村は目を細めて、強めの口調で僕に言った。


「ですが、本当の事なので――」


「あなたが上がったのかどうかを聞いているのよ!」


 本村が大きく口を開いて叫んだ。僕は驚き、反射的に体がビクッとなった。


「——はい。上がりました」


「反省文十枚ね。今日中に提出して帰りなさい。以上!」


 本村は言葉を乱暴に吐き捨てて立ち上がり、応接室から出ようとした。そして引きつった顔を再びこちらに向ける。


「これ以上騒ぎを起こさないでよね。大体今までの事件、全てあなたが関わっているじゃないの」


 乱暴に扉を開けて、外へ出ていく本村。僕は本村の最後の言葉に、ショックを受けた。


 もはや生き地獄だ。扉が閉まると同時に、僕は息を殺して泣いた。今までの悲しみ、苦しみ、絶望が一気に目から溢れ出た。


        *


 教室に帰ると、クラスメイトは既に着席していた。教室の中は静かで、僕が入っていくと一斉に皆がこちらを見た。僕はやや足取りで、自分の席に座る。


 席に座った時、左後ろの席が空いていることに気付いた。信夫の席だ。母親が逮捕されてショックなのか、それとも身の危険を感じ、逃亡でも図ろうと必死になっているのか知らないが、信夫は休んでいた。


 その時、チャイムが鳴り、本村が教材を抱えて入ってきた。今日の一限は古典だったことを思い出し、僕は思わず小さなため息をついた。


「今日は一つだけお知らせがあります」


 本村が教材を机の上に置いた。


「藤崎君が昨日、入院していた病院で亡くなりました」


 本村の言葉で、教室が一気に騒がしくなった。僕の方をチラチラ見てくる生徒もいる。将太はもうここにはいない。心の中が岩のように重たい気分で包まれる。


 一人の子と目が合った。学園祭の毒入りスープを誤って飲んでしまった真柴ましば良輔りょうすけ君だ。僕は気まずくて、思わず目を逸らした。


「朝からショックなお知らせだけど、授業始めるわよ」


 本村が教材を開いて、古典の本文を黒板に写し始める。静かになり、皆が予習ノートを開け始めた。


 予習ノートを開いたら、本村が本文を写し終えるのを静かに待つ。今日もいつもの流れが始まっていった。


 僕は精神的にも肉体的にも、もう限界だった。黒板に当たるチョークの音が、僕を眠りに誘ってくる。昨日は一睡もできなかったため、理性では打ち勝てないほどの睡魔が襲ってきた。


 重たい瞼が僕の視界を遮る。そしてそのまま、黒板に当たるチョークの音が、意識の中から遠ざかっていった。


「小林君!」


 その直後、本村の怒声がワッと飛び込んできた。慌てて教科書を開く。眠気が一気に引いていった。


「あなた本当に何を考えているの? やる気がないなら、今すぐ出ていってもいいのよ!」


「すみません」


「反省文五枚追加ね。結局あなた何も反省していないじゃない!」


 本村が言葉を吐き捨てて、教材を乱暴に机の上に置く。僕は周りの視線を浴びながら下を向いた。


 いくら何でも酷すぎる。反省文を平気で増やしていくなんて、鬼以外の何者でもない。僕は下を向いたまま、唇を強めに噛んだ。


        *


 今日は土曜日のため、四限で授業が終了した。軽くパンを食べ終え、職員室前の机へ向かう。家には連絡を入れているため、あとは書くことに専念するのみだ。


 職員室前に行くと、本村が腕組みをして扉の前に立っていた。僕を見つけると、本村はすぐに職員室の中へと消えた。


 外から職員室の中を見る。本村は自分の席の引き出しを開け、中から分厚い紙を出していた。反省文だ。僕は紙の分厚さに一気に嫌気がさした。


 すると反省文を手に持ったまま、本村はこちらを振り向こうとした。一気に平静を装い、心の安定を図る。本村はややしかめ面で、こちらに向かって歩いてきた。


「これ、職員室前の机で今日中にきっちり書いて、終わったらあそこの緑のかごに入れて帰りなさい」


 本村が僕に紙を渡しながら、向こうにある緑色のかごを指さした。


「分かりました」


 僕が返事をすると、本村は無言で職員室の中へ入っていった。


 反省文を書いていることを知られたくないため、僕は端の方の席に座った。リュックを隣の椅子の上に置き、筆箱からシャープペンシルを取り出す。


 文章を書く前は憂鬱な気分になるが、書くこと自体は苦ではなかった。むしろ好きな方だ。さっさと仕上げて帰ろうと思い、シャープペンシルを原稿用紙に当てた。


 文章を書き始めると、スラスラと書く内容が頭をよぎった。最初は全体的な謝罪から入っていった。次に、朝の眠気がある状態で判断能力が鈍っていたこと。信夫の後ろをついて行った時に、行き先を聞かなかったこと。立ち入り禁止の場所だと分かっていて、信夫の後ろをついて行ったこと。原稿用紙の量が多いため、とにかく細い所まで書いていこうと思った。


「小林?」


 集中して書いていると、突然誰かの声が聞こえてきた。我に返り後ろを振り返る。するとそこには、真柴君が立っていた。


「真柴君」


「反省文書きよんか?」


「うん。そう」


 真柴君とは今まであまり話したことがない。眼鏡をかけていて、クールな印象だから話しかけづらいのだ。それにスープの事件もあったため、気まずくて僕から話しかけることができていなかった。


「一昨日も色々あったみたいやしな。大丈夫か?」


「うん。何とか大丈夫」


 真柴君は僕を心配そうな目で見てくる。どうやら学園祭の件で、僕を恨んでいる様子はなさそうだ。


「それにしても量多いなこれ。本村鬼畜すぎるやろ!」


「まあ。仕方ないよね。出されたら書くしかないし」


 真柴君が原稿用紙を一枚ずつ始める。そして最後の十五枚目の所で、めくる手を止めた。


「これ終わったら一緒に帰ろうぜ。確か帰り道同じ方角やったよな? 俺、小林が終わるまで教室で待ちよるけん。どう?」


「え? もちろんいいよ」


 真柴君から帰りを誘われたのは、内心とても驚いた。だがそれと同時に、嬉しい気持ちもある。一人でも仲間ができれば心強いからだ。


「オッケー。じゃあ教室で待ちよるな」


「うん。終わったらすぐ行くね」


 真柴君が軽く手を挙げて教室の方へ戻っていく。早く反省文を終わらせようと、僕は再びシャープペンシルを手に持った。


        *


 最後に締めの言葉を書き、長かった十五枚の反省文を書き終えた。今朝の居眠りのことも書いたため、何とか文字数を稼ぐことができた。


 だがそれでも、書き上げるのに五時間半もかかった。中庭の時計は、六時半を指している。外はもう既に薄暗くなっていた。


 僕は本村の指示通り、反省文を緑色のかごに入れた。筆箱をリュックに入れて、それを肩に背負う。


 廊下を歩きながら、職員室の中をチラッと見た。本村はパソコンで何かの作業をしている。かごに入れたから大丈夫だろうと思い、僕はそのまま真柴君が居る教室へ向かった。


        *


「お待たせ」


「終わったか?」


「うん。何とか終わった」


 教室の中には、真柴君ともう一人、女子の荷物が置かれたままになっていた。真柴君が荷物を肩に背負う。


「まだ誰か残っとるし、そのまま帰るか」


「そうやね」


 真柴君が置かれたままの荷物を見ながら言った。鍵を閉めるのは最後の人という決まりがある。だからそのままで良いと僕も思った。


「廊下相変わらず暗いな」


「うん。いつも暗いね」


 真柴君が僕の前を歩きながら言った。学校の廊下は昼間でも薄暗い。先程の教室の電気のせいで、余計に周りが見えにくかった。


 玄関で靴を履く。そしてそのまま外に出た。すると生暖かい風が、フワッと僕を包み込んできた。


「明日からゴールデンウィークやな」


「そうやね。四日間やったっけ?」


「そう。四連休や」


 真柴君の言葉で、明日から何をして過ごそうか考えた。課題はそれなりに出ている。しかし勉強以外に何も思いつかない。ショックがあまりにも重なり、何もしたくない気分だった。


「真柴君は何するん?」


「俺は宇和島の別荘に行って、海を眺めながら過ごすよ」


 真柴君が、少しだけ笑みを浮かべながら言った。


「そうか。それも良いね。じゃあ僕も別荘で過ごそうかな」


 僕たち小林家の別荘は、新居浜市の別子にある。真柴君家とは正反対で、山の中にある別荘だ。


「色々あったしな。休みの日くらいはそうでもせんと、やっていけんよな」


「そうやね」


 その時、僕はスープの事件について、真柴君がどう思っているのか気になった。聞きづらかったが、チャンスは今しかないと思った。


「真柴君はスープの事件のことどう思っとる?」


 真柴君の顔が、少しだけ険しくなった。その表情を見て、やはり僕を恨んでいるのかと思い怖くなった。


「結論から言って、俺は影山を恨んどる」


「え?」


 真柴君の意外な言葉に僕は驚いた。


「噂が広まり、クラスでは二極化が進んどる。小林がやったと思っとる派と、影山の親子がやったと思っとる派や。だがな、日頃の態度や様子から見て、俺は絶対お前じゃないって思ったんや」


「真柴君」


「それにあの事件は、自らスープを飲んだ俺にも責任があると思っとる。その場の軽いノリで飲んでしまった俺にも非が——」


「ウウッ……クッ」


「小林?」


 真柴君の言葉に、僕は思わず涙が出た。道についている街灯の明かりが、涙で激しく揺れる。


「……ごめん。将太が亡くなったのも、池野さんが転校したのも、全部全部自分のせいやと思っとって——」


「小林!」


 真柴君がやや大きめの声で僕の名前を呼んだ。


「自分のせいにはするな。お前は何も悪くないんやけんな。影山とかクソ教師の本村なんか真に受ける必要ない」


「真柴君」


 僕は真柴君の真剣な表情に、一気に信頼感が増した。真柴君は僕の味方だ。僕の暗い気持ちに希望の光が差した。


「でも影山は、汚い手口も使ってくるもんな。それにギャーギャー騒ぎ立てる本村。腹立つよな」


「本当それ。僕ももう限界だよ」


 目から溢れる涙を手で拭う。学校に味方がいない状態だった僕は、本当に嬉しかった。


「なあ小林。この際俺たち手を組まないか?」


「そうしよう。ありがとう真柴君。一人でも仲間がいてくれたら僕も心強い」


「おー。それにしても、俺たち同じような境遇やのに、もっと早い内から仲良くなっとったら良かったな」


「そうやね。本当、僕たち何しよったんやろうね」


 真柴君のお父さんは、松山花星の社長だ。どちらも家族が百貨店を営んでいるという共通点がある。それなのに何故、もっと早く仲良くなっていなかったのかと、その時僕も思った。


「じゃあ。俺向こうやけんじゃーな。一先ずゴールデンウィークを満喫しようぜ!」


「うん。ありがとう。またゴールデンウィーク明けに会おうね」


 真柴君が手を振り、大通りの方へ向かって歩いていく。僕も手を振り返し、再び住宅街の中を歩いていった。


        *


「ただいま」


「お帰り! コウ君大丈夫だった?」


 玄関に入ると、時さんが真っ先に出てきた。それに少し遅れて、奥から母さんも出てくる。


「広樹。お帰り」


「ただいま。時さん、母さん」


 母さんが、リュックを肩から下ろそうとしてくれている。


「時さん。広樹の晩御飯の支度お願い」


「もうできておりますよ。コウ君上がって」


「ありがとう。時さん」


 僕は玄関から直接台所へ向かった。


「今日は焼き魚と納豆に、ご飯と味噌汁よ」


「ありがとう! 時さん」


 時さんから食事が乗ったおぼんを受け取った。昼もあまり食べていなかったため、魚の良い匂いが僕の食欲を掻き立てた。


「いただきます!」


「召し上がれ」


 時さんの焼き魚を一口食べた。塩で味付けされた魚は、中の方まで味が染みている。


「美味しい!」


「良かったわ!」


 時さんが嬉しそうにしている。すると母さんが、心配そうな表情でダイニングルームに入ってきた。


「広樹。反省文を書きよったって、大丈夫やったの?」


 母さんが椅子を引いて、僕の前に座った。


「大丈夫よ。この前の屋上に上がったことについて書かされただけやけん」


「そうなん? でもあれは、影山の息子の後をついて行っただけやろ? もちろん影山の息子も書いてたわよね? じゃないとおかしいわ」


 母さんが心配そうに眉をひそめた。


「いや、信夫は今日休んどった」


「まあ本当? よりによって今日休むなんて。母親が逮捕されたけんかしら? それにしても本村先生は、影山親子の肩ばかり持っているような気がしてならないわ」


 母さんの言う通り、本村は影山親子の肩ばかり持っている。あの親子こそ本当にヤバイ奴らなのに。本村の考えていることが全く分からなかった。


「まあ。今回の件はこれで解決したけん大丈夫よ。それより母さん、明日から四日間別子の別荘へ行きたいんやけど」


「まあ。あんたから言い出すなんて珍しいわね。いいわよ。将太君の事もあったし……。時さんお願いできるかしら?」


 後ろを振り返ると、時さんが笑顔で頷いていた。


「もちろんいいですよ。コウ君しっかり準備しておいてね」


「ありがとう。時さん」


 これで休みの間だけ、今まで起きた出来事から解放される。だが休み明けには、また鬼畜担任本村と信夫に会うことになる。そのことを考えると、とても憂鬱な気分になった。


 だが僕には、もう既に心強い味方がいる。僕は先程の真柴君を思い出した。そしてやはり大丈夫だと安心した僕は、再び時さんの焼き魚に箸をつけた。

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