第9話 絶望の淵

 意識が朦朧とする中、徐々に周りの音が聞こえてきた。薄暗い天井もはっきりと見え始める。隣では、何かの機械が規則正しく音を立てていた。


 その時、僕は病院のベッドの上で横になっていることに気が付いた。まだ肩に痛みが残っていたが、ゆっくりと起き上がる。


 個室の部屋で、左横には大きな窓がある。外は真っ暗だった。外が真っ暗であるため、もちろん部屋の中も薄暗くなっている。


 廊下から灯りが漏れている。そして誰かの足音がコツコツと近づいてくるのが分かった。その音は徐々に大きくなり、僕の病室の前で止まった。そして病室の扉の開く音がする。


「広樹! 目覚めたんやね!」


 その声は紛れもなく母さんだった。そして母さんは部屋の電気を点けた。部屋が一気に明るくなる。


「母さん」


「良かった。もう心配で堪らんかったんよ」


「ごめん。また心配かけさせて……」


 母さんの泣きそうな顔を見て、僕は罪悪感に襲われた。すると母さんは、ベッドの傍の看護師を呼び出す黄色いボタンを押した。


「いいんよ。それより大丈夫? 学校の階段から落ちたって聞いたわ。一体何があったん?」


 今日は仕事が休みだった母さんは、珍しく私服を着ている。見舞い用に置かれていた丸椅子を、僕の前に持ってきて座った。


 僕は今朝の信夫とのやり取りを少しずつ思い出した。


「学校に登校した時、信夫に呼び出された」


「またあの子に?」


「そう」


 母さんの二重瞼の目が一気に引きつった。


「何をされたん? もしかして突き飛ばされたん?」


「違うよ。そんな事はされとらん。ただ……口論になったんよ」


「口論?」


 その時、部屋がノックされて、若い女性の看護師が入ってきた。


「お目覚めですね。お体の具合はどうですか?」


「大丈夫です。肩がちょっと痛いだけです」


「分かりました。先生を呼んでまいりますね」


 慣れているせいか、看護師は事務的に僕の体調を聞いた後、早足で病室を出ていった。


「今何時なん?」


「9時半よ」


 母さんが手首に付けている腕時計を見ながら言った。この部屋には時計が置かれていない。


「あれから日付は変わってないわ。あんたは救急車で病院に運ばれてから、十三時間くらいは眠っていたのよ」


「そうやったんや」


「さっきの続きやけど、影山の息子と何があったん?」


 母さんが目を見開いて、軽く身を乗り出してきた。


「朝学校に行ったら、信夫に呼び出されたんよ。それで屋上に上がった。影山京子が逮捕されたやろ? 信夫はそのことを話し始めた。僕たち一家が不幸になればいいのにって言い始めて、それで色々口論になって階段から落ちたって感じ」


 母さんは僕の話を聞いて、呆れた顔をした。


「最後まで私たちの邪魔をするわね。あの親子は。広樹、転校を考えてもいいのよ。あの親子とは縁を切らないと危険よ」


「大丈夫。母親が逮捕されたけん、信夫もその内終わるやろう。それに環境が変わるのは嫌」


「―—そう? 今の学校のままで大丈夫なん?」


「大丈夫。心配せんでも、その内あの親子は終わるよ」


 昨日時さんと話していた時は、何となく安心できなかった。だが今朝、信夫の切羽詰まった様子を見て、影山親子はもう終わるのだと直感で悟った。


「失礼します」


 扉がノックされて、眼鏡をかけた中年の医師と、先程の看護師が病室に入ってきた。


「具合はどうですか?」


「肩が痛い以外、何ともありません」


「分かりました。肩は明日検査をしてみましょう。今夜は病院に泊まってください。今は何ともなくても、後になって痛みが出てくる可能性もあります。退院後、痛みが出てきたらすぐに病院に来てくださいね」


 眼鏡をかけた医師は、僕に穏やかな声で言った。


「分かりました」


「後で看護師が痛み止めを持ってきます。寝る前に飲んでください」


「分かりました。ありがとうございます」


「先生。どうもありがとうございました」


 僕と母さんがお辞儀をすると、医師と看護師も頭を下げた。そしてそのまま後ろを向き、病室を出ようとし始める。


「あの。お風呂には入っても大丈夫ですか?」


 僕は出ていこうとする二人を引き留めた。


「大丈夫です。今日は病院のお風呂を使ってください。ただ肩の痛みが酷くなったらいけないので、一週間ほどはシャワーにしてください」


「分かりました」


 僕が軽く頭を下げると、二人は病室を出ていった。


「母さんも今夜はあそこのソファーで寝るわ。そして明日、そのまま仕事に行くわね」


 母さんが、ベッドの斜め前の黄色いソファを指さして言った。


「あそこは寝にくいやろう? 僕は一人でも大丈夫やけん」


「駄目よ。母さんは大丈夫やけん。家でお風呂も済ませて来たし」


「分かった。ありがとう。じゃあ僕、お風呂に入ってくるね」


 僕がベッドから降りると、母さんは着替えの入った袋を僕に渡してくれた。


「廊下の左手にお風呂があったわ」


「分かった。行ってくる」


 病室の扉を開けて廊下に出た。静まり返っていて少し不気味だ。そのまま左に歩いていって、奥の白色の扉を開けた。中は手前に脱衣所と、奥にシャワーがあるだけだ。


 脱衣所で服を脱ぐ。そして僕は、シャワー室の中へ入っていった。


        *


 シャワーを済ませて脱衣所を出た。すると廊下の右横に、口髭を生やした男性が立っていた。スマートフォンを耳に当て、電話をしている。僕は驚いたのと同時に、その男性が誰かすぐに分かった。将太の父さんであるおじさんだ。


 目が合うと、丁度会話が終わったらしく、おじさんはスマートフォンを耳から離した。


「小林君!」


「おじさん!」


 おじさんは目を見開いてこちらにゆっくりと歩いてきた。


「どうしたん? もしかして、小林君入院しとるの?」


「はい。ちょっと学校で色々あって。もしかして将太は、ここに入院しているんですか?」


「ああ。ここの病室に入院しとる。でもまだ目を覚ましてないんや……」   


「そんな……」


 おじさんが指さした方の病室は、電気が消えていた。将太はまだ目を覚ましていないようだ。あの日から結構な時間が経つ。僕の心の中で、もやのように不安が広がっていった。


「小林君。学校で何があったん? お父さんかお母さんは居るの?」


 おじさんが心配そうな声で僕に聞いてきた。


「話し始めたら少し長くなります。お母さんが病室に居ます。呼んできてもいいですか?」


「もちろん。是非話がしたい。お母さんを呼んできてもらえるかな?」


「わかりました」


 僕は服とタオルの入った袋を右手に持ち、自分の病室へ向かった。


「母さん」


「何? どうしたの?」


 母さんが慌てて入ってきた僕を見て、驚いたように目を見開いた。


「将太のお父さんが廊下にいた」


「え?」


「出てすぐのところの病室に、将太が入院しとるらしい。母さんと僕で話がしたいって」


「本当に?」


「うん」


 僕は着替えをソファの上に置いた。母さんが自分のバッグを持って、病室を出ようとし始める。僕もその後に続いて、おじさんの元へ向かった。


        *


「藤崎さん!」


「こんばんは。小林さん」


 おじさんが母さんに軽く頭を下げた。


「将太君はこの部屋に入院しているのですか?」


「そうなんです。まだ目を覚ましていません」


「そんな……」


 俯き加減で言うおじさんの言葉を聞いて、母さんは心配そうに眉間にしわを寄せた。


「将太が中にいます。どうかお二人の顔を見せてあげてください」


「分かりました」


 僕は久しぶりに見る将太に、緊張感を覚えながら返事をした。元気だった時を最後に、まだ一度も姿を見ていないからだ。


 おじさんが病室の扉を開けて、カーテンの外側の電気を点けた。それに続いて、僕と母さんも病室に入っていった。


 おじさんがベッドの右側へ向かった。そして閉ざされていたカーテンを、ゆっくりと開けていく。


「将太!」


「将太君!」


 将太はベッドでたくさんの機械に繋がれ、口には酸素ボンベが付けられていた。顔にはほとんど傷は無く、頭に包帯が沢山巻かれている。


 僕の目から、涙がボロボロと流れ落ちてきた。隣で母さんは口元を押さえている。おじさんも涙を堪えながら、置かれていたパイプ椅子に座った。


「将太はあの日の事故以来、ずっと目を覚ましていません。頭を打ってしまったみたいで……。目覚めた後も、命が続くかどうか分からないと医者は言っていました」


「そんな……」


 僕は将太の顔を見て、影山京子の薄気味悪く微笑む姿が浮かんだ。あの女が起こした事故のせいで、将太は命の危機に立たされた。殺しても足りないほどの怒りが、マグマのように噴出する。


「学校側に聞いても、はっきりとしたことを教えてくれません。テレビと週刊誌の記事だけが頼みの綱で。一度警察の人が家に来て、事故の件でお話はしたのですが……。学園祭の出し物で事件が起きたり、PTA会長が監禁事件で逮捕されたり、一体何が起きているんでしょうか? 何か知っていますか?」


「おじさん……」


 僕は悔しさと怒りで、何から話し始めるか混乱した。


「広樹……」


 母さんが後ろに置かれていた二つの丸椅子を寄せた。僕がおじさんの隣に、母さんが僕の隣に座った。


「―—学園祭で起きた事件と、将太の事故は恐らく繋がっています」


「えっ? どういうこと?」


 僕の言葉を聞いた後、おじさんは目を見開いてこちらを見た。


「学園祭で僕は企画長をしていました。そして池野さんという女の子が副企画長をしてました。将太は僕たちを、学園祭の当日まで手伝ってくれていたんです。そして学園祭当日、記録を残すために池野さんのビデオカメラで会場を撮影しました。するとそこに、影山信夫の姿が映り込んだのです」


「影山信夫ってPTA会長の息子じゃ……」


「はい。そうです」


 驚きが隠せないおじさんは、顔を両手で塞ぎこんだ。


「——それで。それからどうなったの?」


「——影山信夫は、スープに大量の毒物を入れていました。それを担任の本村先生に見せようとしましたが、ちょうど充電が切れてしまって……。その時将太が、同じ充電器を持っていたらしく、池野さんは将太と一緒に充電器を取りに学校を出ました。僕は企画長の最後の打ち合わせがあったため、指定された教室へ向かおうとしました。その時です……」


 おじさんの顔がだんだんと強張っていく。この話を知っている母さんは、隣で目を閉じて眉間に皺を寄せた。


「少し離れた所から、影山京子がこちらを見ていました。恐らく奴は、一部始終を見ていたと思います。ですから事故を起こしたのも、影山京子だと僕は思います」


「そんな……」


 おじさんが深くうなだれる。そして再び顔を上げ、僕の方に視線を向けてきた。


「池野さんという女の子はどうなったん?」


「池野さんは転校しました。僕もどこに転校したのかは分かりません」


「そうか……」


 おじさんは再び俯いて、両手で顔をこすった。


「ですが影山京子は逮捕されています。このまま取り調べで、真相が徐々に明らかになる可能性があります」


 母さんが少しだけ身を乗り出し、下を向いているおじさんに言った。


「——俺たちの敵は、影山京子とその息子ですね」


 おじさんが将太を見ながらと呟いた。


「おじさん……」


「許せないです。何としてでも真相を突き止めたいです」


 おじさんの膝に置いた手は、怒りで小刻みに震えていた。将太の方を見て、僅かに涙を浮かべている。


「事件の解決に向けて、できることがあれば何でも協力します。私たちもあの親子には散々にやられてきたので」


 母さんも影山親子を恨んでいる。影山親子への憎しみを込めて、おじさんに言った。


「ありがとうございます。とりあえず、事の発端とあらすじが知れて良かった。小林君もありがとう」


 おじさんは座ったままの状態で、僕たちに頭を下げてきた。


「そんな。私たちまだ、全然力になれていないのに」


 母さんが少し戸惑ったような表情を浮かべた。


「いえ。発端とあらすじが知れたため、一歩前進できました。本当にありがとうございます」


「おじさん。僕もできることがあれば、何でもします」


「ありがとう小林君」


 おじさんの顔をしっかりと見た。そして僕は、絶対に事件を解決し、影山親子を牢獄に閉じ込めることを、改めて決意した。


        *


 翌日。朝ご飯を済ませた後、母さんは仕事に行った。僕は医師の指示のもと、精密検査を受けた。


「特に問題は見当たりませんでした。様子見で大丈夫でしょう。今日で退院して大丈夫です」


「ありがとうございました」


 僕は一安心して診察室を出た。そしてそのまま自分の病室へ向かう。


 エレベーターの上のボタンを押すと、すぐに扉が開いた。中に入り、七階のボタンを押す。扉が閉まり、エレベーターが素早く上昇し始めた。


 七階に到着し、ゆっくりと扉が開く。降りた先に、血相を抱えたおじさんが見えた。僕は将太に何かがあったことを一瞬で悟った。


「おじさん!」


「小林君。将太が目を覚ました」


「え? 本当ですか?」


「——でも……。もう長くはないみたいだ」


 おじさんの大きな目から、涙がボロボロと溢れてきた。僕は言葉を失い、エレベーターホールの前で茫然と立ち尽くした。


「最後に、将太に会ってやってくれないか?」


 僕も目頭が熱くなり、一気に涙が溢れた。そして走って、将太のいる病室へ向かう。


「広樹」


 病室から弱々しい声が聞こえてくる。カーテンの向こう側に、目を覚ました将太の姿があった。


「将太……」


 僕は将太の隣に駆けつけた。


「―—俺はもう生きれんみたいや」


 将太の瞳から涙が溢れた。


「何言いよるんぞ。将太はまだ生きる。退院して、また一緒に登校しよう。一緒に授業を受けて、お弁当も食べよう」


 涙が止まらない。将太の掛けている布団を、落ちていく涙で濡らす。


「ごめんな広樹。ごめんな。俺の親友は広樹一人だけやけんな」


「僕も親友は将太一人だけやけん。スポーツもできて、勉強もできて、顔も良くて、女子からモテる将太を僕は尊敬しとったぞ」


 将太との思い出が一気に溢れ出る。高校を入学してから、最初に声をかけてくれたのは将太だった。友達がなかなかできず、困っていた僕に話しかけてくれたのだ。そのことを思い出した僕は、涙が滝のように溢れ出た。


「将太!」


「父さん」


 おじさんが病室に入ってきた。


「将太の好きなシュークリーム、買ってきてやったぞ! ほら旨そうだろ!」


 おじさんは笑っていたが、目からは涙が溢れていた。


「——父さん、広樹ありがとう。みんなに囲まれて俺は幸せ者だよ」


 将太がクシャっと笑い、ゆっくりと手を伸ばした。そしておじさんから、シュークリームを受け取った。しかし受け取った瞬間、シュークリームは手をすり抜けて床に落ちた。


「将太!」


 おじさんが声をかけるが、将太の目はゆっくりと閉じ始めた。隣の機械がピーっと音を立てる。そこにはゼロと記されていた。


「将太!」


 僕も声をかけるが反応がない。するとおじさんが、将太の体を揺さぶり懸命に声をかけ始めた。だがそれでも反応はなかった。僕とおじさんは、絶望の淵に突き落とされ、ただただひたすら涙を流した。


 二〇一五年五月一日、将太は僕たちに囲まれ、十七歳という若さで静かに息を引き取った。


        *


「今日で退院するみたいね」


 僕は現実を受け入れられないまま、自分の病室で退院の準備をしていた。病室には、僕の様子を見にきた本村が座っている。


「先生。将太が——」


「どうしてこんな事になったか、ちゃんと分かっているかしら?」


 本村が細い目をさらに細めて、僕に淡々と聞いてきた。


「事の発端は紛れもなくこの前の学園祭からよ。あなたが企画長としてしっかりしてこなかったからこんな事に——」


「もうやめてください。僕だって好きで企画長したわけじゃないし、好きでこんな状態を招き入れたわけじゃないんです。もういい加減にしてください!」


 僕は泣き叫びながら本村に言った。だが本村は、表情一つ変えず黙って僕を見てくる。


「叫ぶ元気があるなら、明日からちゃんと登校できるわね? もし明日休んだら欠席扱いにするわ」


 本村の冷淡ぶりに、僕はその場で固まってしまった。本村はスクッと立ち上がり、病室を出ようとしている。そして後ろを向いたまま、扉の前で立ち止まった。


「屋上の立ち入り禁止の場所に無断で入った件、明日学校でじっくりと話を聞かせてもらうわ」


 本村が冷淡に言葉を吐き捨てて、病室を出ていく。病室の扉の勢いよく閉まる音が、僕の絶望をさらに助長させた。

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