第1話 始まりの予感
朝がきた。ベッドの横にある目覚ましの音が、けたたましく部屋に鳴り響く。
今日は土曜日。僕が通う
目を擦りながら自分の部屋を出た。隣の部屋のドアを開けて中を覗く。父さんと母さんの部屋だ。二人はもうとっくに仕事に行っていた。
僕たちは、愛媛県松山市にある地方百貨店の
多忙な二人は、毎朝早くに出勤している。起きるといつもいないのは、日常茶飯事だった。
ダイニングルームに近づくと、朝ごはんの匂いがしてきた。
時さんはこの家の家政婦さんで、
「おはようコウ君」
「おはよう時さん!」
ダイニングルームの中に入ると、時さんが笑顔で挨拶してくれた。
「今日は学校お昼まででしょ?」
時さんが焼けた食パンをお皿に乗せている。
「そうよ」
僕が椅子に座り、目玉焼きを食べながら言うと、時さんはニコッとした。
「お昼も作っておくから一緒に食べましょ」
「ありがとう!」
あまり言えないが、時さんの料理は母さんのよりも美味しい。お昼も食べられると思ったら、ワクワクが止まらなかった。
*
「行ってきまーす」
「行ってらっしゃい」
朝食を食べて、身支度を済ませた後、僕は玄関を出た。時さんが洗い物の手を止めて、お見送りをしてくれた。
季節は春。周りの空気もだんだん暖かくなり、新芽の匂いが漂う。セキュリティーのかかった鉄の門を開けて、外に出た。
皮肉な事に、家の前にはライバル地域一番店の
横断歩道の向こう側から手を振ってくる人がいる。僕の親友の
「おっはよー広樹」
「おはよー将太」
将太は相変わらずテンションが高い。朝から顔が生き生きとしている。
「昨日の宿題できた?」
「できたよ。将太はした?」
将太がニヤッと笑った。
「俺は朝のホームルームまでに仕上げるけん大丈夫よ」
「それヤバイやん。結構多かったよ。大丈夫なん?」
「大丈夫大丈夫」
将太はいつもこの調子だ。でも要領が良いから、さっさと終わらせることができるのだろう。僕はそんな将太が、少しだけ羨ましかった。
*
話しているうちに教室の前まできた。僕たちは同じクラスだ。
教室に入り、自分の机の上に荷物を置いた。将太も自分の席に着き、宿題を広げている。
「小林君おはよう」
宿題を一生懸命解き始めた将太をボーっと見ていると、池野さんがにこにこしながら僕の目の前に現れた。
「お、おはよう池野さん」
僕はドキッとした。同じクラスの
「この前、小林君から借りた本面白かったよ! ありがとう!!」
池野さんが目を輝かせながら、本を両手でさっと返してきた。
「それは良かった。池野さんに気に入ってもらえたらそりゃ……」
「えっ……?」
池野さんが首を傾げながら、不思議そうに僕を見る。
「な、何でもないよ! 気に入ってもらえて良かったなって思って……」
つい大きな声が出てしまい、僕は周りを見渡した。どこからか視線を感じる。すると視界に、将太が飛び込んできた。
将太がニヤッと笑って、ヒューヒューという素振りをしている。池野さんの目の前で、僕は顔が熱くなってしまった。
「おすすめの本あったらまた教えてね」
池野さんは、にこっと笑って自分の席に帰っていった。僕と池野さんの席は残念ながら遠い。
「うん。また?……え? また!」
僕はパーッと心が晴れて嬉しくなった。だが将太がまだ僕を見てくるので、平静を装った顔をした。
将太の隣では、静かに本を読んでいた根暗でマザコンの
*
チャイムが鳴った。ホームルームが始まり、担任の
「みなさんおはようございます! みんな、どう?」
本村が笑った。時々機嫌が良いときもある。土曜日だから機嫌が良いのかもしれない。
「今日はお知らせが特にないから、みんな一限の古典の用意、しっかりしておいてね」
お知らせがないときは、いつもこの流れだ。僕は憂鬱な心持ちで、一限目の古典の教材をカバンから取り出した。
*
一限目以降の授業は、着々と終了していった。二限目に英語、三限目に現代文、四限目に数学。どの授業も長引いたため、休み時間はあまりなかったものの、意外と早く放課後になった。
僕は荷物を持って、すぐに将太の机に向かった。将太が自慢げにガッツポーズをしている。
「俺、今日も朝の内に宿題終わった」
「え? 本当? それは凄いね!」
「どうだ。凄いだろう?」
将太が誇らし気な顔で僕に言った。今日も朝の内に宿題を終わらせたようだ。あれだけの量を解くなんて驚きだ。
その時、僕はお腹が空いたせいか、反射的に教室の時計を見た。時計は十二時半を差している。
「じゃあそろそろ僕は帰るね」
「おう。俺は飯食って部活行ってくる」
将太は陸上部に所属している。土曜日も部活があるなんて凄いなと、帰宅部の僕はいつも思っていた。
「頑張って。じゃあね」
「おう。じゃあな! 帰宅部の広樹!」
「その呼び方止めろ」
僕は将太に手を振った。将太も椅子に座ったまま、笑いながら手を振ってくる。僕は教室を出て、そのまま階段の方へ向かった。
将太の冗談は何故か親しみが湧く。きっと根は優しく、憎めないからなのだろう。そしてそれが、人気者の秘訣なのだと僕は思っていた。
それよりいよいよ、時さんの昼ご飯が食べられる。僕はもう半分の階段を降り、急いで靴箱へと向かった。
*
「コウ君お帰り!」
「ただいま時さん!」
家に帰ると、中からミートスパゲッティの匂いがした。玄関に荷物を置いたまま、ダイニングルームへ向かう。
「いただきます!」
「召し上がれ!」
テーブルの上には、すでに料理が並べられていた。ミートスパゲッティとサラダが置かれている。時さんの料理はアットホームな味で、美味しくない料理は一つもない。
「今日は学校どうだった?」
時さんが、くるくるとスパゲッティを巻きながら聞いてきた。
「いつも通りやったよ。でも今日は、時間の流れが早く感じた」
「授業集中していたら、時間って結構早く経つものね」
「今日の授業は集中して聞いたよ。眠くならんかった」
「偉いわ。その調子よ」
スパゲッティを口に入れた。ミートソースの味付けが最高だ。甘いような、少し酸っぱいような香りが口の中に広がる。
「おいしい!」
「良かったわ。ミートソースがちょっと自信なかったの」
時さんが安心したように言った。自信がなくても美味しいのだから、自信のある料理はさらに美味しい。時さんは料理のプロだ。
「あ、そうそう。今日もお父さんとお母さん遅いみたいよ」
父さんと母さんは今日も遅いようだ。僕はこの前、父さんに言ったことを時さんに言ってみようと思った。
「僕はもう、日光屋はデパートなんて辞めてしまえばいいと思うんやけど、時さんはどう思う?」
日光屋は苦境が続いている。実際父さんにこれを言ったら怒られてしまった。「昔からの百貨店の伝統を壊すのか」と。
しかし現在、郊外のショッピングモールのオープンや、ネット通販などが幅を利かせており、百貨店は押される一方だ。特に構造改革に出遅れる地方百貨店は、閉店、倒産に追い込まれる。
時さんが、飲んでいたグラスをゆっくりと置く。そしてそのまま、僕の方を見た。
「そうね。確かに今は不景気よ。時代の流れというのもあるし……。百貨店を残しつつ、それを補う何かを始めないといけないと私は思うね。でもお父さん、結構頑固だからね」
時さんが最後、小さい声で苦笑いしながら言った。
とにかく、どうにかしないと僕たち一家は路頭に迷うかもしれない。解決策はいくつかある。だがそのほとんどは、過去のやり方やプライドを捨てなければならないものだろう。僕は内心そう思っていた。
*
「ごちそうさまでした。美味しかったよ!」
三十分が経った頃、僕は今日も残さず完食した。とても美味しいため、体調が悪いとき以外時さんの料理を残したことがない。
「嬉しい! 今日も綺麗に食べてくれたね!」
「本当に美味しかったよ! また食べたい!」
「ありがとう。また作るわね」
時さんが嬉しそうにしている。喜んでくれて良かった。時さんの姿を見て、僕も自然と笑みがこぼれた。
それから僕は、ダイニングルームを出て、玄関の方へ向かった。置いたままの荷物を持ち、二階へ上がる。
階段を上り終え、自分の部屋の扉を開けた。そして中に入って荷物を置き、そのままベッドに倒れ込む。今日は早起きだったため、少し疲れてしまった。
体の力を抜き、目を瞑る。そしてそのまま、僕は深い眠りへと落ちていった。
*
目を覚ましたのは、夕方の五時だった。思ったより疲れていたのか、深く眠っていたようだ。
外から雨の音が聞こえてくる。日暮れが重なって、部屋の中は薄暗くなっていた。
僕はベッドから降りて、自分の部屋を出た。二階の洗面所で軽く顔を洗い、下へ降りる。
「あら。コウ君起きたの?」
「寝すぎたよー」
僕は大きく伸びをした。どうやら時さんは、帰る用意をしているみたいだ。
「私もう帰らないといけないけど、コウ君一人でお留守番大丈夫? 雨も結構降ってるけど」
「大丈夫よ。もう高校生やけん」
時さんは、何歳になっても僕のことを心配してくれる。
「大丈夫ね。じゃあ何かあったら連絡してね。今夜はとんかつ作ってあるから、なるべく冷めないうちに食べてね」
「ありがとう。時さん」
時さんがエプロンを外した。そして後ろにくくったお団子を直しながら、外に出て帰っていった。
外の雨が、先ほどより少し強くなっている。雷も光り始めた。春の嵐だろうか?
少し早いが、冷めないうちに時さんのとんかつを食べてしまおうと思った。ラップに包まれたとんかつは、まだ温かかった。
お茶碗を出してごはんをつぎ、インスタントの味噌汁にお湯を注ぐ。時さんが作るとんかつも絶品なのだ。作り置きしていても、いつも新鮮さが残っている。
僕はラップを丁寧に外し、手を合わせた。
*
時さんの絶品とんかつを全て食べ終わった頃、急に甘いデザートが食べたくなった。疲れた時に、糖分が欲しくなることがある。冷蔵庫の中を探っても何も見つからない。
雨は先程より弱まっているような気がする。僕は、家の前の上松堂のデパ地下に何か買いに行こうと思った。本当は日光屋の方に行きたいが、歩いて三十分のところにあるから遠すぎる。
傘をさして外に出た。家の鍵を閉めて、扉の隣にある門のセキュリティーをオンにする。セキュリティーをしっかりしておかないと、街のど真ん中にある広い一軒家だから、誰が入ってくるか分からない。
門をくぐり歩道に出ると、ちょうど信号が青になっているのが見えた。左右を見て、車が来ていないか確認してから渡る。
雨がアスファルトを優しく濡らす。地面に当たった時に弾ける様子は、華麗なるおはじきのようだ。
そんな幻想的な光景を見ながら走っていると、すぐに上松堂の正面入り口まできた。傘をたたみ、小走りで中へ入る。
「いらっしゃいませ」
入ってすぐのインフォメーションカウンターにいる受付嬢が、笑顔で僕に頭を下げる。僕も軽くお辞儀をした。
最大手系列の
そして上松堂の隣には、松山市駅がある。その影響で、閉店一時間前にもかかわらず、仕事帰りの人達で賑わっていた。
インターナショナルブティックの売り場前を横切り、下りエスカレーターで地下の食品館へ向かう。一階のフロアが見えなくなり、代わりに地下の売り場が見え始めた。
地下もかなり賑わっている。だがやはり、その大半は仕事帰りの人たちだ。今日の夕飯のおかずでも、買い求めに来ているのだろうか?
エスカレーターを降りると、右側に向かって歩いていった。多くの人を交わし、やっとケーキ屋の前にたどり着いた。
美味しそうなケーキがたくさん並んでいる。どれにしようか迷っていると、目の前に突然誰かの顔がひょこっと現れた。将太だった。僕は驚いた。
「将太! 何しよん?」
「よっす! 部活の友達の家行ったついでにうろうろしよったんよ。日光屋のお坊ちゃまこそ、ライバルの上松堂で何しよんぞ?」
相変わらず元気の良い声だ。部活のユニフォームに、大きくて重そうなリュックを背負っている。
「そうやったんや。僕はさっき家で夜のごはん食べて、甘い物食べたくなったけん買いに来とんよ。ほら、ここ家の目の前やろ」
目の前のケーキに自然と視線が向いてしまう。今すぐにでも食べたい。
「なるほど。日光屋をついに裏切っちゃったと」
将太が冗談っぽく僕に言う。
「違うよ。違うって。家が目の前やけん」
「分かった分かった。今日は俺がジュースを特別に奢るよ。ジュースも甘い物やけんいいやろう?」
「本当!?」
棚ぼただ。今日は何だかついている。池野さんとも話せたし、時さんの美味しい料理も朝昼夜食べられた。そして将太に何かを奢ってもらうのは久しぶりだ。
*
それから僕たちは、ケーキ売り場から少し離れた所にあるジュース屋のカウンターに座った。将太が果汁百パーセントのバナナジュースを注文し、僕は百パーセントの温州みかんジュースを注文した。
「ありがとう将太。今日は何かついとる」
みかんジュースを口にした。百パーセントであるため、濃厚でとっても味が深い。
「池野さんとも話せたし良かったやん。早く告白せんと池野さん取られるんちゃうん?」
将太が僕を焦らせてきた。池野さんは、可愛いから誰かに取られる可能性もゼロではない。
「将太はいいよな。女子からモテて」
僕は勉強もスポーツも普通で、顔は童顔である。女子と付き合ったことなんて一度もない。
一方で将太は、顔がいいし運動神経も良いから女子からモテる。少し前まで、
「お前もアピールしたら十分モテるよ。池野さんにもっとアプローチしたら?」
「まあ。今度学園祭あるし。その時にでも近づいてみるか」
僕はあまり女子に慣れていない。気になる女子と話すと、しどろもどろになる。だから僕は適当に言った。池野さんを取られないか不安だが、それよりも池野さんに上手く近づける自信がない。
「それよりお前ん家のデパートどうなん?」
将太が話題を変えてきた。
「やばいよ。父さん何も変える気ないみたい。やけん十年後にはなくなってそう」
「やばくなったら俺んち来いよ。俺が面倒見てやる」
将太が手をグッとして誇らしそうに言った。僕は思わずジュースを吹きそうになった。
「お前母さんかよ」
まるで将太が母さんみたいだ。可笑しく感じた僕は、ジュースを手に持ったまま大笑いした。
*
ジュースを飲み終わった後、僕たちは上松堂を出た。外ではいつの間にか、滝のような雨が降っている。
「俺向こうやけんじゃーな」
将太が傘をさしながら僕に手を振った。
「ありがとう。ジュース美味かったよ」
僕も将太に手を振る。それから傘を差し、将太とは反対方向へ歩き始めた。
前の信号がちょうど青になっている。だがもうすぐで、点滅し始めそうだ。僕は歩幅を速め、急いで横断歩道を渡った。
するとその時、空が一瞬だけ明るくなった。雷だ。どうやら本格的に光り始めたようだ。それを見た僕は、早く家の中に入りたくなった。
家の門のセキュリティーを解除する。そして小走りで中へ入り、玄関へと向かった。
次にポケットに手を突っ込み、家の鍵を取り出した。そしてそのまま、急いで解錠して玄関の扉を開ける。
中は真っ暗だった。もちろん父さんと母さんは、まだ帰っていない。僕は手すりに傘をかけ、靴を脱いで階段へと向かった。
雨の音が、先ほどよりも激しくなり始めた。僕は転ばないようにしながら、駆け足で階段を上った。
自分の部屋に入り、電気を点けたその時、外からドカーンという音がした。雷が近くで落ちたようだ。部屋の電気がバチッと消えて、また点いた。
さらに追い討ちをかけるように、また近くで大きな雷が落ちた。さすがに怖い。何か嫌な予感がする。気のせいだろうか?
僕はその直感を無視して、自分の部屋のカーテンをピシャリと閉めた。
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