絡繰伝奇 オオエド・ダイバーシティ

@joshua_kaku

第一話:大江戸ダイバーシティ

大江戸ダイバーシティ(上)

 風津ふつがその日に買った女はくノ一だった。


「選べる道はふたつにひとつ。己が意思によって拙者と共に来るか、はたまた意識朦朧のままに従うか、でござるよ」


 それもである。

 酒はさほど飲んでいたわけではないが、悪酔いでもしてしまったかとすら思った。

 くノ一は黒い髪をひとつに縛っており、それが吹き込む風によって揺れている。

 その中で微塵も動かぬ小刀と、もう一方の手に結ばれている刀印を見るからに相当な手練れであることは確かだ。

 自分の背後を見やれば、倒れているのは童ほどの歳の女たちである。いずれも禿という、女郎屋の見習いたちである禿だ。

 何も科を作って誘っているわけではない。

 不揃いに向く脚を見るに、意識を失っているようだった。

 襲い掛かってきた彼女たちを、手にした簪でどうにか捌いたものの、くノ一は未だ健在である。


「おめえ、騙しやがったな」

「これは異なことを。ここは台場町一の遊郭、男は金を払ってまで騙されに来る場所でござるよ」

「俺がいくら払ったと思ってんだ!」


 情けなくも涙目になりながら風津はそう叫ぶ。

 窓から入ってくる涼やかな風が慰めるように頬を撫でたが、風前の灯である風津の心には逆効果だった。

 いまごろ有頂天にも上る思いを味わっていたはずの自分がなぜ、このようなことになってしまったのか。

 太夫に扮したこのくノ一が見せていた、夢見心地の頃に風津は思いを馳せる。



 *   *   *



「ねえ、お願いがあるのだけれど」


 風津にしなだれかかるさんがそう言った。

 酒をあおりながら、じろりと遊女の表情を見た。

 遊郭において、手の届かぬ存在として語られる太夫たゆうという地位にいるこの女は、豪奢であった。

 その容貌は天女のごとし、所作は姫のごとしという謳い文句だった。

 身に纏う着物などは竜宮より賜ったと言われても、嘘偽りであると笑うことはできまい。

 そんな女を相手に話ができるのは限られた者だけであり、大商人だろうが大名だろうが幾ら金を積んだところで、雑談をそこそこに切り上げられ、俗に「フラれる」のだ。

 そんな彼女が、頼みごとを申し出たのだ。

 ついに来た、と風津が思う。

 己の天下の時分である。この大波に乗らない手はないだろう。


「ほう、ほうほう。願い事とな」


 風津は問いかける。太夫はふふ、と笑った。

 見慣れた笑みである。

 数度、この見世の前を通っては眺めていた顔である。

 しかし、このときばかりはより深いものに見えた。

 妖しげに潤む瞳を見れば、男であれば誰もが言うことを聞いてしまうだろう。

 ならばこそ、自分以外の男に声をかけるよりも前に、自分が応えなければならないと風津は思う。

 一方で、焦りは禁物である。変にがっついてしまえば、男としての器の底も知れるというものである。

 少しずつ、彼女の気を許していかねばならない。

 太夫の髪にはいくつかの簪がつけられていた。

 ひとつは、この日のために風津が用意したものである。sそれを身につけていることは、脈あり、というやつだ。


「どれ、俺に聞かせてごらんよ。お前の望むことなら、俺はなんだってできるよ」

「さすがは名に聞こえし風津さま……頼もしい限りですわ」


 太夫はそう言った。よせよせ、と言いながらも満更でもない風津である。

 一度だけ、じっと太夫は風津の瞳を見つめる。その目に浮かぶ自分の顔は、こころなしか凛々しく見えた。

 艶やかな唇が耳元に寄せられる。囁かれたのは、彼女の願いだった。


「殺したい男がいるの」


 その願いは、女が口にするにはあまりに不穏なものだった。

 しかし風津はそれを疑わない。

 むしろ、遊女ともなれば鬱陶しい男のひとりやふたりいるのも当然だろうとすら考える。

 お前の愛はどれほどかと試されているのだ、と風津は思った。


「へえ、それはどんな男なんだ? 支払いが悪いやつか? 礼儀作法もなく、詰め寄るようなやつか? それとも、ああ、お前と寝るときに手酷い仕打ちを加えるようなやつか。いや、言わんでもいい。どこの誰だか言ってくれれば、すぐに斬ってやる。お前も知っての通り、刀の腕には自信があるんだぜ?」

「もちろん。だからこその頼みでございます。その男の名は永尾格次郎。ご存知? いいえ、存じ上げずともよいこと。私の言うことさえ聞いていただければ、それでいいのです」


 風津の顎を、ついと太夫の指がなぞった。

 ふわりと香る匂いが、風津の理性を揺るがせる。

 珊の言うことへの興味と、己の内にあるわだかまりがせめぎ合う。爆発寸前もいいところだが、ぐっと堪えた。


「力を抜いてください。ええ、今宵はゆっくり過ごしましょう。少しばかり、長い夜になるでしょうから……」


 言葉に従い、息を吐いて力を抜く。酒も回ってきて気分もよくなっていた。

 この晩はさぞかし良い奉仕をしてくれるだろう。珊の柔らかい身体のことを思い出しながら、右手を己の柄に手をかけようと手を伸ばす。

 しかし抜いたのは、珊の簪であった。簪を鋭く、珊のいた場所を突き刺すが、貫いたのは彼女の服のみである。

 目を見開いた珊が軽やかな身のこなしで後ろに飛び退く。重い着物の下には忍び装束があった。


「であえ、であえ!」


 珊がそう言って、指に印を結んだ。

 同時に飛びかかってくるのは、風津の背後で座していた禿たちである。

 未だ客をとったことのない幼い少女たちは、正しい意味で風津へと襲いかかったのだ。

 風津は簪を再度振るう。横一線の閃きはぷつり、と糸を切った。

 天井より垂らされていた鋼の糸を断ち切ったのである。もとより意識などなかった禿たちが風津の前に倒れる。

 訪れた静寂を引き裂いて、太夫であった女は風津に向けて拍手を送った。


「お見事! 酒が入れど技の衰えはいささかもなし。赤鬼の異名は伊達ではござらぬな。それも、我が術をこうも容易く破ってしまうとは。いかにして我が術を見破ったか、皆目見当もつかないでござる」

「臭うのさ、妖しい臭いがよ。俺を惑わそうとした術から漂う臭いは、あの禿たちからもしてたのさ」

「むう、なんという嗅覚でござるか」


 しかし、と女忍者は言う。


「それでも状況は変わらぬ。ここで声を出せば、おぬしはこの街には居られぬ御用者でござる。選べる道はふたつにひとつ。己が意思によって拙者と共に来るか、はたまた意識朦朧のままに従うか、でござるよ」


 そうしてはじめの言葉が発されたのである。

 いくら払ったと思ってんだ、と言った風津を冷めた目でくノ一は見る。それが余計に、風津の心を傷つけた。


「くノ一め、狙いを答えてみろ。自慢じゃねえが、俺は人に付け狙われることはごまんとしてきたが、わざわざしのびを雇ってまで俺を殺めようとするような輩に喧嘩を売った覚えはないぜ? むしろ、媚びを売って生きてきた」

「本当に自慢にならないでござるな!?」


 胸を張って言った風津に、くノ一は呆れたように言った。

 こほん、とわざとらしく息を吐いたくノ一は小刀を納めて、正座をし衣服を正す。


「おぬしを試すような真似をしたことは深くお詫び申すでござる」

「試すじゃ済まなかったよな?」

「だが、先ほどの願いというのはまったくの嘘ではないでござる」


 風津の言葉などまったく聞かず、くノ一は言った。

 先ほどの願いというのは、永尾格次郎を殺めたい、というものだった。


「この町で永尾と言えば、職人先生じゃないか」

「ご存知であったか」

「ここは天下の台場町、南蛮渡来の絡繰技術の職人とあらば、名を知らぬわけがない」


 台場町は江戸の膝下、湾に作られた人工島であった。

 島原の乱によって奪われた九州にある出島に代わり、第二の出島として南蛮との窓口として作られたのがこの台場であった。

 ただの貿易拠点ではない。南蛮よりやってくる技術、とりわけ医学や絡繰技術などは、ここに集積されていく。

 過去においては島原の乱にて裏切った葡萄牙ポルトガル、いまでは和蘭オランダの商人や技術者、学者を管理し、基督キリスト教の流入を防ぐ。

 その成果を、徳川幕府が取り込んでいくというのがこの町であった。


「そんな職人先生を斬ってみろ。明日の朝日が拝めればいいもんよ。そんな奴を斬れってのは、どんな事情だ」

「永尾格次郎こそが、徳川に仇なす者であるがゆえ。確たる証拠もあればこそ、このようにして頼んでいるでござる」


 いたって真面目にくノ一は言った。彼女は生真面目な質であると風津は受け止めていた。その言葉に嘘偽りはないように見える。

 そして、その言葉から、風津はくノ一の正体を知った。


「おめえ、公儀隠密か。ああ、くそ、いやな奴に絡まれた」


 天下をとった徳川に仕え、戦国の時代において培った技の冴えを幕府のために活かす者たちである。

 当たり前に暮らしていればその存在も目にすることない者たちであるが、よりにもよって仕事の手伝いをせよときたものであるから、風津もため息を漏らす。

 忍を雇った者であるどころか、忍の大元締めである。

 

「ならばその勇名を恨むが良いでござるよ、風津殿。“台場町の赤鬼”といえば、奇怪なる秘剣の持ち主であると聞かされておる。まさにその剣の腕を買って、拙者はこうして参った次第。主人からは、拙者が見込むほどの腕前であれば破格の待遇で迎えよと申し付けられ、金銭もきちんと用意があるでござる」

「もういいもういい、今日は終いにしようぜ。残業はしない主義だし、酔いも醒めちまったぞ、クソッ」


 悪態をつく風津は、転がっているお猪口を手にした。すかさずくノ一は近寄ってきて、徳利を傾けて酒を注ぐ。

 その姿を見て、はたと気づくことがあった。


「それで、本物のお珊はどうしたんだ? 俺はあの女に用があるんだ。おめえになんか構ってる暇はねえ。いや、ここにいねえってことは、おめえが何かやったんだろう。ことと次第によっちゃ、ただじゃおかねえぞ」

「いまごろ彼女は海の上でござるよ」

「は? それはいったい、どういうこった。やっぱり手を出したんじゃねえか」

「今日が初めての客であるおぬしが知らぬのも道理でござる」


 珊は酒を飲むように勧めた。風津もまた、呑んでいなければ聞いていられない予感がして、お猪口の中を一気に飲み干した。


「珊太夫はかねてより、懇意にしていた客である南蛮渡来の御仁と足抜けを画策していたでござる。しかし相手はそろそろ帰国の時期となり、二度と会えぬ仲となると。そこで拙者は両人に提案したでござる。太夫と拙者が入れ替わることによって、珊太夫は南蛮の御仁と海を渡る。これにて、恋がひとつ成就し、拙者もおぬしをたぶらか、おっと、説得する足がかりを得るというものでござる。めでたし、めでたし」

「まだ死んだと聞かされた方がマシだった……」


 珊が再びお猪口に酒を注いだ。風津はそれを受けて、鹿威しのようにまた酒を呑む。

 

「それで依頼のことでござるが」

「なんだよ、今日は終いだって言ったはずだぜ。こちとら失恋の痛みで酒にでも溺れてねえとやってられねえんだ。話は後でいくらでも聞くから放っておいてくれ」

「そうはいかないでござる。なにせ、永尾格次郎が江戸へと仕掛けるのは、今日この晩でござるからな」

「そういうことは早く言えよ!」


 風津はそう言って、お猪口を置いた。


「おお、受けていただけるでござるか!」

「おめえのせいで損した分は取り返さなければいかん。それで、俺が遊女を買うために費やした以上の金はもらえるんだろうな?」

「小さい男でござるな!?」

「俺だってな、本気だったんだからな!」


 いまにも泣き出しそうな風津に、くノ一はどうどうと馬をあやすようにさすった。

 一目惚れであったのだ。見世の前を通ったときに、おっ、と思わずにはいられなかった。

 暗い日々を彩る光のひとつのようにさえ感じられたのだ。

 ふう、と風津は息を吐く。過ぎたことは仕方ない。気持ちを切り替えて次に備えるのが肝心だ。

 なによりこのござる口調のくノ一に慰められている自分がすごく情けなかった。


「それで、忍者娘、おめえの名はなんだ?」

「はっ、申し遅れました。しかし、珊という名も嘘ではござらぬ」

「身分を買ったからか? いやいや、本来の名もあるだろうよ」

「任務に応じて自らの名も身分も姿も変えるのが忍びの姿なれば、拙者の名に意味などないに等しいでござる」

「そういうもんかねえ」


 無論のこと風津自身も、かぶいた・・・・名をあえて使っている身である。深く詮索してしまえば、出てくるのは蛇か鬼か。

 だが得てして、この場合において本名を名乗ることが危ないから、というのが事情である。


「ひとまず、それでいいや。仕事に支障がなければ、咎めるのもおかしなもんだな。それで、永尾殿をどう相手取るって? 技術者だろうが、武技のほどはどれほどだ。公儀隠密たるおめえが俺なんかを頼るなんざ、よほどのことだろうよ」

「永尾殿の使う絡繰が、いささか厄介な代物でな。拙者の手には負えぬのでござる」


 そのように頼られたとして、風津は絡繰のことなど微塵もわからない。

 南蛮渡来の絡繰技術とは、風津を含め多くの者にとっては、人が手を加えずともおのずと動く“何か”である。

 いかにして動いているのかなどわからないのだ。歯車が噛み合うだとか、歯軸が動くとか、そんなぼんやりとしたことではない。

 力がいかにして伝わっているのか、あるいは何を動力にしているのかなど、理解の及ばない領域なのだ。

 この台場で暮らしていれば、日にひとつは見るであろう絡繰であっても、人々は大いに惹かれたが、その中身にまで興味を持とうという者は変わり者であった。


「直接見てもらった方が早いでござろう」


 そう言って、珊は畳を一枚、ひっくり返した。そこには穴が開いている。見れば、天井裏へとつたう空洞がそこにあった。

 ひょい、と刀を投げて寄越した珊は、笑みを浮かべている。


「では、参るでござるよ」

「おいおい、永尾殿のところへ行くってのに、この中を突っ切っていくってのか。見世の者どもの真ん前を通っていけば、公儀の者であってもお咎めなしとはいかねえだろ。まだ窓から抜け出た方がいい」

「まだ話してなかったでござるな。永尾格次郎がいるのはこの見世の地下でござる」

「……は?」

「永尾格次郎はこの見世の主人と癒着しているでござる。おぬしが遊女たちに払った金はその永尾の研究資金となっておった。理解いただけたでござるか?」

「いっそのこと俺を殺せ!」


 思わず風津はそう叫んでしまったが、仕方ないことだろう。

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