始まらない恋


睫毛に乗った埃が、陽の光を受けて、チラチラと光った。

それが何だか楽しくて、視線を斜め上に寄せて瞬きをしながら遊んでいると、誰かが陽の光を遮った。

「動かないで」

そう言った声は春風のように温かくて爽やかだった。

言われた通りに僕が黙って動かないでいると、前から白く細い指が睫毛に伸びる。

それから肌に触れるか触れないかの距離まで来て、すぐに離れた。

指が肌に近付いた時に触れた、少し冷えたような感覚にうっとりとしていると、陽の光の下に戻った彼女が「取れたよ」と言って笑った。

これが恋の始まりだったらいいのに、と思った。


駅のホームでマフラーに顔の半分を埋めて、白い肌を少し赤く染めた彼女の横顔を見つめていたら、肩を竦めていた彼女がこっちを向いて「寒いね」と笑った。

そんな彼女をもう見つめていられなくて、視線を斜め上に寄せて、僕は彼女が吐いた白い息が灰色の空に消えていくのを見つめた。

これが恋の始まりだったらいいのに、と思った。


「ごめんね」

茹だるような暑い日のことだ。

ギラギラと刺すような陽の光の下で、額にうっすらと汗を滲ませながら彼女は爽やかな声で僕の恋をあっさりと終わらせた。


だから彼女と二人で歩く朝も、雨が止むのを待つ彼女の横顔を見つめていても、僕の恋はもう始まらない。

始まりというのは、やがて終わりを迎えるものだけれど、それなら、終わりを迎えてしまったその後には、一体何が待っているのだろう?


長いベンチに座って本を読んでいた彼女が顔を上げて、僕を見る。

いつもと何も変わらない、温かくて爽やかな春風のような声で僕に言う。

「座らないの?」


これが恋の始まりだったらいいのに。

あと何回そう思ったら、この恋を捨てられるのだろうか。


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短編集「見える世界」 雨宮虹市 @in_rain

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