阿久津くんは女子が苦手

村田天

阿久津くんは女子が苦手

 最初は教室でぼんやりしている時だった。

 至近距離で視界のセンターど正面で女子と話していた阿久津あくつくんが盛大にどもっていたのだ。


「わわわわやわわきゃッターン」


 と聞こえて数秒なんの話だろうと考える。

 ごく簡単な「わかった」の日本語だと気がついて、さらに注目した。


 阿久津くんは目をキョロキョロさせて、周りを見回し「しぇけら……」と最早解読不能でロックな単語を吐いてその場を逃げだした。


 私はその日から心の中で『阿久津キャッターン現象』と名付けて、彼の言動をまじまじ観察するようになった。

 見ていると阿久津くんは女子相手に何度か似たようなリアクションをおこしていた。


「これ、落としたよ」だとか、軽くぶつかって「あ、ごめん」だとか女子に言われるたびに首をぶんぶん振って周りをキョロキョロ見まわす。そして飛びのいて、意味不明な音声を奏でてその場を離れる。見ているとちょっと面白かった。


 その現象について、わりと簡単にひとつの結論を導き出した私は、ある日彼に話しかけた。


「阿久津くん」


 廊下を歩いているところを背後から声をかけるとビクッと大きく揺れる。一度振り返り一秒、目を見開いて私を見た。そしてまた歩き出す。


「あれ? 阿久津くん、あくつくーん」


 明らかに認識したというのに、なぜ無視する。急に右手と右足を同時に出すナンバ歩きになってるし。


「おーい阿久津!」


 乱暴に呼んで肩を掴む。


「おッぎャあアッ!」


 産声っぽい悲鳴が廊下に響いた。


「な……阿久津くん? なんで無視するの」


 阿久津くんは目の前でヒッヒッフー、ヒッヒッフーとなぜかラマーズ法で深呼吸して言った。


「あ、おれ、おれ、おれに用だった? ももしかしてそうかなと思ったけどやっぱり違うかもと思って……おれだったの?」


「思いきり名前呼んだでしょう!!」


「ぎょい……」


 口から漏れたのは「御意」にも聞こえたが、単に言葉の破片が漏れただけのようにも思えた。溜息をひとつ吐いて言う。


「阿久津くんて、女子が苦手なんでしょ」


「え……」


「見てればわかるよ。ほら、今だって目も合わせられない」


 阿久津くんは私の言葉に下を向いたままビクッと一回揺れたけれど、そのまま床を見つめて早口でしゃべり始めた。


「そ、そうだ! おれは小六までど田舎にいた! そこでは女子は同級生にいなかった! ていうか生徒が四人しかしいなかったし廃校になった! こちらに来て目の前に女子がワラワラいるが、ずっと慣れなくてとてもビビっているのだ」


 阿久津くんは男子と話している時には普通のしゃべり方なのだけど、今は謎の文章風味をかもしている。ともかくおかしな日本語で生い立ちを説明してくれた。


「えー、でも中学からってことは、もう三年以上経つんだよね。それに学校にいなくても近所とかコンビニとかにも、女の人いたでしょう」


「近所で女人は話しかけてはこない。スーパーはなかった! 地元のやまびこ商店にはおれのよく知るばあちゃんの店員がいるだけだ! どうだ!」


 どうだと言われましても……。


「彼女とか……」


「むっ、無理だろ……おれ、今だっておかしな発言をしていないか、自分が何を言っているのかわからないのに!」


 よくわかる。阿久津くんは今だってしゃべりながらだんだん後ろを向いて、すっかり背を向けてしゃべっているありさまだ。


「前、いました。中学の好きな子は、おれの言動に薄気味悪いと感じ……終了しました」


 今度は翻訳ソフトの訳文みたいになってるけど……。

 とりあえず前にまわり込んで顔を見つめる。


「そこまでアレだと日常生活きつくない?」


「だダ……」


「だだ……?」


「ダあ、じょおッビすゥッ……」


「全然大丈夫じゃないじゃん!!」


 阿久津くんは返答が思いつかないのかまた小さな息のような音で「しゅけら……」と呟いている。


「ね、私が協力してあげるよ」


 まわり込んで言うとぐわっと仰け反った。


「な、……ンな?!」


「そういうのって、きっと慣れてないから意識しちゃって、普通にしよう普通にしようって思いすぎて余計にテンパっちゃうんだよ。阿久津くんが、もうちょっと普通に女子と話せるようになるように、特訓しよう」


「あ……うぅ?!」


「そのキャッターン体質、治そうよ!」


「きゃ、キャ……?」


 女子に対してあまりに緊張しいの阿久津くんは見ていて面白い物件ではあったけれど、だんだん心配になってきて私の中のお節介が顔を出した。もともと弟がふたりいて、面倒見は良い方だ。友達にも頼られることは多い。


「放課後、練習しようよ! ね!」


「あがァ!」


 顔を近づけると勢いに押された阿久津くんが激しく何度も頷いた。


「よし決まり! がんばろう!」





 その日から私と阿久津くんの特訓が始まった。


「阿久津くん、一緒に帰ろ」


 男子生徒と群れていて、ごく普通に笑っていた阿久津くんの表情が途端にこわばった。周りもちょっとニヤニヤしていたけれど、彼はそれどころではない感じに脂汗を流しはじめる。


 それでも私が歩き出すと一応ついてきた。

 ちょっと振り向くと涙目で鞄を胸に抱きしめて、屈強な男子に呼ばれてどこかに連行されるいたいけな男子生徒のようだった。


 校門を出たところで「お家、どっち?」と聞くと震える手で駅の方を指差した。どうやら私と同じ、電車通学らしい。


 とりあえず、日常会話に慣れなくてはと駅までの道すがら、いくつか質問をしてみたけれど、ことごとく、よくわからなかった。


 駅に着いて今度は住んでいる駅を聞くと、どうやら同じだったので、一緒に電車に乗り込む。

 あまり矢継ぎ早に色々聞いても彼は疲れてしまうかもしれない。それでなくても結構強引にことを進めてしまった気もしたので、電車では話しかけることをしなかった。


 結局会話もなく地元の駅に降り立つ。日が短くなって来たせいか、すっかり暗くなっていた。

 そこからは反対方向のようだったので、「続きはまた明日ね」と言って、手を振った。初日はこんなものだろう。


 数歩行ったところで「んぐぁノッ!」と聞こえたので振り向く。


 阿久津くんが右手と右のつまさきを少し前に出したおかしな格好で固まっていた。


 ちょっと考えたけど、手を振ろうとしたのだろうと推測して、また手を振った。


 阿久津くんは出していた手を力なく振ってくれた。





 次の日の放課後は文房具を渡す練習をした。


「はい」と言って差しだした消しゴムを、彼はきちんと受け取れない。


 向かい合って座っているのに彼は私の顔を見ようとはしないし、指先が少しでも触れようものなら真っ赤になって、取り落す。

 阿久津くんは、見てると授業中にペンを回したりしているのでどうしてそこまで運動機能が低下するのか疑問だ。


 私のペンケースに入っていた文房具が、かしゃん、かしゃんと机に落ちていく。誰もいなくなった教室で、無言で謎の文房具リレーが進み、ペンケースはからになった。


 その特訓は机に落ちた定規の端を持って、そっと反対の端をつかませることで成功した。阿久津くんは思った以上に重症だ。


 そんな風にして特訓は進んだ。

 阿久津くんとはまともな会話がなかなか成り立たないので何を考えているのかいまいちわからなかったけれど、私が遅くなっても待っていてくれたので、特訓をする気はあるらしい。


「あ、危ないよ」


「ぎッしゥッ!!」


 帰り道、後ろから自転車が来たので手を取って身体を軽く引っぱると野生動物のような悲鳴が上がった。面白いのでそのまま手を繋いで歩くと囁き声が聞こえてきた。


「……も、もう駄目……しんじゃうはなしゅて……」


「駄目って、大丈夫でしょ。生きてるよ」


「くくらくもなかさん……なななんでそにゃこと平然とできんの……できんの……」


 阿久津くんはたまに私の名前らしきものを早口でどもりながらモゴモゴ言ってるんだけど、一文字もかすっていないように聞こえる。


「うち兄ちゃんと弟ふたりいるから、そこまで緊張ないんだよねー……」


 ブン、と繋いだ手を振って元気よく歩く。


「これも特訓だよ」と言うと阿久津くんも黙って下を向いて駅まで連行された。離した時は手汗でべしょべしょで、彼はそれにまた謎の単語をならべて激しくヘッドバンギングして謝罪した。



 週末の放課後に「阿久津くん、明日、暇?」と聞くと、目を見開いて硬直した後、何度か頷いた。


「ちょっと買いものに行くんだけど、一緒に行かないかなって」


 阿久津くんが無言で頷いて、休日に待ち合わせることになった。


 しかし、待ち合わせ場所にいた阿久津くんはなぜだか青白い顔で震えていた。


「えっ、もしかして風邪ひいてる?」


 昨日の帰りは元気そうにしていたのに。今はだいぶ具合が悪そうにしている。


「で、でいじょうじゃっくしょん! じゃっくしょん!」


 阿久津くんのくしゃみが止まらなくなったので、家まで送っていった。


 玄関に入ると中からうちの弟のひとりと同じくらいの双子の男の子が飛び出してきて彼にまとわりついた。


「にーちゃんにーちゃん」「女子だ! 女子だ! 彼女か!」と騒がれて周りをぐるぐるまわられた。

 奥から阿久津くんに似た若い男性が顔を出して、ぐったりとした彼に気付き、阿久津くんは部屋に連れていかれた。戻ってきた彼のお兄さんに挨拶をして玄関を出る。

 男兄弟ばっかりだったけど、もしかしてうちとほぼ同じ家族構成だろうか。


 休み明け、阿久津くんはちゃんと学校に出てきたけれど、しょんぼりしていた。

 私を見て、何度か目が合うと口をぱくぱくさせて何か言いたそうにしていたけれど、結局目をそらす。休み時間に声をかけると「ぎょめん」とペコペコして何度か謝っていた。


 およそ一ヶ月。そんなことを続けたけれど、阿久津くんのキャッターン体質はなかなか治らなかった。


 相変わらず目は合わせてくれないし、一緒に帰っているのに隣にはいない。少し後ろを歩いている。


 わかったのは正面ではなく、背中合わせだと多少は会話になるということ。


 しかし、それは大した進歩でもなくて、阿久津くんのキャッターンは練習を始めた頃に比べてよくなっているどころか、一部酷くなっている気さえした。顔を近づけると、目をそらすだけだったのが、顔ごとそらされたりする。消しゴムは渡す前から顔が赤くなる。


 特訓の仕方に問題があるのかもしれない。悪化させてるなら責任を感じる。





 そんなある日の休み時間。

 私は目撃した。


 廊下の端で阿久津くんが他クラスの女子と話していたのだ。片手に教科書を持っているので、貸したか、借りたかしたのだろう。


 驚くべきことに、その表情は教室で男子と話している時とそう変わらないように見えた。


 女子生徒が何事か言って、阿久津くんはそれに対して「うるさいなー」などと返している。声は小さいし目線は合わせていなかったけれど、かなり普通に話せているように見える。


 なんだろう。突然治ったとか。いや、それにしては親しげだ。あの感じはもっと以前からの友達じゃないだろうか。


「阿久津くん?」


 現場に乗り込んだ私を見ると、阿久津くんは目を見開いて突如動きを止めた。


「あれ、どした阿久っちゃん」


 石像のように固まってしまった彼をその場にいた女子がぴちぴち叩く。微塵も動かなかった。


 私も人差し指で肩をつんつんしてみると、石像は視線を遠くに飛ばしたまま、わずかに揺れた。


 さほど面識のない女子生徒に話しかける。


「ね、ここ触ると動くよ!」


「え、どこどこ」


 肩のあたりをつついてみせると、やっぱり揺れる。けれど、その子がやっても、石像は石像のままだった。


「あれ? 動かないよ」


「そんなことないよ。ほら、このあたり。ほらほら」


 調子に乗っていろんなとこをつんつんすると、前かがみになってぶるぶる震え始めた。顔も真っ赤になっていく。


 見ていた女子生徒が頷いた。


「あー……なるほど、なるほど。それで阿久っちゃん急にキャパオーバーしたのか」


「え、なにが」


「あたしね、阿久っちゃんとは中学からの知り合いなんだけど、この人前に悲しい失恋をしてんだよ」


「はぁ……」


「ただでさえ僻地から来たばっかりで、女子が苦手な阿久っちゃんが恋をして……女子だと誰に対してもボソボソしか話せないのに、好きな子なんてもう、緊張しちゃって全然普通にしゃべれないのさ……阿久っちゃんの言動も見ててかなりやばかったけど、そのせいで容赦なくキツい振られ方をして、余計に悪化したんだよねえ」


「はぁ……つまり?」


「えっ、わかんない? だからー……阿久っちゃんが訳わかんない言動しちゃうのは……いつもだいたいす……」


 女子生徒はそこまで言って阿久津像を一瞥した。


 阿久津像はいつのまにか片方の握りこぶしを固く握っていた。心なしか顔もけわしい。


 それを見た女子生徒が「あっ……これ以上をあたしの口から言うのはちょっと……」とにごす。


 その子は阿久津像の背中を勢いよくばしんばしーんと叩いて去ってしまった。


 その背中をずっと見送って振り返ると阿久津くんが消えていた。


 ぱっと見まわすと下に小さくなってうずくまっていた。


「あ、阿久津くん?」


 しゃがみこんで覗き込むとものすごい小声で「あじゃもじゃごしゃぐしゃ」としか聞こえない何事かをつぶやいている。


「阿久津くん!」


「はいっはいはいっ」


 元気よく返事がきたが、相変わらずうずくまって両手で顔を隠していた。このままじゃ話ができないので、苦肉の策で背中合わせに座った。


「阿久津くん、女の子苦手って言ってたよね? どういうこと? 嘘なの?」


 しばらくして、小声だけど返答があった。


「ほ、本当……じょしこわい」


「じゃあなんでさっきの子は話せてたの」


「女子、苦手。でも、なんとも思ってないやつとは少しは話せる…………………でも好きな子は……なんか全然無理……あたまワーッてなる」


 数秒、彼が何を言っているか考えた。

 阿久津くんは女子が苦手といっても、なんとも思ってない女子とは割と話せるらしい。でも、私とはいつまで経っても慣れなくて話せなかった。


「えっと……」


 頬に熱が集中していくのを感じる。


「で、でも私以外の子にも、どもっていたよね? わきゃっターンて、え、好きな子たくさんいるの?」


「ち、ちがう! あれ、は、もどりかぁたなさんが見てるから……そんなの、み、見られたら、ご、ッ誤解されちゃうと思って!!」


 確かに、当たり前だけど、私の見ているのは私が教室にいる時に、私に見られている阿久津くんだけだ。しかも私は結構遠慮なくまじまじ見ていた自覚はある。


 思い返せば彼はどもった後にキョロキョロしていることが多かった。そんな時ほんの一瞬目が合うこともあった。そう言われれば、こちらを気にしているような動きをしていたように感じられる。付き合ってもないのに……よく言えば一途、悪く言えば自意識過剰だ。


 それはともかく、今、大変なことが判明した。阿久津くんは私のことが好きだったらしい。


「そ、そんなの……しょ、想像してなかっ……つ」


 阿久津くんばりに噛んだ。何を口に出していいかわからない。緊張というか、混乱というか、彼の気持ちが少しわかった気がする。


「い、いつから……」


「入学した頃……朝の電車で見かけてからずっと……」


 確かに最寄りは同じだし……同じ車両に乗り合わせていてもおかしくはない。もっとも私は朝は弱いのでぼうっとしていることが多く、気づいてはなかった。


「じぇも、き、き、気になる程度だったんだ! すっごく気になる……それが……みきしやむさんから声かけられたから悪化したんだよ! よ、よ、余計に好きに……」


「ええ、その……あの……じゃあ、特訓とか……逆効果だった……のかな? ごめん!」


 早口で言って、その場を離れようとすると、足首を掴まれた。


「き、ぎゃアー」


「……もっこらもやさんじゃないと、特訓にならないきゃら! 意味ないから!」


 めちゃくちゃ早口で引き止められた。予想外でますます混乱する。阿久津くんの顔は必死だ。


「るげっしょゅさん言っただろ! おれはこのままだとまずいから治そうって! みっ、見捨てるのよくない!」


「いやでもでもその私、男子に好きとか言われたことないないだしそんなの意識しちゃうだし……!」


 どんどん日本語が崩壊していく。私はキャッターン現象を身をもって体験した。


「い……じゃあおれと同時に特訓するかたちで……!」


「……えっと……えっと?」


 ちょっと、言われた言葉が頭に入ってこない。


「おれにもよくわかんないけどそのかたちで! おねげェします!!」


 今までにない迫力で言われて思わず頷いた。





 特訓は続けられることになった。

 でも、前とはちょっと様相が違う。主に私が。


 あまり男子を異性として意識せずに生きてきた私は、まだ恋愛を考えたことがなかった。特に異性として気になる人はいなかったし、少女漫画とかの主人公は妙に大人っぽく見えて、他人事というかファンタジーというか、自分とは縁遠いものと思っていたというか。とにかくそちら方面は油断して過ごしていた。


 突然好かれていたなんて判明したその相手を異常に意識してしまい、もう普通に話せない。


 それでも特訓は続くらしく、放課後になると鞄を持った阿久津くんが机の前に来た。


「あ、阿久津くん……。か、かえりゅ?」


「か、かぇりゅ……」


 ふたり揃って噛み噛みの応答を繰り広げ、教室を出た。


 校門を出てもやっぱり無言だった。阿久津くんだけじゃなく、私まで緊張してしまっているから、当然そうなる。


 急に腕を引っ張られて悲鳴をあげる。

 目の前をオートバイが走り抜けていった。


 少し行ったところで手は離された。でも、コートの上からなのに腕の掴まれたところが、ほかほか熱を持っている気がする。心臓がばくばく鳴っている。


「ほ、本当に特訓に、なってるのかな?」


 おそるおそる聞くと小声で「だいぶなってる」と返ってきた。


 確かに以前彼はもっと、道路を歩く人や車に注意がいっていなかった。今は私の方が不注意になってしまっていたけれど、彼の方はほんの少しずつマシになっていってるのかもしれない。


 阿久津くんと一緒に帰り始めた頃と比べても、冬は深まっていた。たいした時間でもないのに駅に着く頃には真っ暗だ。


「じゃあね」となんとか噛まずに言えて、数歩歩いたところで背後から声をかけられる。


「あのっ」


 振り向くと彼が最初に帰った日と同じように手を軽く前方に伸ばしている。


 手を振ろうとして気付く。これはもしかして、引き止めてる感じの手なのでは。


 立ち止まって考えていると阿久津くんがこちらに歩いてきた。


「ときもぐらまんさん……」


「うん」


 また誰だかわかんない人の名前言ってるけど私しかいないだろう。


「そと、暗いし」


「うん?」


「お、送ってくる!」


 勢いあまって誰に言ってるんだというような語尾をつけて、阿久津くんが少し前を歩きだす。


 もしかして前も、そう言おうとしていたんだろうか。


 ドキドキしながら曲がり角のたびに「あ、こっち」とか小さく指示して、一緒に帰った。


 家の前まで来て、なんとか「ありがとう」と言うと阿久津くんが口を開いた。


「あ、明日、おれ……」


「え、はい?」


「駅に……買いものに出るんだけど」


 そこまで言って黙ってしまうので先を想像して継いだ。


「あ、一緒に……?」


 阿久津くんがこくりと頷き「前とおんなじ場所と時間で!」と言い放って逃げてしまったので、それで決定した。


 ちなみに私達は一応スマホの連絡先を交換はしていたけれど、阿久津くんの返信が異様に遅いのであまり送らなくなった。少なくとも連絡事項には向かないし、返事が来る前に本人に会ってしまうことが多い。そんな時彼はスマホを前に、明らかに返事に悩んでいる。顔を合わせると罪悪感丸出しの顔をするので逆にこっちが申し訳なくなるのだ。

 その頃はスマホの方が緊張しなくていいんじゃないかな、と思って練習として気軽に送っていたけれど、今はとんでもないと思う。あれから何度か送ってみようとしたことはあるけれど、送信ボタンを押す前に「やっぱりこれじゃダメだ!」となって、全消ししたりする。送信ボタンの前で正座して三十分押せずにいたりするので、疲れる。結局前より使えなくなった。


 待ち合わせの時間は正午だったけれど、朝の五時に目が覚めた。寝たのは午前二時だというのに。目覚めた瞬間に今日の予定のことを思い出す。そうだ。今日は一緒に出かけるんだ。なぜだか悲鳴を上げそうになった。


 遅れてはいけないと早めに準備をして、それでもまだ七時だった。家にいてもソワソワしてしまうので、早めに出ることにした。


 ゆっくり歩いて待ち合わせ場所に着いたけれどまだ八時前後。近くのお店を見て時間をつぶそうと思い、少し離れたお店のある方に歩き出す。


「あれ?」


 前方に阿久津くんがいた。

 コートのポケットに手を突っ込んで口から白い息を吐いて、目の前の自動販売機の『あったか〜い』を吟味している。


「阿久津くん、早すぎない? あ、なんか先に予定あったの?」


「ひっ! しわすごなさん!」


 だから私の名前、どこにあんだよ。


「も、もしかして、前に待ち合わせた時もこんな……四時間前待機してたの?」


「……」


 黙っているのは肯定なんだろう。風邪ひいたんだから……学習しろよ……。思ったけれど、今日は人のことは言えないので飲み込む。


 お店に入ろうにも、まだ開いてなかった。ふたりで自販機で飲み物を買って、公園のベンチに座った。


 まだ完全に『朝』である公園の雰囲気を見て、さすがに早く来すぎたことを実感する。馬鹿だなぁ私。阿久津くんも。でも、その馬鹿さが、なんだか一生懸命で、嫌じゃない。


 さっき買った温かい紅茶のボトルを手の中で転がして、どこまでカイロ代わりに使おうかと考えていたけれど、思い切って口を開ける。


 樹の方で鳥が鳴いていた。ごくんと紅茶を飲み込む。ベンチに日が差して、じんわりとした温かさが感じられるようになった。


 隣に座った阿久津くんをほんの一瞬、ちらりと見て、また前方に目を戻す。


「なんかね……最近……阿久津くんの気持ちがちょっとわかるんだよね」


 返事はない。顔も見れない。


「阿久津くんと話すと、緊張するし……何言っていいのか分からなくなるし……顔とか、ぜんぜん見れないし……」


「……」


「でもなんか……一緒に……いたくなるし……」


 語尾に近付くにつれ、弱々しくなっていたけれど、こんな言葉を本人に言えたのは睡眠不足で頭が多少ハイになっていたからだろう。


 隣でなぜか冷たい缶コーヒーを飲んでいた阿久津くんが、缶をベンチにことりと置いた。


 それから、隣り合った手を思い切りぎゅうと握ってきた。


「いたっ、痛いいだいっ! 力、込めすぎだよ……!」


「うわごめんぎょぎょめんふらむしっすなさんぎょめん!」


「あっ、わわ、あの! だからって離さなくてもいいし!」


 慌てて握り返すと力が緩まって、私達はしばらくそのまま、黙って手を繋いだまま座っていた。




 それから四ヶ月後、阿久津くんは私から消しゴムを受け取ることに成功した。もっとも私の方がかなり緊張してしまって、端の端を持って顔を見ずに渡したせいもあるかもしれない。


 阿久津くんはふうっと息を吐いて「はい。伊藤さん」と言って消しゴムを返してきた。



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阿久津くんは女子が苦手 村田天 @murataten

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