第5話 過去の事件

 翼に肘で起こされて、自分が寝ていたことに気がついた。


 荷物を持ってバスを降り、駐車場から試合会場の近くまで歩く。すると隣に並んできた涼真が小声で話しかけてきた。

「部室での態度がおかしかったな。西野と何かあったのか」

 悠は西野と付き合っていたことをはぶいて正直に話した。事件を目撃したのでは、という彼女の疑問を伝えたときは、「ちょっとした名探偵だな」と涼真が唸った。

「それで、悠はなんて答えた?」

「もちろん目撃なんてしてないって答えたよ。僕たちが帰った後に事件が起きたんだろうって」

「それでいい。言い切ることが大事だ。俺たちはあの夜、何も見ていない」

 前を向いたまま涼真が断言した。


 すべては四人で決めたこと。あの夜の真実は自分たちだけの秘密だ。だから、たとえ西野でも教えるわけにはいかなかった。他の三人を裏切ることはできない。


 悠は三年前の事件のことを思い出す。

 中三の夏休みが終わったばかりの九月初旬、だいぶ涼しくなってきた夜のことだった。

 悠たち四人は駅前にある同じ塾に一緒に通っており、その日も午後十時に塾が終わってから、いつものように自転車で連なって家に帰ろうとしていた。


「喧嘩か?」

 最初に気づいたのは先頭を走る涼真だった。

 駅前の賑やかな雰囲気から脱したあたりに、周りをビルで囲まれた小さな公園があるのだが、その公衆トイレの前でもつれ合う二つの人影があった。


「大人しくしてろって、警告したよな」と厳つい声を発しながら、大柄な男が一方的にTシャツ姿の男を殴りつけている。「警告を守らないやつにはお仕置きしないとなぁ」

 大柄な男は相手の髪をつかみ、公衆トイレの出入り口付近の壁に相手の顔面を打ち付けた。地面に倒れたTシャツ男の腹に大柄な男が蹴りを入れる。鈍い音が公園内に響いた。

 うめくTシャツ男に大柄な男は馬乗りになり、容赦なく拳や肘を顔面に落とす。Tシャツ男も抵抗を試みているようだが力の差はいかんともしがたく、両腕で防御するので精一杯に見えた。


 初めて間近に見る暴力に悠は気分が悪くなった。早くこの場を立ち去りたいと思ったのだけれど、翼が自転車を駐めてスマホを手にしたことで自分だけ先に帰るわけにもいかなくなり、しかたなくブレーキを握った。

「あれ、結構やばいやつじゃない? 通報した方がいいかも」

 翼の言うとおり、喧嘩というには大柄な男の暴力は度を超していた。さすがに警察に連絡した方がいいかもしれない。


 街灯に照らされ、Tシャツ男の顔がうっすら見えた。すると今度は啓次が悠に声をかけてきた。

「やられている方、もしかして新谷じゃねえか?」

 久しぶりに聞いた名前だったから、誰のことを言っているのか、すぐには浮かんでこなかった。そんな悠の代わりに涼真が同意の返事をした。

「そうだ。確かに新谷先輩だ」

 そこでようやくサッカー部で二年先輩だった新谷先輩のことを思い出した。


 涼真の声に気がついたのか、大柄な男に馬乗りにされながら、新谷先輩が血で赤黒く染まった顔をこちらに向けた。

「……おまえら」

 悠たちの存在が目に入ったのだろう。そして自分の知っている後輩だと気づいたに違いない。新谷先輩は少しだけ生気を取り戻したようだった。両手で大柄な男の顔を下から押し上げる。そして上半身を大きく動かし、馬乗りから抜け出そうとする。そして――。


「なに突っ立ってんだよ。おまえら……もっと……早く……助けろよ!」

 新谷先輩が最後の力を振り絞るようにして叫んだ。


 その命令口調を聞いた瞬間、スイッチが切れたかのように悠たちの顔から表情がなくなった。

 四人は棒立ちのまま、馬乗りにされた新谷先輩を見ている。

 まったく動く気配のない後輩たちに、彼は苛立っていた。

「何してんだよ! 早く助けろって!」

 訴えるように叫び続けるが、悠たちにその声は響かない。

「仲間か」

 大柄な男が威嚇してきた。しかし悠たちには対岸の出来事のように遠く感じた。

 しばらくしてから四人が返した。


「こいつが仲間なわけないだろ」

「いつまでも部活の先輩面してんじゃねえよ」

「僕たちがどれだけおまえに痛めつけられてきたか」

「おまえにつけられた背中の傷、消えてねえからな」


 あっけにとられた新谷先輩をおいて、悠たちは自転車にまたがった。そして、「行こうぜ」という啓次の言葉を合図にその場を立ち去った。

 後方からは、暴力の鈍い音と、新谷先輩の叫び声が聞こえ続けていた。


 カフェでの会話で西野に隠していた事実は二つある。

 ひとつは、通り魔事件の被害者である新谷先輩が中学時代、後輩からかなり恐れられていた存在だったということだ。

 悠たちが中一のときに新谷先輩から受けた指導という名の暴力はそれはひどいものだった。隠れた場所での鉄拳制裁は日常茶飯事だったし、中一と中三で体格差が相当ある中で行う一対一の練習などは、いかに先生にばれずに後輩を痛めつけるかという遊びになっていた。


 新谷先輩が狡猾こうかつなのは、病院に行かなければならないような大怪我はさせず、暴力のあとも見えない場所に残すところだ。そして、「これは指導であり、怪我をしたのはおまえが未熟だからだ」という論理で後輩を黙らせ、学校や親へ報告しようものなら更なる暴力があることをちらつかせた。執拗しつよう陰険いんけん。それを心底楽しんでやっているこの男は一年生の憎悪の対象だった。


 特に狙われたのが啓次だった。あいつの本心を隠すことができない性格が災いし、新谷先輩に目をつけられることが多く、毎日のように怪我をさせられていた。それに巻き込まれるように、悠たち他の三人もよくターゲットにされた。


 中総体が終わればやつは部を卒業する。それまでの我慢だ。そう思ったからなんとか耐えられたけど、当時は本気で退部を考えるほど精神的に追い詰められていた。


 思い出したくもないその過去が、あの日の悠たちの行動に影響を与えた。


 西野に隠していた事実の二つ目。


 それは、悠たち四人は通り魔に襲われていた新谷先輩を目撃し、そして、見殺しにしたということだ。

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