第2話 味を占める

 ユキヒョウ脱走から五分後。


 何も知らない山田キミコさんは、定年退職を迎えた夫の武さんと思い出の動物園に来ていた。


「こんな雪の日に、来るんじゃなかったわ」

「なに、体が動くうちに来ておかないと後で後悔するじゃないか。それに中は暖房もあるから大丈夫だろう」


 動物園は遠方に足を運ぶこと無く沢山の動物が見られる。その上、この動物園では年配の方に特別割引をしていたこともあり、この日多くの年配者が訪れていた。


 しかし、キミコさんは言い知れぬ違和感を覚える。


 (なんでだろう。駐車場はあんなに車が止まっていたのに、中には人が全然いないわ)


「ねえ、武さん。少し変じゃない?」

「きっと、どこかの檻でショーでもしているんだろう。行ってみるかい?」

「でも……」


 動物園の受付には、すでに誰もいなかった。

 チケットの確認もされていない。


 (やっぱり何か変だわ……)


「あ、ユキヒョウのショーだって!行こう!」

「もう、子供みたいにはしゃいで、転んでしまいますよ」


 私はこの時、彼について行く事にしました。

 思えばそれがすべての間違いだったのです。


 あと一つ曲がり角を曲がれば、ユキヒョウのコーナーという所でした。

 まだ開園から時間はそれほどたっていないというのに、速足で自分たちが来た道へと戻る家族を見ました。

 


 お母さんの顔は青ざめ、お父さんは震える手で自分のポケットを探っています。

 子供は泣きじゃくってひどく怯えているようでした。



「親御さん、あんなに強く子供の手を握って可哀想だわ」

「うーん。きっとこの雪だから帰り道が心配になって、早く帰ることにしたんだろう」

「武さん、私たちは大丈夫でしょうか」

「どの道、ここからみんな一斉に帰ったら大変になってしまうよ」



その時、


「キャアアアアアアアア!!!!!」


 悲鳴が聞こえた。

 前を歩いていた武さんが急に立ち止まって、私は顔をぶつけました。


「ちょっと、急に止まらないでよ」

「静かに」

「どうしたって言うのよ」


 壁になるように手を広げる武さんの手をはらって前に出た私は、ヒョウを見た。


 丁度赤ん坊がスパゲッティを食べた後みたいに口の周りが真っ赤だった。

 

 きょろきょろとこちらを見ては、少しずつ近づいてくる。

 ヒョウの体についた羽毛が暖房の風にのってヒラヒラと舞う。


「ゆっくり、下がるんだ」

「わ、わかった」


 ずりずりと後戻りを始める。

 でももう遅かった。


 一気に走り出したヒョウは、大きく飛び上がって私に牙を立てた。

 押し倒されたのが分かったのは、頭が酷く痛く、天井が見えたから。


 ふんふんという大きな鼻息が顔にかかる。


 肩に大人の男ぐらいある毛だらけの手が置かれ、ナイフのように鋭い爪がバリバリとダウンのジャケットを引き裂くのが分かる。


 武さん、私、死ぬのね。


 声もすでに出なかった。


 掠れ行く視界の中で武さんが、自分の持っていた傘でヒョウの顔を叩くのを見た。


 逃げて。



 ユキヒョウが人間の味を覚えた瞬間だった。

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従業員、ゴリラに腕を噛まれ骨折 @akai4547

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