黒い空

カム菜

黒い空

 寒い寒い冬、近所のスーパーに行った帰り道、凍えていく体を意識しないように、努めて無心になりながら帰っていると、夕暮れ時のオレンジだった空が、どんどんと暗くなり始めた。暗くなり始めた頃だからまだ目が慣れないのもあって、自分の体でさえも満足に見ることができない。顔を下に向けると、体がじわじわと暗闇に浸食されていくところだった。まるで夜が腕を地上に伸ばしてきて、その腕が目だけを残してすっぽりと俺の体を包み込んでしまったようだった。

 上を見上げると空はどんよりと曇っていて、月の明かりは雲に隠されていた。月の明かり以外にはたまにある街灯と少しの民家の明かりしかない田舎の道なので、どうりで暗いはずだなどど思っていると、ふと目にゴミが入った。風がよく吹いていたので、運んできたのだろう。立ち止まって目を擦る。なかなかゴミが取れなくて、目をシパシパして、一度一際目を強くつむった。するとその時、ぐらり、と足元が揺れる感覚がした。

 目を開けると、先ほどとは比べ物にならない暗闇、いや黒色があたりを包み込んでいた。しまった、と思った。目をつぶっていた隙に、目以外を包み込んでいたと思った夜の腕に目まで覆われて、完全に囚われてしまったんだと直感的に感じた。空を見上げると、雲があるかどうかもわからない、飲み込まれるような黒だけがあって、月の代わりに黒色の中でもより暗い奈落の底みたいな穴が開いていた。とにかく暗いせいで、地面と空との境界線は曖昧で、いやそれどころかおかしなことに、むしろ足元の方がぼんやりと光が生き残っていて、かろうじて見える様子だった。頭上の方がかえってどす黒く、空の穴から黒色が広がって、世界を飲み込もうとしているように思えた。

 より恐ろしいことに、ただ佇んでいるだけでも怖いはずの暗闇の中にあっても、俺の体は勝手に家に向かって歩いて行っているようだった。こんなに暗くては足元がおぼつかないのは当然、自分がどこにいるのかも曖昧だった。家に向かっているようだ、というのも、僅かに見える地面の様子と、なんとなく体が覚えている帰る道順から推測しただけで、実際自分が今どこにいるかなんてほとんどわからなかった。こんなのは目を瞑って歩いているのと変わらない、しかし俺の体は躓くことも何かにぶつかることもなく、いつも通り、何事もないかのように進んでいく。

 ただでさえ、暗闇は恐怖を駆り立てるもので、こんな不気味な状況であったら尚更だった。そして、この世界ではその恐怖というものは致命的だった。俺が恐れたものは気のせいで済まされなかった。俺の恐怖は、どういうわけか、暗がりの中でを力を持ち、実態を伴って顕在化している様子だった。先の見えない道の先から何かがやってくるんじゃないかと想像すれば、その道の先に何かの気配が生じた。ごうごうと吹く風が、何か巨大な化け物の吐息のようだと思えば、風は生ぬるくなり、生くさい匂いを運んでくるようになった。空にあいた穴から何か恐ろしいものがこちらを見ているのではないかと思えば、実際に視線を感じるようになった。そんなある種子供じみた妄想であっても、世界を歪めていくので、風で何かが動く気配、暗い道端の溝の底、民家の塀の隙間、恐怖の入り込む余地はいくらでもあって、想像してしまうたびに世界の何かがずれていくのを感じた。歩いてきた道は俺が恐れたもので溢れかえってぎゅうぎゅうになっていた。絶対に振り向いてはいけない、そう思った。

 それでも体は進んでいくので、どうしようもできないうちに、気づけば家のすぐ近くに来てしまった。電気こそついていないが見慣れた我が家であったが、なぜかとても恐ろしく感じる。そもそもこの時間に誰も家に帰ってきていないなんてことはありえないから、電気が付いていないというのも異様だ。ここは我が家であって我が家ではない。

 その異様さに、この家に帰ったら、もう二度と本当の家には帰れないのではないかと想像してしまった。なんとも愚かにも、想像してしまった!

 この家に帰ってはいけない!そう思った俺は必死に家へと向かおうとする体を止めようとするが、立ち止まることはできない。体はどんどん家へと進んでいく。手は動かすことができたから、塀を掴んで止まろうとする。少し速度は落ちたが僅かな時間稼ぎにしかならなかった。ずんずんずんずんと家に近づくたびに空の黒がより俺の体に手を伸ばしてきた。かろうじて見えていた足元まで黒に包まれて、暗闇の中、もはや体の感覚もなく、意識だけになった俺が家の門へと突き進んでいた。

 もうだめだ、そう思った時、コートのポケットの中のスマホの存在を思い出した。体は見えないので、体をまさぐってポケットの位置を探す。あった。スマホの画面は光っているから見えているが、その周りが明るくなることはなく、不自然に光が吸収されている様子だった。しかし、そんなことを気にしている時間の余裕はない。急いで取り出して、祈るような思いで着信履歴の一番上の相手にリダイヤルする。多分母親だった。発信音は無限に続くように感じられたが、実際には2コールほどで電話はつながった。聞き慣れた母親の声がする。その声に安堵を覚えた。そして口を開こうとし、実際に発話するまでの一瞬、まてよ、と思う。電話で今の状況を伝えるべきだろうか。信じてもらえないだろうし、信じてもらえたところで、母親もそんなこと言われてもなあとなるんじゃないか……いいや、そんな理由は後付けで、今、ここで声に出してしまえば、何か均衡が崩れてしまう気がした。危険に気づいたこと、に気づかれてしまうのでは、それはとても恐ろしいことではないか、という不安を感じた。少し脅迫観念のようにも思えたが、その直感に従うべきだと思った。この暗闇の中で恐怖は力を得る。それを散々実感してきたからだ。

 結局電話で助けを求めることはやめて、代わりにあることを聞くことにした。答えを聞いた瞬間、家へと向かう足は止まっていた。それから少しばかり、他愛のない会話をして電話を引き伸ばした。少しでも人とのつながりを感じていたかったからだ。でもある程度話したところで、夕飯の準備で忙しいからと電話を切られてしまった。

 あたりを見渡すと、さっきまでの異様な黒は無くなっていた。空の穴も無くなって、隠れてはいるけどちゃんと月も昇っている様子だった。あんなにも暗いと思っていた空は、月の明かりが雲に隠されてぼんやりとしてはいたが、むしろ幻想的に思えた。周囲の民家の明かり、雲の合間からほのかに星の光が見え、夜の中にある民家の光は人間の営みを感じさせた。夜は意外に明るい。しばらく立ち止まって、戻ってきた明るい夜を堪能していた。

 もうしばらくそうしていたかったが、先程の電話でただ一つ生じた問題のために、そうしているわけにはいかなかった。

「醤油とネギ、か……」

 その問題とは、さっき電話で聞いた買い忘れたものだった。電話した時には、自然に家から離れるにはこれに賭けるしかないと思っていた。買い忘れのおかげで俺は家に帰れなくなったから助かりはしたが、おかげでまたこの暗い夜道を往復しなければいけなくなった。しかし、たまたま買い忘れがあったからよかったものの、なかったら……いや、考えるのはよしておこう。

 またあの黒い空に飲み込まれないよう、暗い夜空の中のどんなかすかな明かりも見逃さないように歩こう。そう思いながら俺はきた道を戻り始めた。

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黒い空 カム菜 @kamodaikon

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