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 S駅の構内は、人でごった返していた。いや、それはいつものことだった。

 自動改札機にスマホをかざして通り抜けた後、歩きながら思わずスマホの画面をのぞくと、どうやらダウンロードは終わっていたらしく、表示が『インストール中』に変わっていた。

 首都環状線外回りホームへの階段を、人混みにまみれてゆっくりと歩きながら、僕はずっとスマホの画面をみていた。伏見警部補にもらったデータは、どうやらアプリらしい。


(待ちきれないな……やっぱり、本当にすごい人なんだな。日夜サイバー犯罪を追うだけじゃなく、こんなプレゼント用のアプリまで作っちゃうなんて)


 僕と彼との年齢差が、たったの二歳——いや、あれは冗談で、本当は四歳?——しか離れていないとは、到底思えない。

 そう言えば、結局のところ、僕は全然、これからの人生の準備が出来ていなかったことを思い出した。

 まずは、どこでも良い。とりあえずは就職して、きちんと社会人としてのスタートを切らなくちゃ。実際に会ったこともない偉人をお題目にするより、身近に接したことのあるヒーローの方がよっぽど目指し甲斐がある。

 そうだ。僕は伏見警部補のような、思いやりのあるプロフェッショナルになれば良い。


 駅のホームに、見慣れた緑の環状線車両が滑り込む。

 周囲の人混みの空気を一気に撹拌かくはんして、大きな乗車口が開く。


「ウッシャーっ!」


 突然、近くで吠え出す若者がいた。思わずそちらをみたが、男女数人の集まりのうち、一番、頭の色と中身が薄そうな男がぴょんぴょん飛び跳ねていた。

 いつもならば、思わず舌打ちをしていたかも知れない。でも、今日は特に気にならなかった。

 車両の乗車口をくぐると、すぐにプシューっと聴き慣れた音を立てて扉は閉まった。

 楽しみにしていたスマホの画面を見ると、いつの間にかホーム画面上に新しいアプリのアイコンが作られていた。

 そのアイコンは、背景が全て黒地で、そこに薄い蛍光緑で縁取られた赤字の『B』の一文字が、スタイリッシュな斜体字で大胆に配されていた。


(やばい。かっけえ……)


 いささか興奮気味に、僕はそのアイコンをクリックした。

 ガコンっと、電車が一瞬揺れ、僕は扉脇の空間に身を納めて、アプリの起動を待った。

 スマホの画面はしばらく暗転して、何か裏で読み込みをしているらしかったが、その後すぐに表示されたタイトルが、どこか引っ掛かった。


『B列車で行こう』


 とてつもなく、イヤな予感がした。理由は、分からない。

 その時、ふと、窓の外を見た。

 列車は駅の構内を出て、先ほどまで伏見警部補と一緒にいた、小さな広場が眼下に見えた。


「あ……」


 確か、ではない。確か、ではないが、眼下の広場で一人、紺色に目立つピーコートを来た人物が、マスクをつけて、こちらを、じっと見ている、そんな気がした。

 その狐の目のような、薄気味の悪いほど切れ長な視線に、頭の中の記憶のどこかが、弾けた。

 彼は、笑っているような、そんな気がした。だが、そんなことを考える意味のないことを、僕は直感的に理解した。


 スマホの画面を見ると、ドット絵で描かれた運転席が表示されており、運転手らしきキャラクターが一人、配置されていた。その画面右側には、メーターのようなものがあり、『100%』と表示され、画面の中では、運転手のキャラクターが、『アレ、アレ、ヤバイ、ナンデゼンカイナンダ』などと叫びながら、滑稽にぴょんぴょんと飛び跳ねていた。

 一応、僕はスマホの画面をいろいろと触ってみたが、何の反応もなかった。

 僕は、頭の側面にジワジワとした痺れのようなものを自覚しながら、手近な座席についた。

 車両の外に目を移すと、この環状線内ではすでに見たことのないほどの速さで景色がビュンビュン通り過ぎており、ついに停車するはずの駅まですっ飛ばす段になって、俄に車内はざわつき出した。

 先ほど阿呆のように飛び跳ねていた若者のグループが、むしろ静かに、皆でかじりつくように座席に並んで、外を見つめていた。

 体の全体に、じわりとまとわりつくように不吉な感触のする、独特の浮遊感が漂い出した。恐らくは、この列車の安全速度圏を遥かに上回ってしまったからだろう。

 周囲のざわめきが、次第に悲鳴へと変わっていく。


 そして、僕はそっと、目を閉じた。

 かような生贄の身では、どうせ何も、見えはしないのだから。



(了)


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盲目の生贄 入川 夏聞 @jkl94992000

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