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「やあ。山崎さん」


 僕が歩き出そうとしたところ、近くのバス停のベンチに腰掛けていた人影が立ち上がった。


「あ、伏見警部補」


「もう釈放なんだから、そんな堅苦しい肩書きはいらないよ。年も近そうだし、伏見で良いよ」


「今日は、お世話になりました。伏見、さん……」


 伏見警部補は昼間のスーツ姿のまま、動きやすそうな紺色のピーコートを羽織はおり、やはりそのままでは新人の社会人と言っても不思議ではないほどの雰囲気だった。唯一らしくないと言えば、前髪を全てポマードらしきもので逆立ててオールバックに固めていることくらいで、昼間に会った時よりは緊張せずに彼の表情をゆっくりと観察出来たが、それでも、流石に呼び捨てにするほどには馴れなれしい気持ちも起きなかった。


「駅まで一緒に行こう」と言う伏見警部補に流されるまま、僕はうつむき加減でゆっくりと歩いた。伏見警部補も気を使ってくれているのか、そんな僕の歩調に合わせてくれているみたいだった。

「帰りは、環状線? どこまで?」など取り留めもない会話の端々に、包み込むような柔らかさを持った心遣いが感じられ、僕はその雰囲気についついほだされて、少々余計なことを彼に聞いてみる気になった。


「あの、キツネ目の男については、もう、目星はついているのですか」


 少し意外そうな表情を見せた伏見警部補は、昼間と同じようにまた几帳面に腕を組んで、人差し指を自分のほおに当てた。


「その件についてだけど、一つ、面白い情報があるんだ。もし、君がきちんと昼間結んだ守秘義務と同じように、誰にも口外しないと約束してくれるんだったら、内緒で教えてあげる」


 薄目をさらにうすくして、伏見警部補は微笑んだ。僕もつられて笑顔になり、その約束を快諾した。

 伏見警部補はスーツの裏ポケットから、一枚の写真を取り出して見せてくれた。


「見覚え、あるかい?」


「……はい、あります」僕はそう答えながら、少し、渡された写真を掴む手が震えるのを自覚した。


 写真に写っていたのは、僕が騙されて参加した、偽の東国鉄の面接会場にいた面接官の男だった。


「彼の名前はね、まあ、ここで君に伝える必要もないから、仮に東国鉄ひがしこくてつ 秀男ひでおとしておこうか。この秀男なる人物は、元々が日本人ではなくて、中国の情報局にロシアから送り込まれていた諜報員でね。情報戦では並ぶ者なしと評され、東欧諸国で長年恐れられていたほどの凄腕だったんだ。それがコロナの影響で武漢に足止めになった際に捕まった、あるつまらない男に連座する形で中国当局に拘束されることになった。だが、彼は結局のところ、上手く替え玉を作って、得意の情報改竄かいざんスキルで日本行きの航空便予約を盗み、そのままこの日本のどこかで潜伏している、と言うのが、本庁の確かな筋からの情報さ」


 驚愕の話だった。あの長机をバンバン叩いていたおじさんが、凄腕のスパイだったなんて。俄には信じ難いが、そもそも、自分自身がすでに信じ難い事件の当事者として巻き込まれているあたり、もう何が真実かどうかは、どうでも良いような気がしてきた。

 完全に、ただの大学生が対処できるレベルを超えている。


「これも私の推測だけどね、山崎さん。君が見た、そのキツネ目君は、きっとこの秀男に脅されてDVDを渡す役を引き受けただけか、或いはただの下っ端なんじゃないのかな。君も十分知っての通り、今回の事件は、単独で行うには、あまりに人間離れした情報技術が数多く駆使されている。秀男には、それらを実現できるだけのスキルも、裏の人脈もある。それだけの豊かな経験、実績がある。だが、君の見たそのキツネ目君は、見た目からして、君と同い年くらいの学生なんだろう? 両者が一時的にしろ、長期的にしろ、組んでいたことは明らかだけど、その両者のどちらがより実行犯に近いか、を考察した時、私としては、それは自明なんじゃあないか、と思うよ」


 その通りだ、としか、今の僕には思えなかった。続けて伏見警部補が話してくれた、秀男の今回の事件を引き起こした動機が、日本政府への脅しと、日本のインフラの混乱に乗じた高飛びの両方にある、と言う指摘も、見事と言うほかはない。

 少し、胸のつかえが、取れたような気がする。こんなにも一大学生の範疇から飛び越えてしまった話なのだとしたら、やはり、僕にはどうしようもないし、どうもしなくて良い。

 つまり、僕が血眼になって、あのキツネ目君を探し回るようなことは、全然、しなくて良いのだ。恨む対象が、こうも自分が認識可能なスケールの外にあると分かれば、むしろすっぱり諦めがつく。


「ふふ。どうやら、何か、参考になったようだね」


 嬉しそうに、伏見警部補は僕の顔を覗き込んだ。


「ええ、ありがとうございます。僕が実行犯だと言う事実は消えませんけど、ともかく、皆さんにお任せしよう、と言う覚悟は出来ました」


「そうだね、一緒に戦おう!」


 伏見警部補が差し出してくれた手を握ると、そこはすでにS駅の側の広場だった。


「そう言えば、伏見さんはおいくつなんですか?」


 僕が戯れに聞いてみたところ、果たして、伏見警部補は僕よりたった二つしか変わらない二十四才だと言うことだった。


「実はね。二つばかり、年齢を誤魔化して入庁しているんだよ」


 人差し指を口に当てて、わざとらしい沈黙のポーズを取る伏見警部補に、「ウッソだあ、さすがにそれは騙されないですよ」と僕は応じた。


「そんなことが出来るなら、今回の事件もすぐに解決出来ますね! 東国鉄側のバックドアとか、痕跡のないログとか、伏見さんがいれば楽勝ですよ」


 凛々とした呼気を発してエールを送る僕に対して、意外にも伏見警部補は少し、寂しげな表情を浮かべた。


「そうだね。ただ、正直なところ、私はこの事件がこのまま、迷宮入りになってしまっても良い、と思っているんだ」


「え、それは、どうしてですか?」


「そうだね。もう会えるのは最後かも知れないから、話しておこうか。実は、私は元々高卒で東国鉄の情報開発本部に入職したエンジニアだったんだよ。私が入職した頃から、すでに完全遠隔で車両を制御する計画は存在していた。それだけに、あの車両遠隔操作プロジェクトの危険性も、よく理解していた。いろいろあって、今は警視庁にいるけれど、今回の事件は、私が長年、ずっと危惧を抱いていたこと、それが、考えうる限り最悪の形で実現してしまった事件だったんだ……」


 そう話しながら、広場から見える環状線のホームを見る伏見警部補の横顔は、本当に悲しそうだった。


「私はね、山崎さん。そんな人の命を脅かす危険のあるプロジェクトは、正直なところ、この世から消えてしまえば良い、と思っているんだ。今回のことは、山崎さんにとっても、もちろん死傷者の方々、ご遺族の方々にとっても、大きな不幸であったことは間違いない。それと同時に、私たち人類全体にとっては、大きな教訓になったんじゃないかな。だから、このまま事件が迷宮入りしてしまえば、昼間話したように、プロジェクトは永久凍結されるだろうし、君も、恐らくは執行猶予付きの有罪判決程度の決着で、あとは普通の生活を十分に送れるんだと思う」


 だから、と伏見警部補は言って、もう一度、右手を差し出して、「どうか、希望を捨てずに、これからも頑張って欲しい」と力強く、僕と握手を交わしてくれた。


 確かに、このまま秀男のような超一流のハッカーが真犯人だと言うことで捕まったら、車両遠隔操作プロジェクトは、たまたま仕方のないアクシデントに見舞われただけで、開発自体は継続する結論として、世論の操作が出来てしまうのかも知れない。ただでさえ膨大な予算を注ぎ込んできたプロジェクトなのだから、その存続のためならば多少の世論の買収など、雲の上の人々はいとも簡単にやってしまうのだろう。そんな巨大なプロジェクトを完全に頓挫させる、と言うのは、それこそ今回の事件のような死傷者が出るほどの想定外に大きなアクシデントの他に、決して明らかには出来ない真実や、それらに対する幾重にも権力にまみれたヴェールに包み隠された事情と言うものが、どうしても必要となるのだろう。

 僕自身も含めて、人生を多少なりとも狂わされ、あまつさえ奪われてしまった人々は、まるで巨大な聖域に捧げられた『生贄』のようなものだ。

 そして、それら供物として一旦捧げられてしまった生贄の瞳には、もう決して、真実は映らない。

 僕らはまさに、盲目の生贄だ。それが、今回の事件を経て、僕の脳裏に真っ先に浮かんだ言葉だった。


「山崎君」


 いつの間にか、僕に対する伏見警部補の呼び方が、変わっていた。まるで、昔からの親しい友人に呼びかけるように僕の名を口にしてくれたことが、素直にとても嬉しかった。


「これを」そう言って彼が渡してくれたのは、名刺大のカードだった。真ん中には、QRコードが印刷されている。

 僕が戸惑っていると、「スマホ、貸して」と促され、彼はそのまま流れるような手つきで、そのQRコードを僕のスマホに読み込ませた。

 僕がスマホを返してもらうと、何かをダウンロードしているようだった。


「君になら、理解してもらえると思ったからさ。私からのプレゼントだよ。少しダウンロードには時間がかかるだろうから、あとで電車に乗って暇な時にでも、ぜひ、眺めてみて」


 最後に笑って別れた時の伏見警部補の表情は、清々しいほど若い精気に溢れた、うすい目の優しい若者らしい顔だった。

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