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「昔々、あるところに二人の若い男女がいました。

 二人は当時大学生で、世間というものを知らず、東北の田舎から東京に出てきたばかりの頃でした。


 同じ大学に通う二人は、必然のように出会いました。

 お互いに東北出身ということもあり、すぐに仲良くなりました。

 やがて同じ部屋で暮らし始めました。

 そして、子供を身ごもったことが分かりました。

 当然、二人の両親は怒り狂い、結局二人は駆け落ちし、両家から絶縁されました。


 しかしながら、当時はバブル時代と呼ばれている頃で、現代から考えるとはるかに割りの良い仕事がごろごろと転がっていました。

 父親となる青年は、東北出身の若者らしく、地道に真面目に大工仕事に精を出しました。

 母親となる少女もまた、家庭で夫を健気に支えていました。


 そうしている間に、元気な丸々とした男の子が産まれました。

 男の子は両親に見守られ、すくすくと成長していきました。


 しかし、世間はこの若い家族を歓迎してくれはしませんでした。

 時代は浮かれ騒ぐ、狂乱の時代です。

 二人は田舎者で、遊ぶということを知らぬまま、結婚してしまったのです。

 周囲の人間からは、付き合いが悪いと敬遠され、取り残されてしまいました。

 それでも、男の子は両親が大好きで、質素ではありましたが幸せでした。


 しかし、そのささやかな家庭はバブルよりも、一足先に崩壊してしまいました。

 母親がこの生活に耐え切れなくなり、夜な夜な遊び歩くようになってしまったのです。

 父親はどうにかやめさせようとしました。

 しかし、無駄でした。

 今までの反動があったのでしょう、ある日たった一枚の紙切れを残して家を出て行きました。

 こう書いてあるだけでした。


『新しい人生を歩きます』


 男の子には全く意味が分かりませんでした。

『どうしてお母さんはいなくなったの?』と不思議そうに父親に聞くだけです。

 呆然と立ち尽くしていた父親は、突然男の子を抱きしめて震えているだけでした。

 父親は『裏切られてしまった。俺にはもうお前しかいない。』とつぶやき、男の子は頭の上に冷たいしずくが落ちてくるのを感じていました。


 男の子はこの時、全く理解できていませんでした。

 無理もありません、男の子は当時3歳でした。

 しかし、本能的に悟ったのでしょう。

 二度と母親のことは口にしませんでした。

 父親は折れかけましたが、どうにか立ち直り、忘れようとするかのように必死に働きました。


 男の子は10歳になり、少年へと成長しました。

 時代も流れ、バブルは完全に崩壊し、浮かれ騒ぐ時も終わりました。

 生活もまた苦しくはなりましたが、少年は特に気にしませんでした。

 まだ、父親がいましたから。


 ある日、変化の時が来ました。

 父親が転職して、喫茶店を開くことになりました。

 そして、設備が全てそろった店舗を見つけてきました。

 立地条件も悪くありません。

 しかも、居住空間まであり、残っていたのが不思議なぐらいの掘り出し物でした。


 もちろん、そのままでは開店することはできません。

 しかし、さすがは元大工、自分の理想の店舗にリフォームしてしまいました。


 すぐに開店することが出来ました。

 評判は決して悪くはありませんでした。

 どこでコーヒーの淹れ方を覚えたのかわかりませんが、まずくはありません。

 料理も男手一つで少年を育ててきただけあって味も上々。

 大繁盛することはありませんでしたが、父親の人柄のおかげか、何人か常連客をつかむことが出来ました。

 少年も店を手伝うことがあり、女性客にうけていました。


 その内に店も軌道に乗り、忙しくなってきました。

 さすがに、アルバイトを雇いました。

 そして、大学生や近くの主婦を雇うことになりました。

 そのおかげで、父親も自分の時間を持つことが出来ました。


 ちょうどその頃、常連客の中に親しみの持てそうな一人の若い女の人がいました。

 父親は他の常連客と同じように接していました。


 ある日、その女の人の元気がないようなので、父親は気になっているようでした。

 そして、デザートを出してあげました。

 女の人は注文していないと断りました。

 しかし、父親はサービスだと言って置いていきました。

 女の人は半分近く食べると、突然涙をこぼし始めました。

 父親は見ていられなくなり、身の上話を聞いていました。


 それから二人は親密になっていきました。

 少年は、父親がその女の人と他の常連客とでは違う親密さがあることに気が付いていました。


 少年を連れて遊園地に行ったこともありました。

 少年はその女の人と一緒にいて楽しかったのです。

 父親も二人を見ていて、嬉しそうな顔をしていました。

 それからの二人はますます親しくなり、少年もまた、ますます好きになりました。

 二人だけで夜にどこかへと行くこともありました。


 そして、ついに『新しいお母さんが欲しくないか』と父親が少年に尋ねました。

 少年はその新しいお母さんが誰なのか、すぐにぴんときました。

 『あの女の人だね』と興奮して叫びました。

 父親は照れくさそうに『そうだよ』と言いました。

 もちろん、少年には反対する理由はありませんでした。

 すでにあの女の人が大好きになっていたのですから。

 『絶対にお母さんになって欲しい』と少年は答えました。


 その日からすぐに、父親はプロポーズしたらしいのです。

 女の人は少し考えさせて欲しい、と答えたそうです。


 その日から女の人が店に来ることなく、時間だけが過ぎていきました。

 父親は我慢強く待っていました。

 少年はそわそわして落ち着きませんでした。

 無理もないことでした。

 少年は幼い時に母親に捨てられているのです。

 母親がいるということがどういうことなのかわからず、あれこれと想像していました。

 少年は母親と一緒にいる友達と会う度に、胸の中にもやもやとしたものがありました。

 少年は父親の前では口に出しませんでしたが、やはり母性に飢えていたのです。


 ある日、少年が学校へ行こうと起きました。

 しかし、父親が起きてきませんでした。

 普段なら、父親が先に起きて朝食を作っているはずでした。

 変だなと思い、父親の部屋をのぞいてみると、まだ布団の中にいました。

 風邪でもひいたのかと心配になり聞きました。

 『ちょっとな』と父親はつぶやき、『大丈夫だ。学校へ行ってきなさい』と付け加えました。

 起き上がろうともせず、ずっと少年に背を向けたまま振り返りませんでした。

 少年は言われたとおり、学校へと行きました。


 朝の出来事も忘れて一日を過ごしました。

 いつも以上に笑うことが多く、担任の気分で授業が突然サッカーに変更になったりと妙に楽しい一日でした。


 しかし、家に帰ってきた時、店が閉まっていました。

 本当に風邪でもひいてしまったのかと心配になり、父親の部屋をのぞいてみましたがいませんでした。

 家中探してもどこにもいませんでした。

 少年は嫌な予感がしてパニックになり、外に飛び出しました。


 ちょうど出勤してきたアルバイトの大学生にぶつかり我に返りました。

 そして、事情を説明しましたが、いまいち伝わりません。

 どうにか事情がのみこめ、一緒に探してくれました。

 常連の人たちもいつの間にか手伝ってくれていました。

 しかし、見つかりませんでした。


『実はもう戻っているんじゃないか』と誰かが言いました。

 その言葉を合図に、みんな自分にそう言い聞かせるように、店に戻って行きました。

 しかし、いませんでした。

 このまま待っていたのでは埒が明かないので、常連の一人のおじいさんを残して他のみんなは帰りました。

 おじいさんは少年を気遣い話しかけていましたが、少年は不安に苛まれて何も耳に入ってきませんでした。


 夜中になり、少年がうとうとしていると店の電話が鳴り響きました。

 少年にはこれ以上踏み込んではいけない警戒音に聞こえました。

 一緒にいたおじいさんが唾を飲み込みながら、電話に出ました。

 話を聞いているうちに、みるみる血の気が引いていきました。

 少年はおじいさんが今にも倒れてしまうのではないかと思いました。

 おじいさんは震える手で電話を置くと、少年にこう言いました。

 『海に飛んじまった』と。


 そう、父親はレンタカーで車ごと海に落ちてしまったのです。

 遺体からは大量のアルコールが検出されたそうです。


 全ては狡猾に仕組まれた罠だったのです。あの女の人はただの魔女でした。

 少年をだまして父親を油断させ、有り金全てを奪う為に、緻密に計算された大芝居でした。」


 ジローはここまで淡々と話して黙り込んだ。

 そして、彼をじっと睨み付けるように、彼の様子を見ていた。

 彼もまた、黙り込んで見返していた。


「ここまでで大体半分だ。まだ、聞きたいか?」


 ジローは挑発するように、彼のことを見ていた。

 彼もまだ黙っていた。

 しかし、話し始めたのなら最後まで言いやがれ、と目で答えていた。


 まだ、全てではないが、ジローという男の本質が見えてきた。

 いつものニヤケ面は仮面を被っているだけだ。

 お調子者のふざけた態度もまた、自分を守るための鎧に過ぎない。

 だが、その内側はこの世への憎悪の黒い炎で焼け爛れている。

 それも根深いところまで。


「……ふん、分かったよ。続けるぜ。」

 ジローはそう言うと、もうぬるくなり、気の抜けたビールを一気に飲み干した。

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