13
その週末、仕事が終わったばかりの彼に、彼女からの電話が入った。
仕事!
そう、僕はこれまでの間に仕事を始めていたのだ。
大手ワイン商社が持つワイン専門店での仕事を見つけていた。
給料は高くはなかったが、条件は悪くなかったので応募してみた。
すると、何が起きたのかは分からないが、なぜか面接官、というよりも店長に気に入られ、すぐに採用された。
そして、実際にやってみると、接客販売の仕事なのだが、意外にも人とワインの話をすることは僕には向いているようだった。
彼女にそのことを連絡したら、自分のことのように喜んでくれ、お祝いまでしてくれた。
そんな彼女からの連絡だった。
しかし、明らかに様子がおかしかった。
声に全く張りがないし、歯切れが悪い。
こんなことは、これが初めてだ。
とにかく会いたいということだった。
彼が例のワインバーへ行ってみると、彼女はもう来ていた。
しかもすでに飲み始めている。
ますますおかしかった。
「ねえ、何があったの?」
彼は席に着くなり、前置きもなく聞いた。
「うん、実は、ナッツが突然仕事を辞めちゃったの。」
彼女はぽつんとつぶやいて黙ってしまった。
「でも、突然って、君にも何も言わなかったの?」
そう言った途端、彼女はキッと彼をにらみつけた。
「そうよ!突然って言ったでしょ!……ごめんなさい。あなたに怒ることじゃないわ。あの人にも同じことを言われて、つい。あの人があの子の直接の上司だから。」
今度は急にしおれてしまった。
「ごめん、こっちこそ無神経だった。」
「ううん、そんなことないよ。私、ちょっと混乱しているの。ナッツのこと言われるまで全く気が付かなかった。でも、今から考えてみると、あの子なりにサインを出していたんだって分かった。不自然に普段よりも化粧の濃い日があった。元々ぼんやりとしている子だけど、さらに輪をかけたような日もあったのよ。何で気付いてあげることができなかったんだろう。」
彼女は自分を責め、自分の暗い影の中に入り込んでしまったようだった。
彼はただ黙って聞いていてあげることしか出来なかった。
彼女はさらに続けた。
「何回も電話をかけたんだけど、ずっとつながらなくって。それで、さっきあの子の実家に電話をしてみたの。ずっと実家暮らしだからね。でも、今は会社の近くで一人暮らしをしているはずだって言うのよ。おかしいでしょ。そんなこと秘密にするようなことじゃないのに。電話を切った後、嫌な想像している時に、ちょうどあなたが来たのよ。」
彼女はワイングラスを口に運び、気付け薬かのように一気に飲み干した。
「落ち着きなよ。とりあえずジローに聞いてみるから。」
彼はポケットからスマホを取り出し、ジローに電話をかけた。
しかし、ジローは出なかった。
電話を切ると、大至急連絡をくれとメールで伝言だけを入れた。
「そんなに大袈裟に考えなくてもいいよ。嫌なことがあったから一人になりたいだけだよ。」
「そんなに無責任な子じゃない!私にとっては、こっちに来てからの友達なの。短い付き合いじゃないわ。そういう子だったらすぐに分かる。……でも、あなたの言うとおり、考えすぎかも。」
彼女はそれっきり黙ってしまった。
困った彼は苦肉の策として、彼女に何か食べて落ち着こうと提案した。
彼女もそうね、と上の空で同意はしてくれた。
とりあえず、自家製のピザを注文した。
出来上がるまで時間がかかるので、シーザーサラダを注文し二人で食べた。
この状態の彼女の食べっぷりは、興味深いものがあった。
親の仇かのように、サラダを口の中に放り込んではバリバリと噛み潰した。
彼はそんな彼女の様子を観察するように眺めていた。
サラミ、チーズ、クラッカーなどのオードブルも注文したが、瞬く間に皿を残すのみだった。
8枚切りの自家製ピザが出てくると、彼が1枚だけ取って、さらに観察を続けた。
そうして、彼女は残りの全てをぺろりと平らげた。
彼女は一息つくと、ピンク色だった頬が真っ赤になった。
「何やってるんだろう!恥ずかしい。」
無意識の自分が仕出かしたことに唖然としていた。
「見ていて面白かったよ。」
彼は笑いを堪えて、小刻みに震えていた。
「もう、からかわないでよ。ああ、バカみたい。」
彼女は耳まで真っ赤になっていた。
「でも、少し元気になったみたいだね。」
彼はにこりと笑った。
彼らはデザートのアイスクリームを、今度はゆっくりと味わって食べた。
彼らは店を出ると、名古屋の街を散歩した。
夏の熱気を含んだ空気はいつの間にか、秋の寂しげな少し肌寒い空気へと移り変わっていた。
星のほとんど見えない空には、新月の黒い穴がぽっかりと口を空けていた。
「いつの間にか夏も終わっちゃったね。」
彼女は少し感傷的になったのか、ぽつりと静かにつぶやいた。
「そうだね。いつも気が付いたら夏が終わっていて、夢でも見ていた気になるんだ。不思議と良い年も悪い年もそう思えてね。結局、夢から現実に戻ったっていうことなのかな。」
「うん。でも、それだけということでもないよ。ほら、何て言えばいいのかな。……ん?どうかしたの?」
彼女は彼が微笑みながら見つめている視線に気が付いた。
「ようやく、いつもの君に戻ってきたなと思って。」
彼の中にあったもやもやとしたものがなくなり、身体が軽くなったような気がする。
「確かに、今日の私はおかしかったって自分でも思うよ。ねえ、嫌いになった?」
彼女は不安そうに彼をちらりと見た。
「そんなことはないよ。でも、見ていて新鮮だったかな。」
彼は思い出し笑いをしながら答えた。
「もう、またからかって!」
彼女はつんとそっぽを向いてしまった。
しかし、彼女はすぐに笑い出した。
今日初めての笑顔だ。
彼らは名古屋駅へとぶらぶら歩き、川沿いにある風俗街へとやってきた。
雑居ビルからは、妖しげなネオンが蛾を誘うように瞬いている。
なぜこんなところに来てしまったのか分からないが、彼女がこの土地を歩いていることは場違いなことだった。
名古屋駅に向かって、少し足を早めた。
その時に、妖しげなネオンの灯っている店の中へ、安い格好をした風俗嬢が入ろうとしていた。
顔が見えた瞬間、彼は呆然と立ち尽くした。
彼女は彼が立ち尽くしていることに気付き、彼の視線の先を見た。
彼女にも何が起こったのか理解できたようだ。
「ちょっとあんた!こんなところで何やっているの!?」
彼女は前を歩いていく風俗嬢を呼び止めた。
風俗嬢は振り返って、こっちを向いた。
やっぱり、ナッツだった。
ナッツは彼と彼女の存在に気付いて、目を大きく見開き口に手を当てていた。
不意に、ナッツは逃げ出そうとしたが、彼女の方が早く、ナッツの手を捕まえた。
「どうして?何でこんなことやってるの?何で何も言ってくれなかったの?」
彼女は問い詰めるような早口だった。
彼女の理解を超えてしまい、まるで彼女の中の思考回路が誤作動を起こしているようだった。
「だって、言いにくかったし、それに・・・。」
ナッツはうつむいて、もぞもぞと自分の両手を絡めていた。
「そうか。あの男のせいね?あの男があなたに無理矢理やらせているのね。」
彼女が思いに至った瞬間に、マグマが燃え立つように彼女の身体が怒りに震えた。
「うん、でも、無理矢理じゃないよ。ジローちゃんが、もっと大きいマンションに引っ越したいって言ってて、でも、お金が足りないって。だからあたしがジローちゃんの為にがんばろうと思って。ジローちゃんのこと好きだし。」
ナッツは例の口調で言い訳を言った。
そのせいか、彼女のマグマは噴火した。
「バカじゃないの!そんなのあなたのことをただの財布としか思っていないのよ。あなたのことを大切に思っているのなら、こんなところで働かせるわけないじゃない。あんな男とはすぐに別れなさい。それにこんな店もすぐに辞めて、それで……」
「うるさい!」
ナッツは突然大声で怒鳴った。
彼は思わず後ずさってしまった。
こんな声を出せるとは思ってもみなかったのだろう。
彼女はさらに驚いて固まってしまった。
「あんたには、あたしのことなんて分かるわけないよ!頭もいいし、仕事でも男の人が相手でも負けたりしなくてかっこいいし、それに化粧だって全然しなくてもかわいいし!何でも持ってるじゃない!そんなのずるいよ!あたしなんて自分でもバカだって分かるし、すぐに流されちゃうし、化粧してごまかさないとほんとにひどいの。あたしだって相談したかった。でも、幸せそうな顔見てたら、何も言えなくなっちゃったの。自分だけ幸せでいればいいじゃない。あたしなんかどうだっていいでしょ。もう放っといてよ!」
ナッツは彼女の手を振り解き、突然走り出した。
彼らは呆然と見ているだけだった。
彼はハッと口を開いた。
彼女も気付いて何かを叫んだ。
ナッツは赤信号に突っ込んでいった。
急ブレーキやクラクションの音が交差点に響き渡った。
しかし、ナッツは光がすり抜けるように、一直線に反対側へと走り抜けていった。
彼らはナッツの後姿が闇に溶け込んでいくまで、見ていることしか出来なかった。
この後、彼女は絶対に許さない、ジローの家に連れて行きなさいと言って凄まじい剣幕だった。
彼は彼女に落ち着いてもらおうと、言葉の限りを尽くした。
こんな勢いで行ったら、話し合いだけで済むはずがない。
何度も同じ問答を繰り返し、ようやく彼女も落ち着いてきた。
そうしてから、彼は彼女を駅まで送った。
彼が必ず連絡するから待っててと言うと、彼女は絶対だよと答えた。
そして、彼は彼女と一旦別れた。
彼女が駅へと姿が消えると、すぐにジローから電話がかかってきた。
彼が今どこにいるのだと聞いたら、ジローは錦にいるらしい。
街の中心から離れた鉄板焼き屋で、待ち合わせをすることにした。
そこまで地下鉄で行くことは出来るが、急ごうとタクシーをつかまえて向かった。
店へとやってくると、ジローはすでに来ていて、串焼きを食べながら生ビールを飲んでいた。
「ようアニキ、久しぶりだな。」
ジローは腹立たしいほど、いつもどおりにニヤつきながら挨拶をしてきた。
彼は無言のまま、ジローの正面の席に座った。
店員がすぐに注文をとりに来たので、彼は生ビールだけを注文した。
「どうした?いつにも増して無愛想じゃないか。」
ジローは少し警戒したのか、ニヤケ面を引っ込めた。
「なあ、もう一度聞くけど、お前の仕事って何だ?」
彼の声に感情などこもっていなかった。
「おいおい。そんなのどうでもいいだろ。今更改まって聞くようなことじゃないだろ。」
ジローはあくまでも、ごまかすつもりのようだ。
さっきの店員が生ビールを持ってきたので、彼は一気に半分近くまで飲んだ。
彼はもう回りくどいことをするつもりがないのか、ついさっき起こったことをかいつまんで説明した。
話を聞く内に、ジローからいつものニヤケ面は完全に消え、目が据わってきた。
そして、彼はジローを見据えた。
「なあ、全部お前の仕業なんだろ?」
「良く分かったじゃないか。おめでとう。」
ジローはふてぶてしく両手を打ち鳴らした。
「偶然とはいえたいしたもんだ。そうだよ、オレはスカウトやってるんだ。風俗関係のな。だけど、全部オレの責任って訳でもないんじゃないか?大体、そんなに簡単に引っかかる奴が悪い。」
「そうだな。確かに、お前の言うとおり、簡単に引っかかる方にも責任がない訳じゃない。だけどな、ナッツは彼女の友達なんだぞ。そんな相手を引っ掛けるなんてやりすぎだろ!」
彼は声を荒げた。
自分の声とは思えない声だった。
「何をそんなに熱くなってんだよ?大体、アニキはそんな奴じゃないだろ。他人なんかどうなろうと知ったことじゃねえって、冷めた目した奴だったはずだ。あの女に洗脳されたか?」
ジローは悪意の含んだ目で、彼を挑発していた。
自分の行為を咎められても、動じることなく涼しい顔をしている。
「いい加減にしろよ。確かにオレはそういう奴だ。でも、彼女を悪く言うな、ぶっ殺すぞ。」
彼の声は静かだった。
しかし、奥底から威圧するような重低音だった。
太古の昔に忘れられた、禍々しい獰猛な本能が目覚めようとしている。
そんな気配が身体の内側から伝わってきた。
ジローは一瞬、気圧されたような表情を見せたが、その中にうれしそうな表情が混じっているように見えたのは、気のせいだろうか?
「こいつは重症だな。女なんぞろくなモンじゃねえぞ。まあいいさ、ちょっとした話でもしてやるよ。」
ジローはそう言うと、目を閉じて大きく息を吸い込んだ。
そして、息を吐き出すと目を見開いた。
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