10
その夜、彼は興奮しすぎて寝付くことが出来なかった。
昼過ぎにのろのろと起き出し、遅いブランチを食べた。
そして、クローゼットを開け、中に入っている服を眺めた。
しかし、すぐに閉じ、愛車のクロスバイクにまたがり出かけた。
外に出ると、何かに舞台を整えられているかのように晴天だった。
夏らしい入道雲があり、日がさんさんと彼の高揚感を煽っていた。
あぶらぜみたちも、これまでの土の中の7年間の全てを賭けるようにさかっている。
彼もまた落ち着くことが出来ず、心臓の鼓動が高鳴る一方だった。
こんな気分になったのは、一体いつぶりのことだろうか?
多分、恋に恋する中学の頃かも知れない。
いや、もしかしたら、初めてのことか?
近くのショッピングモールに到着し、すぐに浴衣売り場へと直行した。
色々な柄の浴衣がずらりと並んでいる。
しかし、彼はファッションとは別世界にいるので、どれがいいのかさっぱりと分からなかった。
結局、母親のような店員の進められるままにすぐに着替え、帯を締めた。
黒地に朝顔のようなピンク色の花が咲いているデザインで、おそらく無難なのだろう。
浴衣のさらさらとした肌触りが爽涼感を誘う。
そのまま買ってしまった。
とりあえず、これで完璧だ。
一度家に帰って、着替えた服を投げ捨てた。
そして、待ち合わせ場所である名鉄某駅に向かった。
しかし、待ち合わせ時間にはあまりにも早すぎた。
花火を見に行くにはまだまだ日が高い。
だが、彼はぼんやりと待ち続けた。
時間というものの概念を忘れてしまうほど、性欲がほとばしっているようだ。
いつの間にか、西日が差し始め、浴衣を着たカップルや家族連れが増え始めた。
しかし、彼はベンチの上であぐらをかいた態勢から微動だにしなかった。
だが、ついに彼は立ち上がった。
彼女の姿はまだ目に入ってはいなかったが、この中にいるということを動物的本能で嗅ぎ取ったかのようだった。
その場で押し倒してしまうのではないかという程、発情したケモノが彼の中でよだれを垂らしているのを感じる。
しかし、一瞬にしてこの好色なケモノは、空腹感を満たされた虎のようにおとなしくなってしまった。
つまり、彼女の浴衣姿を見ただけでオルガズムに達してしまったかのように、性欲が満たされてしまったのだ。
彼は立ち上がったはずのベンチに、いつの間にか腰を抜かしたかのように座り込んでいた。
僕は大和撫子という単語は、知識としては当然知っている。
しかし、改めて目で見て体感したこの瞬間、この単語の真の意味がついに分かった。
「あれ、早かったね?まだ約束の時間には早いと思うけど。どうしたの、そんな顔して。もしかして、似合ってない?」
彼女は心配そうに聞いた。
この男は一体どんなバカ面をぶら下げているのだろうか。
「え、いや、全然そんなことないよ。逆だって。似合いすぎててびっくりしただけだって。」
そう聞いて彼女は澄み切った笑顔になった。
「ありがとう。お世辞でも言われるとうれしいよ。」
彼はお世辞じゃないと言おうと口を開いたが、言葉が出てこなかった。
それにしても、彼女は内側から滲み出てくるような自分自身の美しさに気が付いていないのだろうか?
間違いなく、気付いていないだろう。
今までに彼女に出会った男たちは何をしていたんだ?
いや、責めることなど出来ない。
きっと、彼のように圧倒されてしまっただけだ。
まあ、フランス人だったら気の利いたことを簡単に言えるのだろうけど。
「ほら、ぼうっとしてないで行きましょう。」
彼女はまだバカ面をぶら下げている彼を促した。
彼はやっと、抜かしていた腰の神経をつなげ、立ち上がった。
そして、彼女と連れ立って歩いていった。
駅から花火を見る場所まで歩いていく途中にある屋台で、焼きそばやたこ焼きを簡単に食べながらゆっくりと向かった。
彼はこの花火大会のことは良く分かっている。
当然河川敷は人でごった返している。
かといって、人の少ない場所では良く見えない。
それならば、どうすればよいか。
近くのマンションにお邪魔させてもらうのだ。
本来はオートロックで外部の人間は入ることはできないが、入る方法などいくらでもある。
もっとも、それは誰にも教える気はない。
そんなことをしたら、無用心になってそこに住む人たちの迷惑じゃないか。
まあ、大方の人は少し考えれば、すぐに分かると思うが。
彼女は何度も彼を止めようとしていた。
しかし、彼は大丈夫だと言って聞かず、結局彼女も彼に従った。
すんなりと屋上にやってくると、すでに何人か来ていて話をしていた。
彼らがやってきた瞬間、その何人かはこっちを振り向いたが、すぐに話に戻った。
このように堂々としていれば、自分たちの知らない住人か、どこかの部屋の客としか思われない。
この日がイベントだから尚更だ。
しかし、悪く言えば、マンションというところはそれだけ人間関係が希薄だということになる。
彼と彼女は行儀良く黙って待っていた。
そして、一発目の花火が大輪の花のように夜空に咲いた。
彼女を見ると、小さくわあっと言うように素直に感動していた。
彼はこの場所が相変わらず良く見えて、ホッと胸をなで下ろした。
マンションの住人たちも、花火が上がり始めたことがわかり、続々と屋上に集まってきた。
人々は日々の辛さを忘れるかのように花火を楽しんでいた。
そして、花火が上がるたびに人々はそれぞれ好きな歓声を上げていた。
彼は一人だけ、花火に照らされる彼女の横顔に見とれていた。
彼らは花火が終わると帰っていった。
多くの人たちも駅に向かって歩いていた。
当然、電車内はすし詰め状態だった。
彼らは抱き合っているかのように、お互いに密着して乗る格好になった。
彼の手は一応、つり革にはつかまっている。
彼女の髪からは鼻をくすぐる仄かな甘い香りがする。
電車が揺れるたびに、彼女の形の良い胸が彼のみぞおちに軽く当たる。
その度に彼の心臓は暴れ馬のように飛び跳ねていた。
まるで、中学生時代に戻ってしまったかのようだ。
こんなにも純情な奴ではなかったはずだが。
それにしても、彼女といると知らない自分が次々と出てくることに驚かされる。
そして、自分が少しずつ変わっていくことも良く分かる。
でも、僕はこの時の自分が嫌いではない。
「今日は楽しかったよ。あんなにきれいに見えるところがあるなんてね。さすが、地元民。でも、不法侵入するなんてちょっと悪い子になっちゃったなあ。」
ここからでは彼女の表情は見えない。
それでも、明るい声の調子で本当に楽しんでくれたことは分かる。
「久しぶりだったから、今はどうなってるか分からなかったけど、あれだけきれいに見えてほっとしてるよ。」
「そうなの?それにしては堂々と入っていったじゃない。」
「それは当然女性に格好悪いところは見せたくないからだよ。」
「うれしいこと言ってくれる。」
彼女は少し言葉を区切った。
「ねえ、せっかくここまで来たんだから、あなたの住んでいるところを見たいわ。」
彼女はとんでもないことを言い出した。
それだけは彼女でも、いや彼女だからこそ断固として拒否しなければならない。
彼はやんわりとだが、きっぱりと断った。
しかし、彼は言った後で、彼女がどんな表情をしているのか気になり、胃が締め付けられた。
「そう、私じゃダメなんだね。」
彼女の声は、傷ついた子猫のように弱々しい気がする。
彼はますますうろたえ、何でもいいから言わなければというように言葉を発した。
「いや、今僕の住んでいるところが実家だからだよ。あいつらがいるからダメなんだって。そりゃ、僕だって普通の親兄弟なら気にもしないさ。でも、あいつらは普通じゃない。間違いなく、根掘り葉掘り言いたくないことも平気で聞いてくる。それだけでは飽き足らず、僕の過去の失態まで嬉々として語ることは目に見えている。」
彼は必死に弁解をした。
どれだけ見苦しい顔をしているか分からないが、見られる態勢でなくて良かった。
それだけ彼ははっきりと断りたいのだ。
だってそうだろう?
僕がこんな性格になったのは、一部ではあるがあいつらせいであることはどうやっても覆ることはない。
「へえ、どんなことをしたの?聞いてみたいな。」
彼女はいたずらっぽい声で言った。
「ほらそうなる。だから会わせたくないんだ。」
彼女はくすりと笑い、
「冗談よ。今日のところは諦めるわ。それにしても、今日のあなたかわいい。」
女性にかわいいと言われてうれしい男などいないと思うが、彼は彼女が諦めてくれてほっとため息をついた。
ちょうどこの瞬間に電車が止まり、気が抜けるような音を出してドアが開いた。
この駅で車内の人々が大量に吐き出された。
彼らはようやく一息つくことができ、空いた席に腰を下ろした。
彼女は彼の方を向いた。
彼がこの駅で降りなかったことを不思議に思っているようだ。
「あれ、あなたの家に帰るにはここで乗り換えるんじゃなかったっけ?」
予想通りの質問がとんできた。
「うん、家に帰るんならね。でも、ちゃんと君を家まで送っていくよ。」
彼は下心何てない、それが男の義務だと言いたかったのだろう。
「いいよ、そんなの。帰れなくなっちゃうよ。」
もちろん、こう言われることも大体分かる。
そんな意味をこめて言う男なんて、まずいないだろうから。
「ダメだって。夜道を女性ひとりで歩いていたら危ないよ。」
彼の口調は真面目に聞こえる。
「そんな大袈裟な。ここは日本よ?ヨハネスブルクじゃないんだから。」
彼女は彼の真面目さがおかしかったようだ。
軽く、笑い飛ばした。
「油断したらダメだよ。そう言って痛い目に会っている子を何人も知ってるよ。」
彼は諦めずに食い下がった。
まったく、ジローたちとのくだらない約束を果たそうとしている。
彼女はそんなことは知らず、少し考えていた。
「そう、だったらお言葉に甘えさせてもらおうかな。でも、本当はあなたの方が危険だったりして。」
彼女はふふふと笑い、彼の顔を覗き込んだ。
「大丈夫だよ。ああ、そうそう、ちょうどジローの家にも行く用事があるんだった。ああ、すっかり忘れてた。あっはっは!」
彼は不器用に笑ってごまかした。
やれやれ。
そういえば、ここでヘタレたっけ?
本当に情けない男だ。
その時、彼女が何かをつぶやいた。
何と言ったのか聞き取れなかった。
彼が聞き返してみると、彼女は何でもないと言って不機嫌そうな顔をしている。
何で急にそんな顔をするのだろう?
彼らは駅に到着すると、彼女のアパートへと並んで歩いた。
彼女はまだ不機嫌らしく、彼が何を言っても気のない返事をした。
さっきまではうまくいっていたのに、最後にこんなことになるなんて。
どうにかして機嫌を直してもらおうと、彼はそわそわとしている。
結局、何の決定打も出すこともできず、彼女のアパートへと到着してしまった。
そこに待っていたかのように、1匹の虎縞の雄猫が彼女に甘えた声で擦り寄ってきた。
「あ、トラ、ただいま。待っていてくれたんだね。」
彼女はそう言うと、しゃがみ込んでネコの首筋やあごの下をよしよしというように撫でていた。
トラと呼ばれたネコは、気持ち良さそうに目を細め首筋を伸ばしている。
「へえ、トラっていうんだ。かわいいねえ。」
と言って彼が近づこうとすると、トラは牙をむき出しにして威嚇してきた。
いきなりそんな態度を取られ、彼は固まってしまった。
「な、なんで……」
「あはは。きっと、私と一緒に帰ってきたからヤキモチを焼いているのよ。」
彼女は涙が出るほど笑っていた。
「まあいいさ、すぐに手なづけてやるよ。僕は動物には好かれやすいんだ。」
彼女はトラにおいでと言うと、トラはうれしそうに彼女の後を追いかけていった。
彼女の機嫌ももう元に戻っていた。
彼女が玄関のドアを開けると、トラはその隙間をするりと入っていった。
そして、彼の方を振り向き、勝ち誇ったような目を向けてきた。
彼は彼女におやすみと言って、駅へと戻っていった。
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