……ここはどこだ?

 僕は一体どこにいるのだろう?

 本当に死んでしまったのだろうか?

 ここが死後の世界なのか?


 それにしては、見覚えのある場所だった。

 三途の川があって、どうたらこうたらというのが、日本における死後の世界の通説のはずだ。

 それならば、これはどういうことだ?

 ここは、僕の実家、それも僕の部屋ではないか。

 さっきまでのは全て夢だったのだろうか?


 それにしては、おかしい。

 僕の視線はノートパソコンを見ている。

 道路を挟んで向かいにある建材業者からは、トラックに荷物を積み込んでいるフォークリフトの駆動音が聞こえてくる。

 これは、ごく当たり前の日常の光景だ。


 しかし、僕がおかしいと感じるのは、僕の身体が自分の意思で動いているのではないということだ。

 この意識は間違いなく、僕自身のものだ。

 これは、よくわかる。


 肉体についてはどうだろう?

 視界に入るこの肉体は、どうやら僕のようだ。

 顔を見たわけではないが、自分自身の肉体は忘れようがない。

 はっきりとは説明できないが、そうだとしか言いようがない。

 だが、はっきりと確信を持った理由は、画面に出ているSNSの内容だった。


『アニキ、オーストラリアで別れた後、オレは、心の故郷のインドに寄ってから、日本に来たんだ。アニキの地元は名古屋の近くだったよな?オレは今、名古屋でぼちぼち落ち着いてきたところだ。確か、今ぐらいに戻るって言ってたよな?そんなことで、とりあえず、連絡くれよ。 ジロー』


 これは、はっきりと覚えていた。

 つまり、これは僕の過去の記憶のようだ。

 なぜここからなのかはわからない。

 通常、走馬灯は人生のハイライトのはずだ。

 だが、考えたところでどうしようもない。

 

 とりあえず、この時の僕は、放浪の旅から帰ってきてすぐの頃だった。

 すぐとは言っても、戻ってきてから1ヶ月近く経っていたと思う。

 その間は特に何かをすることもなく、実家でごろごろと過ごしていた。

 だが、人生を捨てたかのように見える僕を見かねた働き者の父親に、3食ベッド付、時給千円という条件で家業を手伝わされていた。


 初めの数週間は怠惰な僕も、暇よりはいいだろうとおとなしく従っていた。

 しかし、そんな生活にも飽きてきた頃にこのメールが届いたのだ。

 このジローという男は、旅の途中で出会った男だった。

 だからこそ覚えている。

 この日に起こったことも。


 僕(もちろん過去の僕のことだ)は、読み終えるとすぐにジローにSNSの無料通話をかけた。

 一呼吸おいて、すぐにつながった。

 いきなり通話がかかってきたからなのか、少し警戒したような声だった。

 しかし、僕からだということが分かると、ジローの声は1オクターブ上がった。

 5分ぐらい世間話をしてからこれから会う約束をして通話を切った。


 自分の意思とは関係なく、肉体のみが動いているというのは奇妙なものだ。

 まるで映画でも見ているような、いや、ビデオカメラそのものになったかのような感覚だった。

 それにしても、この5分間は苦痛だった。

 なぜ、こんな中身のない会話を聞かないといけないのだ?

 聞きたくなくても聞かないといけないなんて拷問に近い。


 とりあえず、これで分かったことだが、僕には意識があっても決定権はない。

 視覚、聴覚はおろか、五感全てを共有している。

 いや、記憶にあるということか。

 その為、夢とは違い、あるがままを全て受け入れなければならないということだ。

 つまり、僕は何も出来ない、ただの傍観者にすぎない。

 この過去の僕もまた、僕が今こうして見ていることに気が付いていないようだ。


 とにかく、僕(僕とは言っても過去の僕のことだ。ややこしいのでここからは、彼としよう)は、ノートパソコンの置いてあるデスクから立ち上がると、色の落ちたTシャツとヨレヨレのジーンズに着替え、古くなったナイキのスニーカーを履いて、出かけた。


 外に出ると、もう梅雨は明けてしまったのか、日差しが強くなり始めていた。

 彼は、日のまぶしさに思わず目を細めた。

 セミの鳴き声が、開幕ベルのように鳴り響いていた。

 しかし、彼は全く気にもかけていなかった。

 これが、人生の終わりへの幕開けということに。


 いつの間にか、名古屋駅内にある世界的な有名コーヒーチェーン店へとやってきていた。

 本来なら、僕の最寄り駅から電車に乗って約20分かかる。

 それが、場面が切り替わるかのようにあっという間にここにいるということは、本筋とは関係のない部分はカットされるということらしい。

 それは、僕にとってはありがたいことだ。

 このまま延々とあの終わりまで続いたら、気がおかしくなってしまう。


 僕の意識が何を考えていようと、肉体を持つ彼には関係のないことのようで、店内へと自然に入っていった。

 元々、僕はこのチェーン店は好きではないが、待ち合わせにはちょうどよい場所だ。


 まだジローは来ていないので、空いている席に座り、薄いアイスコーヒーを飲んでいた。

 ただの記憶ではあるが、味覚まで覚えていているので、好きでもないものを飲むのは困ったものだ。


 そこに、あの男が入ってきた。

 まるで60年代からタイムスリップしてきたかのような男だ。

 僕はその当時を生きていたわけではないが、その当時の映像を何度か見ているので多少はわかる。

 あえて、誰かに似ていると例えるのなら、『イージーライダー』の頃のデニス・ホッパーに似ている。

 そして、男は彼の正面の席に座るなり口を開いた。


「お主はくだらない男だな。」

「……は?何だって?」


 彼は、不意に平手打ちを喰らったかのような素っ頓狂な声を出した。

 それもそうだ。

 突然見知らぬ相手から暴言を吐かれれば、誰だってこうなるだろう。


「お主だよ。いい若い者が平日の昼間からだらだらしているなんて情けないとは思わんのか?もう30歳だろうが。」


 男は言うだけ言うと、彼の飲んでいたアイスコーヒーの入ったカップを手に持ち、ストローから勢いよく吸い込んだ。

 それから顔をしかめて、そのカップをテーブルの上に捨てるように置いた。


「まだ29歳だ。大体、年なんて関係ないだろ。好きなように生きていて何が悪いんだよ。つうか、いきなり何だよ、あんた一体何者だよ?」


 彼はまだ声を荒げてはいないが、自分を抑えているかのような声だった。

 胃の辺りがムカッとするのを感じた。

 しかし、男は意に返すこともなく、鼻で笑った。


「好きなように、か。ふん、自由と自堕落の区別もついていない甘ったれが偉そうに。……まあいい、お主を論破することなど容易いが、今は話がずれておるな。私が何者かって?私は、神だよ。」

「何言ってやがる。ドラッグでもやりすぎて頭のネジがとんじまったか?」

 

 彼は息も出来ないほど笑った。

 これが普通だと思う。

 いきなり神だなんて言われても、誰も信じられないだろう。


「やれやれ、また生意気な小僧か。」


 神はうんざりしたかのようにつぶやいた。

 そして、何度も同じ口上を繰り返してきたセールスマンのように、どこか機械的にではあるが、すらすらと僕の生い立ちから家族構成、現在の状況まで言いあげた。


「そ、それがどうかしたのかよ。そんなのはインチキ占い師がやるように、事前に調べ上げてきたんだろうが。」


 彼は、そんな簡単にはだまされないぞ、とでもいうように強がりながらも、圧倒されてしまったかのように声が震えていた。

 だが、神はこの程度では満足してはいないかのようにさらに続けた。


「ふん、つくづく生意気なやつめ。それならば、これならどうだ?あそこのカウンターで注文している、冴えないデブの中年の男だ。どうだ、わかるか?」


 彼は、神に指示された方向を見た。

 彼がその男を発見したことを確認すると、神は先を続けた。


「どうやら、見つけたようだな。それでは、今から10秒後、そこのテーブルにぶつかり、近くに座っていて本を読んでいる神経質そうな女にアイスコーヒーをぶちまけるだろう。ついでに、その女にひっぱたかれて店から出て行くだろうな。」

「おいおい、そんなバカみたいなことが……」

「いいから黙って見ておれ。」


 神は言葉をぴしゃりと遮った。

 彼は言われた通り、黙って息をのんで見ていた。


 すると、神の言ったとおりに中年男はテーブルにぶつかり、アイスコーヒーの入ったカップは本を読んでいる、神経質そうな女の頭上へとまっすぐに飛んでいった。

 そして、見事に直撃すると中身のアイスコーヒーをぶちまけた。

 一瞬、その場の空気が止まったかと思うと、その女は耳が痛くなるほどのきいきい声でわめき、中年男の横っ面を思いっきり引っ叩いた。


 対する中年男は、この状況にどう対応していいかわからず、おろおろとうろたえるだけだった。

 結果、混乱した頭で導き出した結論は、この場から逃げ出すことだった。


 店内は、嘲笑や侮蔑で雑然としていたが、彼だけは正面の男を呆然と見つめていた。

 予言をしたのか、神の引き起こしたことなのかはわからない。

 だが、全ては、神の言ったとおりに事は起こった。


「どうだ、これで納得がいったか、ん?」

 神は、自信に満ちた目をしている。


「わ、分かった、あんたのこと、信じるよ。」

 彼は、どうにか途切れ途切れに答えることが出来た。


「でも、どうして僕の前になんか現れたんだ?」

「いい質問だ。実にいい質問だ。」

 神は、その言葉を待っていたかのように、悪そうににやりと笑った。


「だって、普通に考えたらそう思うだろう。災害で苦しんでいる人たちとか、病気で死にそうな子供とかいるじゃないか。そういう人たちに手を差し伸べるのが、あんたの仕事だろ?」


 神は、急に不機嫌な表情になったかと思うと、うんざりしたかのようにわざとらしくため息を大きくついた。


「全く、どいつもこいつも、私が現れるたびに、うんざりさせるような事ばかりほざきよる。私の仕事をお主たちなんかに決められてたまるか。神などいないのか、などとほざく奴がいるが、私はいる。私には関係ないと思っているだけだ。いいか、お主たちを創ったのは確かに私だ。だがな、その後のことなど知ったことか。問題など自分たちで解決しろ。元々、お主たちが勝手に作り出した問題だろうが。それを困ったときだけ神様助けてください、なんて都合がよすぎるのだ。お主たちは、今まで好きにやってきたのだ。私には知らん!勝手にしやがれだ!」


 神は、見境なく興奮しているようだった。

 顔は真っ赤になり、額には血管が浮き、テーブルをバンバン叩いている。

 彼はそう訴える神を見ていて、ふと目頭が熱くなってきた。


「何て無責任な。まるでわがままな子供じゃないか。」

「そうだよ、それが私だ。フハハハハ!」


 神はやたらと偉そうに高笑いをした。

 彼は平静を取り戻そうとふう、と一息ついた。


「それで話は戻るけど、何であんたは僕のところに現れたんだ?」


 確かに、それは僕もいまだに疑問に思っている。

 結局、僕はこの有様だ。

 神が現れたことに全く意味などないのではないのか?

 まさか、神が全てを仕組んだことなのだろうか?

 ……だめだ、余計なことは考えるな。

 今はこの記憶に集中しろ。


「おお、そういえばそうだったな。よいか、よく聞けよ。お主は、実に平凡な男だ。特に優れてもいなく、特に劣っているというわけでもない。普通の人間だ。そのくせに、怠惰で無気力な男だ。それでいて、何か面白いことが起きないかと期待だけはしている。自分から動こうとしないくせにな。そんな奴はただのクズだ。つまり、ただ単純にお主にムカついただけだ。そして、天罰を下すことにした。」


 明らかに不条理なまでに理不尽な言い分だ。

 ただの気分で天罰を下すとか、とんでもない神だと思う。

 だが、神の目は現れてから一番真剣だった。

 彼は間違いなく何かやる気だと思ったに違いない。

 身体が硬直した。


「あ、あなた様は本当に神々しくて、想像以上にすばらしく……。」

「媚びを売っても無駄だ、馬鹿者め!お主の想像力が欠如しているからだろうが!私が素晴らしいことなど、私自身が一番分かっておるわ!さあ覚悟しろ、小僧!」

「ちょっと待ってくれよ!そんなの理不尽じゃないか!だいたい、僕より怠け者なんていくらでもいるじゃないか!ジャンキーとかヒッピーとか引きこもりとか、それに悪い奴だって、連続殺人犯とかレイプ魔とか独裁者だって!自分の保身しか考えない政治家だっているじゃないか!そいつらはどうするんだよ!」

「そいつらにも天罰を与える日がやってくるかもしれんし、来ないかもしれん。それは、私が考えることだ。やれやれ、今度は他人になすりつけようとするとは。全く、お主は虫けらのような男だな。……ふむ、虫けらか。こいつはいい考えだな。お主は、ゴキブリにでも変えてやるか。虫けららしくな。フハハハ!!」


 神は実に楽しそうに声をあげて笑った。

 こうして見ると、神ではなく悪魔なのではないだろうか?


「それは勘弁してくれ。何でもするから助けてくれよ。」

 彼は、完全に泣き声だった。

 その時、神の目はぎらりと光り、こずるくにやりと口元をゆがめた。


「ほほう、そうか、何でもするか。それならばよかろう。私を楽しませてみよ。期間は、そうだな、私が次に、お主の前に現れた時までだ。それは、1週間後かも知れんし、1年後かも知れん。いつかは、私が決めることだ。とにかく、その時までに私を楽しませるのだ、よいな?それでは、私は帰る。」


 神は一方的に言うだけ言って、返事も聞かずに店から立ち去った。

 彼は、イスの背にぐったりともたれかかった。


 僕は、今の出来事を反すうしていた。

 もう一度追体験してみても、現実感はまるでなかった。


 記憶違いということはないだろうか?

 いや、それはないだろう。

 おそらく、この記憶は表層的なものではなく、深層的なものだろう。

 そうならば、あやふやなものではないだろう。


 だが、例えそうだとしても、この出来事が一体どういう意味をもっているのだろう?

 全ての不要な部分を削ぎ落とせば、きっとわかってくるのだろうか?

 まだまだ、全ては始まったばかりだ。


 急に視線が動くと、いつの間にかジローが来ていた。

 呆然としている彼を、不思議そうな顔をして見つめていた。


「どうした、アニキ?ぼうっとしちまって。ほらほら、ジローちゃんが来たぜ。」

 ジローはおどけて手を振っていた。


「たった今、神に会った。虫けらに変えてやるって。でも、楽しませたら許してやるって。」

 彼は、ぶつぶつと小声でつぶやいた。


「おいおい、何を意味のわかんねえ事言ってやがる。ハードドラッグにでも手出しちまったのか?」

 ジローは、不思議そうに眉をひそめていた。


「いや、何でもない。忘れてくれ。」

 彼はどうにか平静を取り戻した声を出した。

 そして、イスにしっかりと座り直した。


 それから、小1時間は話をしたと思う。

 オーストラリアの後、どこに行って何をしたとかいうどうでもいい類の話だ。


 この時のジローは、浅黒い顔に口ひげを生やし、細面の華奢な体つきをしている。

 日焼けをした狐といった感じだ。

 バックパッカーたちがよく着る、麻のシャツにタイのフィッシャーマンパンツという典型的な格好だった。


 この間は、全て簡単に省略されていった。

 そして、ジローは仕事があると言って席を立ち帰っていった。

 彼が、何の仕事をしているのか、と尋ねたら、そのうちに教えるよ、とジローは意味ありげにはぐらかすだけだった。


 彼は家に帰り、ようつべでお笑いの勉強をした。

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