パーフェクトワールド

出っぱなし

 なぜ、こんなことになってしまったのだろう?


 ただその後悔だけが、頭をよぎった。

 まるで全身が凍りついてしまったかのように、身動きひとつできない。


 呼吸をすることもままならず、口から小さく息をしていた。

 呼吸をしているはずなのに、すればするほど妙に息苦しく、めまいがしているのか世界が回り出してきた。

 これが過呼吸というものなのだろうか、と場違いにも冷静に考えたりもした。


 腋の下からは、すえた酸っぱい臭いが鼻をつく。

 そういえば、今日で三日間風呂にも入っていないことになるな、と関係ないことを考えてしまう。


 顔には無精ひげでも生えているのかな?

 間違いなく生えていることだろう。

 僕は、元々ひげが濃いので毎日剃らないとずいぶん目立つ。

 その為、面倒くさいので伸ばしっぱなしにすることもある。

 しかし、最近は毎日剃るようにはしていた。

 手間ではあるが、三日前まではきちんと身だしなみには注意を払っていた。


 それが今ではこの有様だ。

 人間、転落するときは早い。

 しかも、どこまで落ちていくかは誰にもわかりはしない。


 だが、何をもって転落と言うのかは、はっきりとした基準はない。

 辞書には一応、

 ①転げ落ちること。

 ②上位から下位に一挙に落ちること。

 ③堕落すること。

 などとあるが、②の上位だとか下位だとかは、抽象的なものだ。


 しかし、はっきりとした格付けのある世界では別だ。

 わかりやすいのはスポーツの世界だろう。

 これは、白黒はっきりしていてわかりやすい。

 完全に勝負の世界だから、成績がものをいうのは当然だ。


 だが、世間で言われている勝ち組だとか負け組だとか、それこそいい加減なものなのだと思う。

 勝ちだとか負けだなんて、ただの狭い世界の偏見に過ぎない。

 メディアにいいように煽られるだけの、自分の中に芯の無い有象無象の連中どもが好みそうな言葉だ。

 くだらない。


 ……まったく、僕は一体何を考えているのだろう?

 自分でもよくわからない。

 だが、いくらか気分が落ち着いてきた。

 僕は基本的に脱線した話が好きなタチだ。

 こういう余計なことを考えると気分が落ち着く。


 そういうことを言うと、ある程度の人間は僕を変人だと言う。

 だが、僕はそうは思わない。

 僕にとってはこれが普通なのだから仕方が無い。


 誰にだって少しは他人とは違う部分があるわけだから、そういうことを突き詰めれば、人類はみんな変人ということになる。

 僕の問題についてもその程度のことだと思う。


 ……やれやれ、また脱線しそうだ。

 僕がやらないといけないことは、今の状況を把握することだ。


 さて、僕は今、某県内では有名な心霊スポットの廃トンネル内にいる。

 そして、頭の後ろで手を組まされ、ひざまずかされている。


 トンネルの外からは、叩きつけるような雨の音と荒れ狂う風の音が聞こえてくる。

 台風十三号が予報通り直撃したらしい。

 じめじめとした湿気があり、重苦しい闇に絞めつけられるようだ。

 不吉な予感の情景としては、実に単純すぎる。

 しかし、現実にそうなってしまっているのだからどうしようもない。

 僕が自分で好き好んでこんな目に遭うわけが無いだろう?


 時間はよくわからない。

 間違いなく、夜であることだけはわかっている。

 トンネル内には、当然電気は通っていない。

 しかし、停まっている大型車のライトに照らされ、僕たちの状況が見える。


 まず、僕の左隣では体の大きいスコーピオンが、右隣では痩せ型のジローが同じようにひざまずかされている。

 この位置からでは二人の表情は見えない。

 だが、恐怖に引きつった表情をしていることぐらいは想像できる。


 そして、正面には苔むしたカベを背景にして、この光景を作り出している張本人の一人がいる。

 元米兵の黒人系マルコムが、ハンドガンを片手に持って立っている。


 僕は銃マニアではないから名前なんか知らない。

 銃は銃だ。

 引き金を引けば弾が飛び出す殺しの道具、それ以外の何物でもない。

 それだけ認識していればそれでいい。

 どんな種類でもまともに喰らえば致命傷なのだから何でも一緒だ。


 しかし、奴は油断でもしているのだろうか、タバコを吸おうと箱から一本取り出そうとしている。

 もう一人の元米兵の少佐はここからでは姿が見えない。


 銃を持った相手に動きを封じ込まれている僕たちのこの状況は、まるでアクション映画の一場面のようだ。

 それならば、これだけ冷静に物事を見ることの出来る僕は、ハリウッドのアクションスターといったところか。

 しかも、恐怖心など欠片もない。

 誰に扮すればいいのだろうか?

 絶対に負けないシルベスタ・スタローンになるべきか?

 それとも、「ダイハード」の時のブルース・ウィリスにでもなろうか?


 こうして考えていると、胸がわくわくしてきた。

 妄想の中では何でも出来るし、誰にでもなれる。

 僕は無敵のスーパーマンになることが出来た。


 しかし、僕の妄想は、突然断ち切られた。

 スコーピオンは、何を考えたのか、マルコムにタックルを仕掛けようとした。

 マルコムは、不意をつかれたのか、銃を持つ手の動きが遅れた。

 これはまさか、成功するのだろうかと思った。

 僕は、主役の座を取られてしまうということを気にしていた。


 しかし、乾いた銃声がトンネル内に響き渡り、スコーピオンの身体が右側に直角に吹っ飛んだ。

 まるでB級映画を見ているようにわざとらしく見えた。

 この三流の芝居に思わず吹き出しそうになった。

 どこからか映画監督が出てきてカットされるとさえ思った。

 だが、そんなことは当然なく、スコーピオンの周りには、赤黒い血だまりが広がりだしてきた。


 僕は、それを見て恐怖という名のウイルスが増殖され、じわじわと全身に伝わってきた。


 違う。


 僕は恐怖を感じない無敵のスーパーマンなんかじゃない。

 ただ単純に目の前のこの状況を認めず、感覚が麻痺していただけだ。


 そうなんだ。

 絶望的なんだ。


 僕たちの運命は、こいつらの気分次第でしかない。

 ふと気が付くと、いつの間にか全身が小刻みに震えていた。

 ようやく、現実が理解できた。

 しかし、あまりにも遅すぎた。


『バカな奴だぜ。』


 白人系の少佐は英語でそう言い、銃を構えながら車の陰に立っていた。

 マルコムが油断していたとはいえ、元々隙などなかったということか。


『このクソガキが!驚かせやがって!』


 マルコムが英語でそう叫ぶと、スコーピオンを蹴り上げた。

 スコーピオンがうめき声を上げたので、少なくともまだ生きていることだけは確認できた。


 もしかしたら、僕たちは殺されはしないのだろうかと思った。

 しかし、すぐにぬか喜びだと思い知らされた。


 マルコムが、目を血走らせながら僕の方に向かってきた。

 実際には目と鼻の先だが、近づくのに異常なまでに時間がかかったかのように思えた。

 それだけではなく、目の前のこの男が3mはあろうかという黒い悪魔に見えてきた。


 僕はもはや、縮尺も時間感覚も距離感も何もかも狂ってしまったようだった。

 これが、自分の死の確信を抱いた時に感じる恐怖か。

 全てがスローモーションだった。

 しかし、僕にはどうすることもできなかった。

 金縛りに遭ったかのように身動き一つ出来ない。


 そして、マルコムは緩やかに僕の眉間に銃口を突きつけた。

 僕は、命乞いの一言でも言いたかったが、口の中がからからに乾いて言葉は何も出てこなかった。

 正確には、言葉にならない声は出ていたと思う。


 こんな時に、映画や小説の主人公たちは堂々としているが、そんなのは嘘っぱちだ。

 もしいたとしても、特別なトレーニングを積んでいるか、そうでなければ、自分の生死に対して鈍感なだけだ。

 実際、僕のような素人は、金魚のように口をパクパクさせるのが精一杯だろう。


 そして、銃声が聞こえたような気がした。

 気のせいかもしれないし、本当に聞こえたのかもしれない。

 それはわからない。


 いずれにしても結局、僕が最期に思ったのは、ズボンの中が湿っぽいなあと思っただけだった。

 そして、僕の思考は肉体から引き剥がされ、何もない空間へと溶け込んでいった。

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