第26話 退職
引き継ぎ / 退職
1994年11月25日(金)午前9時30分に 労務課に退職願を出した川緑は 技術部の居室に戻り 担当業務の引継ぎ作業を始めた。
この日は 彼が松浦課長に退職の意を伝えてから2か月が過ぎていたが 彼の業務の後任が決まらずに 結局 吉永課長に仮引継ぎすることになった。
川緑が行った引継ぎ業務の1つは UVカラーインク等の樹脂材料のサンプル対応作業であった。
川緑は これまで使っていたサンプル台帳を開いて 台帳に記載する内容の説明を行った。
また 彼は インクサンプルの作製と梱包と発送の手順や控えサンプルの保管方法を説明した。
引継ぎ業務の1つは 川緑の担当するユーザーとの折衝履歴の伝達であった。
川緑は 事前にそれぞれのユーザーとの折衝の経緯を ユーザー毎に一覧表にまとめた資料を作成しており その資料を基に説明を行った。
引継ぎ業務の1つは 「UV硬化型樹脂の硬化性の研究」の継承であった。
川緑は 事前に研究内容を キングファイル一冊にまとめた資料を作成していた。
「UV材料硬化性の評価システム」と表題を付けたファイルには 「UV硬化型樹脂の硬化性の研究」を行った背景や 硬化の理論を形成する仮説や硬化の理論式の誘導についての詳細を記載していた。
吉永課長は ファイルを受け取ると「これは 少しずつ読ませてもらうよ。」と 言った。
川緑から吉永課長への業務引継ぎが一段落すると 今度は 松浦課長がやってきて 新規事業部のメンバーを対象とした退職記念講演を川緑に依頼してきた。
課長は「川緑さんの頭の中にあることを 全部話してくれませんか。」と言った。
この申し出を引き受けて 川緑は講演用の資料の作成に着手した。
講演用の資料を作っていると 今度は 川緑が実習担当した浜崎さんがやってきて 川緑に宿題を依頼してきた。
彼は 自動車補修塗料部に所属していて 自動車補修にUV塗料が適用できないかと考えていた。
彼は 自動車補修用のUV塗料の設計に関して 課題と考える事項の十数項をA4紙に記載したものを持ってきていて 川緑に その回答の作成を依頼した。
退職記念講演 / 会社を後にする
1995年1月16日(月)午後4時に 東西ペイント社の労務課を訪れた川緑は 石本課長から鍵を受け取ると 同社の独身寮の1室に入った。
昨年末に 川緑は 東西ペイント社の社宅から 福岡県にある新居に引越しており この日に 東西ペイント社へ退職の手続きのために移動して来ていた。
1月17日(火)午前9時頃 技術部の居室で 川緑が退職記念講演用の資料を 作成していると 居室内に人々の声が飛び交い ざわついてきた。
川緑が声のする方を見ると 技術のメンバーの数人が 関西にある業者との連絡が取れないと言い、また 神戸で大きな地震があったとの連絡が入ったと言った。
居室にいたメンバー等は 関西方面の関連部署へ連絡しようとしていたが 電話が繋がらず 先方からの連絡を待つしかない状況になった。
午後4時頃に 居室で身の回り品の片づけしていた川緑の所へ松浦課長がきて 彼に講堂へ行って退職記念講演を行うようにと言った。
川緑が講堂に入ると 演台の近くの席に 新規事業部の面々が座っていた。
演台に立つと川緑は 松浦課長に促されて 講演を始めた。
講演のテーマは「渉外技術部門での樹脂材料開発における問題点と対策」であった。
冒頭に 川緑は 事業部で働く技術者は ユーザーの要望を直接聞くことができる一方 ユーザー対応に膨大な時間を費やしており 樹脂材料の開発に必要な時間が 削られてしまい 事業部の開発競争力が低下している現状を「問題点」として取り 上げた。
川緑の経験から 技術者がユーザー対応に追われている時は 新規樹脂材料の開発を行うことや その開発に必要な技術を磨くことに時間をかけられないと述べた。
技術者が開発や技術力を磨くために時間をかけられないことは 新規事業に取り 組むチャンスが来た時に その案件にタイムリーに対応できないことを意味すると 述べた。
そのことは 事業部にとって大きな損失であり 他の事業部でも同じ状況であれば 会社全体では 大きな機会損失に繋がると述べた。
何より 技術者にとって 新しいことに取り組めない状態が長く続くことは 技術者を 夢が無く 将来に希望が持てない状況に落とし込んでしまうと述べた。
技術者がユーザー対応で最も多くの時間を費やすのは ユーザーサイドで発生する現行の樹脂材料や開発中の樹脂材料に関するトラブルへの対応であることを指摘した。
ユーザーサイドで発生する樹脂材料に関するトラブルには 色違いや樹脂表面の 仕上がり不良や性能不良や経時での性能低下等といったものがあると指摘した。
トラブル発生の情報が入ると 技術者はユーザーを訪れて 状況を調査し トラブル発生の原因究明と再現試験と対策検討を行い 結果をまとめてユーザーへの報告し その後の対応を協議するという一連の作業を行うことが常であると指摘した。
一つトラブルが発生すると その対応に多くの時間を費やすることになり 複数のトラブルが同時に発生すると とんでもないことになるのは 良くあることだと指摘した。
川緑は自分の経験から ユーザーサイドで発生する樹脂材料のトラブルの内の6割が その硬化が不十分であったことが原因していたと述べた。
開発品をユーザーへ供給する時は 硬化条件を明記した技術資料を報告するが それは特定の条件下のものであり ユーザーサイドでの使用条件と一致したものではないと述べた。
一方で ユーザーは 彼らが作る製品の生産性を上げるために 樹脂材料の硬化 時間をできるだけ短くしようとする傾向があると指摘した。
このような背景から 樹脂材料の硬化が不十分であることが原因でトラブルが発生することが多くあると指摘した。
樹脂の硬化性に影響する要因は数多くあり それぞれの要因について条件を変えた場合の掛け合わせの数は膨大なものとなるため ユーザーで発生したトラブルに対して 多くの要因を加味した再現試験を行うのは不可能に近いと指摘した。
以上の「問題点」に対する対策として 川緑は独自に進めてきた「UV樹脂の硬化性の研究」の推進を提案した。
彼は 樹脂の硬化性に関する知見を深めることが出来れば 硬化性に絡む樹脂材料のトラブルが発生しても それに迅速に対応することが出来ると述べた。
樹脂の硬化に関わる要因を知り それらの要因の効き具合を理解すれば 樹脂の 硬化の状態が樹脂の性能にどのように影響するのか また樹脂の不具合がどのように発現するのかを推測できると主張した。
樹脂の硬化性の知見を深めることは また 新規樹脂材料開発にも重要であると 主張した。
樹脂材料の開発において 樹脂に求められる特性は樹脂の硬化の状態に大きく関わっており、樹脂の硬化の状態を見極めた上で特性評価が行われるべきであり そうでなければ ユーザーの評価に耐えるものは出来ないと述べた。
一方 樹脂材料の硬化性に影響する要因は多くあり それらの要因を網羅した開発を行うことは不可能であると指摘した。
以上のような背景から 川緑は 樹脂の硬化状態を数値計算できるシステムの開発が必要と考えて システム開発の基になる「UV樹脂の硬化性の研究」を進めてきたと述べた。
川緑は「今後 樹脂材料の開発技術力を向上させるために考えていたことは 樹脂の硬化性と特性とを紐付けする理論の研究です。」と言った。
川緑は「この理論を基にした技術基盤を構築することができれば きっと 新規 事業に繋がるものと考えています。」と主張した。
最後に「もう これ以上は言いません。後は皆様にお任せします。」と言って川緑は話を終えた。
1月20日(金)午前8時30分頃に出社した川緑は 技術部の居室で 私物を 段ボール箱に詰めた。筆記用具や事務用品や専門書と、これまでに交換した名刺を 段ボールに詰めて宅配便に出した。
元実習生の浜崎さんから頼まれていた宿題 「自動車補修へのUV樹脂の適用に ついて」十数問への回答をA4紙8枚に手書きして彼に手渡した。
その後 労務課へ行き 労務課の窓口で係りの人に健康保険証と社員章を渡し 年金手帳と被保険者証を受け取った。
午前11時30分頃に 退職の手続きを終えた川緑は 技術部の居室の入り口付近で 職場の人達に退職の挨拶を行った。
彼らは 川緑を丸く取り囲むように集まり 見送った。
川緑は 東西ペイント社を後にした。
完 / 「電気メーカーで働く/川緑 清」https://kakuyomu.jp/works/1177354055481708520 に続く
塗料メーカーで働く /樹脂材料技術者 川緑清 @ykiyo
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます