第25話 転職活動

   中途採用試験  /  転職活動


 8月12日(金)午後3時40分頃に 川緑は福岡市の九州杉下電気社 材料部品研究所を訪れた。

この日に川緑の中途採用試験のための研究所の所長面談が予定されていた。


 研究所の井芹氏は 川緑を出迎えると「お待ちしてました。直に 所長が来ますので こちらでお待ちください。」と言って応接室へ案内した。


 応接室で待っていると 50歳台後半くらい 小柄で細身 白髪交じりの頭に 笑うと顔中がしわになるような 人懐っこい感じの男性がやってきた。     


 交換した名刺には 材料部品研究所所長 柏木 とあった。

 

 応接室のテーブルに向かい合って座ると 所長は「フランクに話をしましょう。」と言った。   

その言葉に促されるように 川緑は 持参した履歴書を渡し、それに沿って彼の業務経歴についての話を始めた。         


 川緑の話が終わると 所長は「日本の将来のためには 異業種間の交流が もっと自由に行われなければいけない。」と言った。                                     


 「日本の将来のために」という言葉に 川緑は 柏木所長の志の高さを感じ また彼が務める九州杉下電気社のすごさを感じた。 


 最後に 入社の意思を問われた川緑は「御社の新商品開発に 樹脂材料技術面で お役にたちたいと考えています。 ぜひ 私を採用して頂きたいと思います。」と告げた。



 9月12日(月)午前8時30分に 九州杉下電気社の正門に着いた川緑は 受け付けを行い 守衛さんに採用試験を受けにきたことを伝えた。  


 守衛さんの指示に従い 厚生棟の2階の試験会場に入ると そこには人材開発部の牛島課長と中途採用試験の受験者等が着席していた。


 川緑が着席すると 牛島課長から 本日のスケジュールの説明があった。 


 午前9時に採用試験が始まり 一般常識テストと 適性検査が行われた。


 午後になると 受験生等は個別に応接室に案内され そこで人事面接を受けた。            


 川緑が応接室に入ると 面接官が2人椅子に座っていた。           

面接官は 2人とも太めでがっちりした体形のスポーツマンタイプであり まったく同じ暗い紺色のスーツと黒っぽいネクタイをしていた。                        


 一人の面接官が「自分自身をPRしてください。」と言った。                     

面接官の問いかけは 川緑が想定していなかったものであった。


 人事面接が終わり 控室に戻ると 川緑は 牛島課長に呼ばれて別室へ入った。      

牛島課長は「もし採用ということになりましたら 2週間後くらいにご自宅へ通知が届きます。 通知が届きましたら その日から2週間以内に 当社に転職されるかどうかの連絡をください。」 と言った。



 午後3時頃に 中途採用試験が終わり、川緑は試験会場を出た。       


 外へ出ると 川緑は頭の芯が熱を持っているような妙な疲れを感じた。 

その疲れは 採用試験を受けて緊張したこともあったが それだけではないような感じがした。 


 今の会社を辞めるために 中途採用試験を受けにきたが 試験が終わった後に川緑は「やれることはやった」という気分にはなれなかった。



 9月14日(水)午前10時頃に 部長会議から技術部の居室に戻った米村部長は「今週中に各自の机と実験台を片付けるように。」との平田副本部長の指示を 技術部のメンバーに伝えた。


 川緑の机は 新規事業部内で 最も散らかっていた。            


 事業部の課長等は 彼の机を見ても これを片付けるようにと言うことはなかった。   

米村部長は 時折「もうっちょっと、なんとかならんかいな。」と言ったが、それを強いることはなかった。

平田副本部長は 机の横に来て 技術部のメンバーに向かって「私は ここへきて以来ずっと 机を片付けるように言っている。」と大きな声で言っていた。


 この日 川緑は 半日かけて徹底的に片付けを行った。                        

机や実験台を片付けながら 川緑は「立つ鳥跡を濁さず」の言葉を思い出し できるだけ身の回りを綺麗にして、この会社を辞めようという気持ちを強めていった。



   辞職願  /  退職意思の確認


 9月24日(土)午前11時頃に 社宅の郵便受けに九州杉下電気社の牛島課長から封書が届いた。


 川緑が封を切ると 中に3枚の書類が入っていた。                 

1枚は採用通知書であり 1枚は採用に当たっての待遇と記された書類であり 残りの1枚は入社承諾書であった。 


 採用に当たっての待遇には 入社後の勤務地と所属部署と業務内容に関する記載があり また給与に関する記載や転居のための手当てに関する記載があった。



 9月27日(火)午後7時30分頃に仕事を終えた川緑は 会社に隣接する単身赴任寮へ向かい 上司の松浦課長を訪ねた。                             


 今年度より 松浦課長は営業担当課長から技術担当課長となり 単身赴任寮に移ってきていた。

単身赴任寮は 二階建ての作りであり 松浦課長は2階中央の1室に入居していた。


 川緑は 入り口のドアをノックし 出てきた課長に「お邪魔してもいいですか?」 と言った。     

 

 課長は彼を中に入れ 畳の間に座らせると グラスを用意し 氷とウイスキーを出してくれた。    グラスを手にした川緑は「言いにくいんですが 実は会社を辞めることを決めています。」と切り出した。


 課長は 間をおかず「そう言われたんは 川緑さん あんたで6人目や!」と言った。  


 松浦課長は 東西ペイント社に中途入社で入っており 彼自身の経験からか「そう決めたんなら 理由も聞かないし 引き留めもせんよ。」と言った。



 9月28日(水)午前10時頃に 川緑と彼の前の上司の吉永課長は 都内の水天宮にあるロイヤルパークホテルに来ていた。


 この日に UVランプメーカーのケラリー・ジャパン社が主催する技術セミナーが開かれ、彼等は 同社からの招待状を持って来ていた。


 技術セミナーには 同社の顧客や関連の企業の技術者等が100名程やってきていた。 


 セミナーでは ケラリー本社の技術者等が開発した新しいUVランプの特性や 開発品ランプを用いたUV硬化型樹脂の露光実験に関するデータの報告が行われた。


 セミナー会場からの帰りの電車の中で 川緑は吉永課長に「吉永さん 実は会社を辞めることにしています。」と伝えた。                                  


 彼は 特に驚いた様子もなく「僕も 会社を辞めたくなってきた。」と言った。



 9月29日(木)午前8時頃に 川緑は通勤路の途中にある郵便ポストの前に止まり 九州杉下電気社 人材開発部の牛島課長宛てに採用の承諾書が入った封筒を投函した。 


 承諾書を投函する作業は 採用試験や面接を受けたことに比べると造作もないことであったが 川緑はその簡単な作業が自分や家族の人生を変えてしまうものだと感じた。 


 将来 川緑は その作業が どういう選択だったのかを振り返ることがあるだろうが 少なくとも現状の自分で自分を苦しめるような状況より悪くなることはないはずと思った。


 この日 帰宅した川緑は 彼の上司だった 川上課長と森田課長と 松頭産業社の菊川課長に 彼の退職を伝える手紙を書いた。



 9月27日(火)午前10時頃に 川緑は 朝の部課長会議から戻った 松浦課長をつかまえると「私の退職願いの件は どうなってますか?」と尋ねた。


 川緑が退職の意思を彼に伝えてから1か月以上過ぎていたが まだ彼の退職日は決まらずにいた。


 松浦課長は「実はでんな 営業の城山部長から君の退職日を できるだけ遅らせてくれと言われとりますんや。」と言った。 


 課長の話によると 退職日を遅らせる理由の1つは 川緑の技術を引き継ぐ相手が見つからないこと

であった。


 川緑の業務は 彼が受け持った3人の実習生を除くと 殆ど1人で担当していたために 彼の仕事の内容を理解して受け継ぐことができるものがいないとのことであった。


 退職日を遅らせる理由の1つは 時間がたてば 川緑の退職の気持ちに変化が生じるかもしれないとの予想からであった。



 11月7日(月)午前8時30分頃に 川緑は米村部長に呼ばれ 彼の後について会議室へ入った。


 会議室の奥には城山部長が椅子に掛けており 川緑の方を振り向くと「どうだね 気持ちは変わらないかね。」と言った。                                          


 「はい。」と答えた川緑に 部長は「君の気持ちが変わらないことが分かったので 今後は労務の方と話を進めてくれ。」と言った。


 居室に戻った川緑は 労務課の石本課長に電話して「私の退職のことについて ご相談があります。」と言った。                                           


 課長は 万事承知していたようで「よければ これからそのことについてお話ししましょう。こちらへ来てもらえますか。」と言った。



 労務課の会議室に入ると 石本課長は 前置きなく 退職の段取りについて説明を始めた。


 説明を聞いていた川緑は 彼がこのような対応に慣れていると感じ 同時に 多くの人たちが会社を辞めていったのだろうと思った。 

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