第24話 転機

   技術部の仕事 / 新規事業部の方針


 1994年3月2日午後1時に 新規事業部 技術部の会議室にUVカラーインクの関係者等が集まり 来年度の方針打ち合わせのための会議が開かれた。


 会議には 松頭産業社より野崎部長と菊川課長が参加し 新規事業部営業部から松浦課長が参加し 技術部から米村部長と吉永課長と川緑が参加した。


 中肉中背、面長な顔に黒縁の眼鏡を掛けた松浦課長は 北野係長と代わって今年から新規事業部の営業を担当していた。


 会議が始まると 最初に菊川課長から電線メーカー各社の光ファイバーの生産について 現状と今後の予測が示された。


 彼は 現状報告の中で 電線メーカー各社が光ファイバーの生産性向上のためのUVカラーインクの開発を完了し製造仕様をフィックスしたことと、今後 電力会社向けの光ファイバーの生産も行われることと、それに伴いUVカラーインクの受注が増加する予測を示した。


 菊川課長の報告が終わると営業部の松浦課長は「新規事業の創出というんでは 光ファイバー用UVカラーインク開発のミッションは終了したわけでんな。」と言った。


 松浦課長はそう言うと 来年度の技術部のチームの体制について説明を行い その中で 光ファイバー用樹脂材料開発チームは 吉永課長が異動して 川緑の1人体制となると言った。


 この発言に対して 菊川課長は「川緑さんは既にパンクしてますよ。 この体制じゃユーザー対応は無理ですよ。」と言った。                                        


 川緑は「今は 新タイプUVカラーインクの量産立ち上げ中です。吉永課長が抜けると業務が混乱します。」と言った。


 そう言いながら川緑は事業部の責任者等が決めた人事のことは 一担当者がどうこう言ってもどうにもならないものだと思った。



 会議の最後に 川緑は今後の光ファイバー用樹脂材料開発チームの取り組みについて述べ その中で 樹脂材料開発のための新しい技術基盤の構築を提案した。 


 川緑は「今 うちには 共同研究で得た UV硬化の理論があります。この理論を基にした 新しい技術基盤を構築すれば きっと 次の新規事業の創出に役に立つはずです。」と主張した。


 彼の提案は これまで構築してきたUV硬化型樹脂の硬化の理論を基に硬化物の機械的強度を数値計算するためのシステム開発であった。 


 話を聞いていた米村部長は「おまえは どうして そう難しいほうへ難しいほうへと話を持っていくのかいな。」と言った。

 

 そのコメントには答えず 川緑は そのシステム開発のために 樹脂の硬化物の微小なエリアの機械的強度を測定する研究装置が必要であることと その装置の価格がおよそ3000万円することを伝えた。

 

 川緑の話を聞いた米村部長は「あかん あかん! それは技術部の仕事や無い まだターゲットも決まっとらんのに そんな装置買えるわけないやろ!」と言った。



 15時頃に会議が終わると 川緑は研究本部 合成研究所へ向かい 島崎課長を訪ねた。


 島崎課長は 以前に川緑が開発を担当した人工衛星アンテナ用塗料のベース樹脂の開発者であり 川緑は 彼が「君の仕事で 俺に何かできることがあったら言ってくれ。」と言ったのを思い出していた。


 課長を見つけた川緑は「島崎さん 研究設備のことで ご相談があるんですが。」と言うと 先の機械的強度測定装置を研究所の来年度の予算で購入検討頂けないかと持ちかけた。


 課長は「それは君の仕事に必要な装置なんだな。 わかった 研究所内でもその装置が必要かどうか皆に聞いてみるよ。」と言った。



 3月5日午後2時頃に 川緑が研究棟の渡り廊下を歩いていると 島崎課長が声をかけてきた。


 「おい 川緑君 この前の研究設備投資の件ね。あれ 関係部署に当たってみたけど だめだったよ。」と言った。


 また 彼は「君は 平田部長を怒らせたのか。彼には気をつけろよ。 もし何かあったら 俺のところに相談に来いよ。」と言った。


 川緑は「研究設備の件は お手数をお掛けしました。 ありがとうございました。」と言って頭を下げると また歩き出した。


 歩きながら川緑の脳裏には 研究設備購入の検討依頼の件が 新規事業部の責任者等へ伝わって 彼等に その検討依頼を止められた様子が思い描かれた。


 川緑は 彼が提案した技術基盤構築のための新規研究テーマが 新規事業部の方針に沿ったものではないことと 技術部では取組むことができないテーマであることを実感させられた。


 同時に彼は 以前に東京駅地下街の居酒屋で 菊川課長が 「知り合いの腕の良い技術者達が 自分達のやりたい仕事が出来ずにいましてな。」と言ったのを思い出した。


 川緑は どこの会社でも同じような目にあっている技術者がいるのだろうと思った。



   採用試験を受けてみませんか / 電気メーカー案件


 4月13日午前11時20分羽田発のJAL359便に乗った川緑は 福岡空港からタクシーに乗り 15分くらいで九州杉下電気社へ着いた。 


 九州杉下電気社は 電気製品の製造販売を生業とする企業で九州の各県に事業所を構えていた。


 川緑は5階建ての技術棟ビルの2階にある材料部品研究所の入り口に着くと そこに設置された社内電話で井芹氏に電話して彼の到着を伝えた。     


 暫くして出てきた井芹氏は「どうも お待ちしてました。」と言うと 川緑を会議室へと案内した。


 井芹氏は20歳代後半 小柄で丸顔、人懐っこい感じの表情をしていた。          


 彼は 数年前に兵庫県伊丹市にある日菱電線工業社からこの会社に転職してきていた。

以前に務めていた会社で 彼は光ファイバーの開発を行っており 川緑とは面識があった。


 井芹氏が川緑を呼んだのは 開発中の新規光学デバイスに必要な新規樹脂材料の開発を依頼するためであった。


 彼は「最終の製品については 今は言えないんですが。」と前振りして その製品に用いるデバイスについて そのイメージ図を示しながら説明した。                          

図示されたものは、数cm角サイズのガラス板上に設けられた樹脂製の光回路であった。      


 彼は「光回路開発のポイントは樹脂表面の屈折率のコントロールです。」と言い 川緑に光回路を作るために必要な特性を持つ樹脂材料の開発を依頼した。


 今回の案件が 将来 新規事業に繋がるものかどうかは分らなかったが 川緑は それが技術的に経験しておくべき案件であると考えて「納期に合わせて 樹脂サンプルを準備します。」と答えた。



 4月27日午後4時頃に 九州杉下電気社の井芹氏と松頭産業社の菊川課長と川緑は 東京駅で 合流し 松頭産業社のオフィスに向かった。            


 松頭産業社の会議室に入ると 菊川課長と井芹氏は名刺交換を行い 井芹氏から依頼があった光回路の開発に関する打ち合わせに入った。


 午後8時頃に打ち合わせが終わると 3人は 会社近くの飲食店へ入り夕食をとることにした。


 飲食しながらの話になると 先ほどの会議室での話に比べて 更に詳しい話が聞けた。 


 井芹氏は「話は変わりますが 九州杉下電気社の社員は 90%以上が九州出身者です。」と言った。 


 菊川課長と川緑は それぞれ鹿児島県と熊本県の出であり 九州という言葉の響きには 何か特別なものを感じていた。


 井芹氏は「社員の3分の1は中途採用者です。 うちの会社は 中途採用者でもっている会社です。」 と言い「川緑さんも うちの採用試験を受けてみませんか。」と言った。


 「それは 本気で言ってるんですか?」 と聞き返した川緑に 彼は「うん。」と言った。 



 午後11時頃に菊川課長は飲食店の支払いを済ませて店を出た。


 二人になると 井芹氏は 会社の待遇や所属部署の話をし「川緑さんに 中途採用試験を受けて頂くということで 話を進めていいですか?」と聞いた。                 


 川緑は「はい そうしてください。よろしくお願いします。」と答えた。

川緑は 井芹氏の話に乗り 九州杉下電気社の中途採用試験を受けようと思った。      



 帰宅途中の電車の中で 川緑は これまでの東西ペイント社での業務経験を振り返っていた。


 東西ペイント社で技術職として働いてきた約13年の間に 多くのユーザーと関わり 他社と競合しながら色々な商品の開発に携わってきた。                             


 会社には 塗料やインク等の樹脂材料の開発のベースとなる樹脂を作るための合成技術や 着色のための顔料分散技術や ユーザーのニーズに応じた機能を付与するための設計技術や 製品を作るための製造技術や 出来上がった製品の品質を保証するための分析や検査技術等であった。


 川緑の経験によると 一度 新規事業をめぐって競合他社との新規樹脂材料の開発競争が始まると これまで会社が構築してきた技術を基に 激しい戦いを交えることになった。 


 激しい開発競争の後に ユーザーに採用される新規樹脂材料は1社か2社が開発したものであり 他の会社で開発を進めてきたものは日の目を見ることはなかった。


 この様な開発競争で勝ち残るためには 常に独自の技術基盤を構築していくことが必要だと 川緑は感じていた。                                               


 川緑の様に開発体制が貧弱な組織では 独自の技術を構築しなければ他社に勝てる戦略が立てられないと感じていた。                                         



 また川緑の経験によると 現行樹脂材料の改善や新規樹脂材料の開発を行う中で 多くのユーザートラブルに直面し対応に追われてきた。         


 ユーザーで発生するトラブルの原因の6割は 樹脂材料の硬化が不十分なために 樹脂が持つ本来の性能が発揮できずに引き起こされたものであった。


 樹脂材料の硬化に影響する要因は多くあり 自社とユーザーでの樹脂材料の硬化条件を同じくすることは出来ずにユーザートラブルになるケースもあった。


 一度ユーザートラブルが発生すると その対応の作業に 多くの時間と費用が掛かり それは本来の開発業務を大きく制約してきたことは間違いなかった。


 そこで川緑は 樹脂材料の硬化性の研究を行うことにより ユーザートラブルを少なくし 同時に 新規樹脂材料の開発に役立てようと考えてきた。


 しかし 川緑のそのような考えに基づく新規研究テーマの提案は 新規事業部の責任者等に認められなかった。


 これまでの業務経験を振り返った川緑は 今の会社に これ以上いても仕方が無いと思う気持ちが強くなっていった。

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